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ミチル

作者: 木村アヤ

 ミチル



 僕の名前はミチルで、君は全く覚えてなんかいないだろう。僕は君と会ったことがあるというのに、君はどこで僕の顔を見たことがあるのかすら忘れてしまっているだろう。僕らが出会ったのは高架鉄道の橋の下で、君は捨てられた猫の入った箱の前で涙にくれていた。僕が後ろに立ったことすら気づかずに、君は鼻をすんすん鳴らしていた。僕が「ねぇ、どうしたの、君」と聞くと君は振り返った。ここで僕は初めて君の顔を見たわけなのだが、君の顔はとても美しくて、まるで玉のようだった。

「僕の家では飼えないんだ」

 君はそう言って、猫をじゃらしに戻った。それは涙の遊びだった。ざあと雨が降っていた。僕は傘を持ち直した。

 ねぇ、君、そんなに猫が好きなの?

 君はうなづいた。

「昔から近所の野良猫に餌をあげるのが好きでね。やっと猫を買って来たんだが、両親が飼うのは絶対に無理だっていうんだ。野良猫に餌をあげるのは別にいいけど、飼うのは許さないって。そんな余裕ないからって。初めてアルバイトの給料をもらって、つい、親の同意も得ずに行動しちゃってさ。しょうがないよね」

「じゃあ、その猫は君がペットショップから買って来た猫なのかい」

「そうだよ。ここに置いておけば、誰かが連れて行ってくれると思って」

「僕が飼おうか」

「え、いいの?」

「いいとも。僕の家には空いた犬小屋があるから、大丈夫だと思うよ」

「そうなんだ。でも猫は家の中で飼わなきゃだめなんだよ」

「平気さ。親も喜ぶよ。たぶんね。月が表を見せている限りはね」

 それで僕は君からもらった猫を家に連れて帰って、親に見せた。友達が飼えなくなったから、うちで飼いたいんだけど、と言ったら、二人そろってあっさりと認めてくれた。そういうところが寛大な両親である。ペットショップから買って来たばかりの子猫なので、大人しいし、毛並みもきれいだった。全然雨に濡れていなかった。


                 左


 翌日、自転車で五分くらいの所にある大型の古本屋の漫画コーナーで、棚に置いてある本を片っ端から立ち読みしていると、遠慮がちに後ろから肩をたたく人がいた。僕がびくびくしながら振り返ると、君が笑っていたので、安心した。それでもすぐに、こんなところを見られたという恥ずかしさが湧いてきた。僕らはエスカレーターの踊り場まで移動した。本棚の間で話すのがはばかられたからだ。

「どうだった?」

 踊り場まで付くとやいなや、君が聞いてきた。

「問題なかった。飼えるよ」

 僕がそう答えると君は勢い込んで、

「それは本当によかった。猫の様子はどう?」

 と尋ねた。

「砂とか、マットとか、色々と必要なものもあるでしょ」

「ああ、そういうものはとりあえず、インターネットで検索して、昨日の夕方、近所のホームセンターから買って来たよ」

 君は無表情になって、へーすごいねと言った。

「そうだ。連絡先、交換しておかない? そうすれば、君も来たいときに来れるでしょ」

 そういって僕はスマートフォンを出した。しかし、君はニヤッとして言った。

「携帯電話持ってなくって、家の電話番号だけどいい?」

「もちろんもちろん」

「***―+++―####」

 僕はメモ帳に打ち込むと、自分も電話番号を言おうか尋ねた。君は今思いついたという様子で、あっ、と言って

「僕、パソコンは持ってて、メールアドレスも教えるから、そっちに送っといてくれない?」

 おっけー、と僕は電話番号の下に言われるままに英数字を打ち込んだ。

 そこで何を言ったらいいのかわからなくなった。このまま別れる流れだろうか? 

「ねえ、君……って本読むの?」

 ん? と思ったら話を振って来た。本って……ああ、ここが古本屋だからか。当然だね。漫画は定義上は当然本のくくりには入るんだろうが、本って感じじゃないからなあ。僕らの中では本って言われたら、小説、というのが相場は決まってる。

「読むよ」

 で、まあ読むんだなこれが。それも夏目漱石からドストエフスキーまでを読んじゃう読書青年なんだな、実は僕ことミチル君は。

「へえ、すごいね。僕なんか全然読まないよ。運動ばっかりさ」

 じゃあ、何で古本屋に来たんだ?

「いや、実はテニススクールが始まるまで時間が開いちゃって、漫画でも立ち読みしようと思ったら……」

 ああ、そうなのか。そういう理由で立ち読みをするやつもいるんだな。ちなみに僕は大体暇つぶしだ。あんまり変わらないか。

「それにしてもここ来るの久しぶりなんだけどさ。驚いたのが……」

 そう言うと口を僕の耳に寄せてきた。君は背が低いから、少し背伸びをするようになった。それでもまだ僕の耳には十センチほどの隔たりがあったので、僕は背中をかがめた。

 こうして背の高い人は猫背になる。日常生活で背中を曲げることが多いから。背中を曲げないと家を出れない人の気持ちを考えたことのある、背の低い人はおそらくあんまりいまい。背中を伸ばしても、背の高い人にばかにされていると感じる、背の低い人の気持ちを考えたことのある背の高い人は一定数いると思うけれど。

「女性向け漫画コーナー、結構広くなったね」

 確かに。いまや女性向け漫画コーナーが、少年向け漫画コーナーと同じくらいの面積になっている。売り場を少年向け、成人男性向け、女性向け、で三等分している感じだ。

「女性の立ち読み客も三十人くらいはいるよね」

 高校生や年をとっていても三十代くらいに見える人たちが、女性向け漫画コーナーの前で、思い思いの漫画を手に取って、背中を丸めて読んでいる。電車の七人掛けのシートに、それぞれ5人ずつ座った車両の中、という感じだ。ちなみに男性向けの方は、手すりにつかまっている人がちらほらいる――つまり、一列に収まらず、後ろに飛び出している人がいる。

「ところで君さ」

 と、君はもったいぶって聞いてきた。

「居場所泥棒って、知ってる?」

 なんだそれは。僕は「居場所泥棒?」と聞き返した。頭の中で漢字には変換されたが、具体的な概念が思い浮かばない。

「そう、居場所泥棒。最近流行ってる都市伝説なんだけど」

 君曰く。

 居場所泥棒はある人間の、集団内での居場所を、奪う、らしい。

「例えばキャラをかぶせて来たり、普段は自然とその人がやることになっている仕事なんかをさり気なく先に取っちゃったりして、その人に自分らしさを発揮する機会を奪う人達がいるんだ」

 へー。つまりドラえもんがドラミちゃんにポジションを奪われたみたいな感じか。

「そう。ドラミちゃんがちょっとドジだったりしたら、もう完全な互換だと思うけど。それはともかく、僕はその居場所泥棒になりたいんだ」

 居場所泥棒……、そこはかとなく邪悪な響きもあるのだが、大丈夫だろうか。まあ、昨日会ったばかりのこいつの心配をするはちょっとおかしいか。

 というか名前も知らない。

「それは、よくないんじゃない?」

 でも言ってみた。

「いいんだよ……。細かいことは気にするなって。これは復讐なんだし」

「復讐?」

「そう、美術部を追い出された、復讐」

 詳しい話は本筋から外れるので端折るが、要するに君は美術部の先輩から、陰口を言われたり、作品に関する不当な批評を受けるなどの精神的ないじめを受けて、美術部をやめざるを得なかったというわけらしい。

「だからといっていじめ返すのも、卑怯者のやることだと思うから」と君は言った。

「いやでも、居場所泥棒って言っても具体的には何をするの?」

「簡単なことだよ。少なくとも簡単という文字を書くよりははるかに簡単。例えば、その先輩がAKB48の神7の名前を全員言えたら、僕はAKB48全員の名前を言うとか、先輩がそこそこ面白いジョークを言ったら、僕ははるかに面白いジョークを言うとか、そんなことでいいんだ」

 簡単という文字よりは難しそうだったけど、そういう事なのか、と僕は思った。実を言うと、居場所泥棒という意味もよくわかっていなかった。

「陰ながら応援するよ」と僕は当たり障りのないことを言った。正直なところ、成功するとは思えなかった。


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 ところでさ、と君はまた話を変えた。

「宇宙って、無から生まれたって知ってた?」

 全然関係ない話だな、と思いながらも、聞いたことはあるね、と言った。

「無の揺らぎからビッグバンが起こったんでしょ?」

「そうそう。そのことから考えるとさ、無こそが、本来僕たちのあるべき姿だったんだと思わない?」

 僕はよくわからなかったのでそのまま黙って聞いていた。

「ほら、エヴァンゲリオンのラストでさ、シンジがすべてが一つになった世界を拒絶するじゃん。『僕は君ともう一度手をつなぎたい』っていってさ。他にも鋼の錬金術師では『一は全、全は一』っていう言葉が有名だね。まあ、この二つには現実が分化しているのか、一つなのかというところで全く逆の見解を持っているんだけど、どちらにせよここでいう一つの世界、っていうのが、無、なんだと思えるんだよね。僕はこの宇宙は、無、の極極極、ミリでもナノでも表現が足りないような、ほんの小さな極小点が、何かの間違いで、ビッグバンをへて、宇宙を作った、っていうようにしか思えないんだ」

「つまり、その極小点に、水素とか酸素とかが、詰め込まれていた、っていう風に考えてるんだな」

「違う」

 と君は首を振った。

「無は、もともとがなんでもないゆえに、何にでもなれるんだ。元々は何もなかったんだけど、ぽんと、水素や窒素や酸素が生まれたのさ。大体原子があったとしたら、それはもう無とはいえないだろ。昔、湯川秀樹がものをどんどん二つに割って行ったら何になるんだろうって考えて、中性子を発見したけど、無こそがそれ以上割れない最小のものなのさ。そしてその体積は、何か有が遮らない限り、無限なんだ。つまり、粘土の塊を考えてみて。粘土が、無、そしてその周りの何もないところが有ね」

「表向きは無だったけど、実は有だったのかもしれない」

 おかしそうに君は笑った。

「面白いことを考えるね。まあ、そういう意見もありだとは思うけど、人間の思想ってさ、キリスト教とか、夏目漱石の則天去私とか、個とか我を捨てなさいっていうのが多いじゃん。それは精神上の話だけどさ、それを物質的に実行したらどうなる?」

「自殺かな」

「近いね。でも自殺を遂行するまでは、我を捨ててないわけだから、実は正しくないんだ。正しいのは何も考えないことさ。そしてそれは僕達が生物的に進化しないことも意味する」

「まあ、わかるね」

「進化っていうのは、ビッグバンが起きたのが、何かの間違いだった、という前提に立つと、ミスの上塗りに他ならないのさ」

 ところでさ、と今度は僕が話を変えた。あまり哲学的な話は好きではなかった。

「虎穴に入らずんば、虎児を得ずっていうじゃん」

「言うね」

「でもふつうは、前虎後狼ていう、絶体絶命の、命の危険にさらされていて、九死に一生を得よう、っていうときぐらいにしか、虎穴には入らないよね」

「まあ、現代は色々と安全になってるから、そんな状況にならなくても、マシンガン片手に入るなんてことはできそうだけどね」

「うんまあ、そんな状況だとしても、君子危機には近寄らず、っていうじゃない」

「でもまあ、君子豹変す、っていうことわざもあるからねぇ。昨日までは近寄らなかったのが今日になって一転して、『よし、今日はちょっくら虎の子供でも取って来よう』なんてことを言いだすのも、よくある事なんでは?」

 僕は君の頭の回転の速さに舌を巻かざるを得なかった。これがいじめられた原因なんだとすれば、世の中は間違っていることばかりである。

「って、そんなこと言っても馬耳東風か……」

「ん、何?」

「いや、何でもない」

 君はコーナンあたりで買ったような安物の腕時計を見て、そろそろ行かなきゃ、と言った。

 僕達は別れて、僕も立ち読みをする気分ではなくなったので、ぶらぶらと、君の反対方向に歩き始めた。漫画喫茶があったが、母親が絶対にいい顔をしないので、看板を見もせずにスルー。考えてみれば、立ち読みは「しょうがない」なのに漫画喫茶は「やめなさい」なのは実に不思議である。いつもそう言うのだ。


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 ある日のことである。僕が学校から帰って、居間でテレビゲームをしていると、大学生の兄貴が、母親に向かって言った。

「木登り経験者多いな」

 なんでも兄の話によると、兄貴の周りの人のほとんどは、小学生の頃に近所の公園で木登りをしたことがあったそうだ。

「いや、驚きだわ」

 兄貴はその時は木登りグループのリーダー的存在だった。勿論僕もそのグループの一員である。僕は気を使って兄貴よりも高い所に上ることは一度もなかった。もっともその兄貴でも、5メートル以上のところまで登るのはほとんどなかったけれど。頂上、は十メートルくらいあったと思うけど、そこまで登った子供は、いなかった。

「いや、俺登ったよ」

 と、いつか僕がその話をすると、兄貴は予想外にもこんなことを打ち明けてきた。

「小学六年生の時だったかなあ。確か木登りが流行ったのが俺が小4の時だったから、その二年後。まあ、俺らの後にあの公園で木に登った奴なんて見たことなかったけど。俺もそれなりに気を使って、行けそうだけど危ないから行かない、っていう風にしてたんだ。でも誰もやらなくなった頃に、たまたまその公園を通りかかって、ふっと思ったんだよ。誰もいないし、てっぺんまで登ってみようって。まあ、登んない方が良かったかもって思ったけどな」

「なんで?」

「何もなかったから」

 そんなものなんだろう、と僕が納得しかけると、兄貴は付け加えてこう言った。

「まあ、俺は一番なんだとも感じたけどな」

 何もないんだ、と思ったと同時に、一番なんだと感じた?

「そうさ。一度にいっぺんにいろんな思いにとらわれたんだ」

 不思議な兄だった。ある時は三人くらいの女の子といっぺんに付き合って、しかも全員泣かしていた。


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 それは確か中学二年生くらいの事だった。僕の知らない女の子がうちに電話をかけてきた。

「八森京介君と同じクラスの相薗咲というものですが、京介君はいらっしゃいますか?」

 言い方は実に丁寧で、声も少し憂いを帯びて、霞がかっていた。

「いませんが、何かありましたか? あ、僕は弟のミチルといいます」

 兄貴はどこかに遊びに出ていて、留守だった。僕はちょうど家に帰ってきたところで、他には誰もいなかった。

「ミチル君ね。お兄さんがどこに行ったか知らない?」

 はっきり言って、僕はこの人に恋に落ちていた。なんていい声をした人なんだろう。僕は電話越しにそう思っていた。

「よければ心当たりをいくつか案内しましょうか」

「いえ、そんな。そこまでしていただくのは……」

「大丈夫ですよ。この近くに住んでるんですよね。柴沼神社、ってご存知ですか? とりあえずそこまで来ていただいてもいいですか?」

 勿論僕は柴沼神社なんかには兄貴がいるはずもないことを承知していた。とりあえず会って、外見もよければ、兄貴がいるはずない所をぐるぐる回って、兄貴を探すふりをしながらデートをし、外見が微妙だったら即、その時兄貴が根城にしていた、友達の親が経営している喫茶店とやらに直行するつもりだった。

 真っ白な石でできた鳥居をくぐると、そこには鳥居よりも白くて、綺麗な女の子がいた。

「こんにちは」

「こんにちは」

「よろしくお願いします、ミチル君」

 町中引き回しの刑が確定した。

 そして一時間後、僕が休憩と称して連れ込んだアイスクリーム店でアイスを食べていると、

「何やってんだてめぇ」

 といきなり頭の上からすごまれた。

 兄貴が仲間と一緒にいた。

「なんでてめぇが相薗さんと一緒にアイス食ってんだ?」

「なんでって……この人が一緒に兄貴を探してほしいっていうから……」

 僕は消え入りそうな声で答えた。

「そうよ。あんたを探してたのよ。あんたが友江にも手を出したって聞いてね」

「ああ? なんだそのことか」

 兄貴は難しい顔をした。

「そのことなら俺が悪かったよ。ほら、一緒にスマラおばさんのクッキーでも食べに行こうぜ」

 相薗さんはしばらく固まっていたが、ゆるゆると息を吐いた。

「もう浮気はしないって約束する?」

「もちろん、しないさ」

 相薗さんは兄貴が差し出した手を取って立ち上がった。白くて柔らかい絹のワンピースと、白い腕が視界を横切ったかと思うと、後ろから「じゃあね、弟君」という声が降って来た。僕は振り返って「よかったですね」と言った。そして笑った。猿みたいな笑顔だったと思う。あとには空っぽの椅子と、食べかけのイチゴビターチョコチップアイスクリームが残されていた。

 その夜、家に帰ると、兄貴が待っていた。

「よう、今日随分と咲といい雰囲気だったな」

 僕は何も言わずに横を通り抜けて自分の部屋に行った。

 そして枕を噛みながらしばらく寝っ転がっていた。


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 少し日にちがあって、もう一度電話が鳴った。相薗さんが電話をかけてきた、同じ曜日の、同じ時間だった。この時もちょうど家には僕一人しかいなかった。僕は始めようとしたテレビゲームを放り出して、廊下にある電話の受話器を取りに行った。

「はい、もしもし」

「もしもし、八森京介君と同じクラスの相薗咲ですが……。ミチル君?」

「あ、はい」

「今おうちに他の方いる?」

「いえ、いませんけど」

「よかった。今から、おうちに遊びに行くから、ちょっと待っててね」

 言うが早いか、相薗さんは電話を切ってしまった。また何か思い詰めているようだった。僕は自分の部屋に戻って、ゲームを開始した。

 相薗さんがやってくると僕はとりあえずリビングに通した。冷蔵庫の中にあったウーロン茶をコップに入れて出すと、

「ありがとう」

 と相薗さんは言った。

「また兄貴が何かやりました?」

 僕は冗談交じりに聞いた。

「うん、……また別の人と浮気してるみたい……ってそれはいいんだけど。ミチル君の部屋を見てみたいな」

「どうぞ。ちょっと汚いですが。こちらです」

 僕の部屋に入るなり、咲さんはゲームキューブを見つけた。

「あれ、何やってるの?」

「スマブラです」

「一緒にやらない?」

「えー、咲さんがスマブラやるんですか?」

「何よ、だめなの?」

「いや、イメージと合わないというか」

「ふん、そんなこと言うならいいわよ。イメージ通り本でも読んでますー」

 そういうとベッドの下に手を突っ込んだ。そ、そこは……。

「んー何かしらこの指先にあたる紙の感触は。ミチル君ならぎりぎり手が届きそうね」

「な、なんでしょうね。じゃあ、スマブラやりましょうか」

 咲さんはそこそこ強かった。

「ふー、楽しかった」

「大丈夫ですか? 浮気じゃないんですか、これ」

「何言ってんのよ。この前兄貴が男友達と歩いてたの見たでしょ。あれと一緒よ」

「いや、あれは男同士だけど、これは……」

「なによー、異性同士だとだめだっていうのー。男女同権、男女平等」

「い、いや、そりゃそうですけどね……」

 言うだけ言うと、相薗さんは帰っていった。このことはお兄ちゃんには秘密だからねー、と言って。

 すると入れ替わるように兄貴が帰って来た。僕を見ても何も言わなかったので、相薗さんはうまく隠れたか、別の道を通ったのだろう。

「あれ? なんかいいことあったのか?」

「……ふん」

 僕は鼻で笑うと自分の部屋に戻って別のRPGをやり始めた。

 

                    左


 僕が大学生の時である。僕は大学にサンダルをはいて通っていた。複雑な形をした方ではない。単に足の甲を覆う部分があり、爪先は露出しているタイプのサンダルである。クロックスでもない。僕はそれを靴下もはかずに裸足ではいていた。大学の講師はそれを見て、

「素人が 裸足で講義 受けに来る」

 と言った。

 学問上の素人ということだったのだろう。


                    左


 僕は割と文化に対して反抗的な学生だったので、スマートフォンを川に投げ込んだりもした。

 それは僕が大学二年生の時だった。大学生になる前の春休みに買ってもらったスマートフォンだったが、効率的には全く使えていなかった。大学のポータルを見るのが一日に三分くらい、オンラインゲームを電車の中で、行き帰りの合計で三時間くらい、そんなものである。それに家に帰ったらどうせパソコンを開いて宿題をやるので、ポータルはその時に見ればいいし、そうなるとスマホの存在価値はゲーム機としてしかなくなる。

 そしてポケットにスマートフォンが入っていて、他にすることのない電車の中でそれをいじらないことができるであろうか? 僕に限っては、できなかった。バッグの中に読みかけの小説が入っているのと同じである。続きを知りたくなるのはもはや人間として当たり前のことと言ってもいい。

 ゲームの是非を論じるのがここでの目的ではない。僕はただ、僕がどう考え、行動したのかを、ありのままに示しているだけである。

 僕はこんなにゲームばっかりしてしまうのはよくないと思い、しかし一年と半年の間、改善できずにいた。やっと二年生の夏休みに母親に言った。

「スマホ解約したいんだけど」

「なんで?」

「あんま使わないから」

「でもみんな持ってるじゃない」

「いや、でも使わないから」

 スマートフォンに関する話で、年配の、特に五十代の人に多く見られるのが、みんな持ってる、というものである。だから、私も、あなたも、持った方がいいのではないか、という意味が込められているようにしか、僕には解釈できない。みんなと僕は違う。みんなって誰、と思ってしまう。八森ミチルという生物はいる。でもみんなという生き物はいない。みんななんて物質も存在しない。

「いらないんだったら私が貰うよ」と母親は言う。

 このスマートフォンの名義人は僕ことミチルだが、お金を払っているのは私だから、私にももらう権利があると思っているらしい。馬鹿らしいことである。お金を払っていようがどうしようが、スマートフォンは契約した名義人のものである。最終的にこのスマートフォンをどうするかを決める権利は僕にある。

 なので、僕は譲らずに解約すると言い張った。本体をブックオフへ持って行って、値段を聞いてみると、解約した後なら、二万円で引き取ると言っていた。いい額である。

 僕は黙ってスマホを買ったドコモショップへ行き、契約を解除してもらった。その時僕はもう二十歳だったので、保証人の同意は必要なかった。その足で近くのブックオフへ行き、買い取り申請をした。自分の事を良い客だと思っていたし、二万円もの大金を取引するということに心地よい喜びを感じて、僕は破顔して、鷹揚な態度で店員に接した。

「アカウントパスワードがかかっていますね」

 そのパスワードは母親しか知らないものだった。説得に負けてスマホを親と共有したりするからこうなるのだ。だが今更母親にパスワードを聞くのは癪だった。母親がいないとできないことがあると彼女に思われるのが嫌だったのだ。どんな些細なことでも、親を頼るのは嫌だった。独立独歩で行けることを親に示さなければならないと思って、この件でそれを証明できると考えていた矢先のことだった。

 僕は鷹揚な態度はできるだけ崩さず、じゃあ聞いてみますと言って、ブックオフを後にした。聞いたところで教えてくれるはずがないことはわかりきっているのに。

 僕はすごすごと家に帰った。小説の主人公のように何か思い切った行動をしてみたいという願望もあったのだろう。その夜、再び口論となった後、もうこんなのは沢山とばかりに、近くの川までスマートフォンを持って行って、橋の真ん中からえいやと投げ捨てた。


                     左


 大学一年生の時である。クラスメイト十人くらいで渋谷のハロウィーンを見に行った。マリオとかヴァンパイアとかが闊歩する中、一番の力作を見つけた。ケルベロスだった。どうもお父さんの上に小さな男の子と女の子が乗っかっているらしい。恰好を見るにお父さんは膝をついているには違いないが、膝あてでもつけているのかなと友達で話し合った。友達は。センター街に入っていったが、僕はふらふらとそのかわいらしいケルベロスについて109の方へ歩いて行った。

 ケルベロスは大きな布に穴が三つ空いていて、そこから首が出ている。犬の顔の被り物をしているが、首のところは覆われていないので、細い首が二本と、太い首が一本、にょっきりと見えている。足は前足も後ろ足も、電柱ぐらいの太さがあるが、後ろ脚の後ろには黒い布が垂れ下がっていて、それで僕は、後ろ脚が地面についているところに膝があり、その後ろの黒い幕の中に、お父さんの脛とか足の甲なんかがあるのだと思った。

 突然真ん中の首が叫んだ。

「あっ、プレゼント忘れた!」

 右の首が馬鹿にしたように言った。

「あそこの109で買えば?」

 左の首も大きな声で言った。

「あそこってウェディングドレス売ってるの?」

「女性向けのところだよ」

「よし、じゃあ、行ってみよう」

 真ん中の首がそうまとめると、109に向かって、のしのしと歩いて行った。こちらの方はセンター街と比べると人が少なく、車道沿いなど人が少ない所を選んで歩けば、人に踏まれることもなさそうである。それでも十分危ないと思うが。

 ケルベロスは109の前につくと、少しひそひそと声をかわして、しずしずと入っていった。

「一階は雑貨ばかりなのか?」

「そうみたいだね」

 ケルベロスは右の首の案内で、階段をえっちらおっちら昇って二階に上がった。二階ではカジュアルな女物の洋服を売っていた。

「この階にはなさそうだな」

 そこにちょうど胸に名札を付けた店員のような人がこっちに向かって歩いてきたので、お父さんは女の子に言った。

「ちょっとハナコ、どこでウェディングドレス売ってるか、聞いてくれ」

 若い女性の店員が迷惑そうな顔で三人を見下ろしながら、脇をすり抜けようとした時に、ハナコと呼ばれた女の子は声を上げた。

「すみません、ウェディングドレスはどこで売ってますか」

 店員は驚いてように立ち止まって、「七階に冠婚葬祭用の洋服売り場があります」と手短に答えて、これ以上関わり合うつもりはないというような、毅然とした態度で歩き去った。

「七階か……辛いけど頑張んなきゃな」

 ケルベロスが戻って行って、階段に前足をかけようとした時に、左の首が言った。

「お父さん、一回脱いで歩こうよ」

 ケルベロスは一旦固まったが、「それもそうだな。じゃあ、二人とも後ろから出てくれ」と笑いながら真ん中の首が言うと、何やらケルベロスの背中がもぞもぞ動き、それから犬の頭がすぽんと二個抜け、後ろ脚の間から八歳くらいに見える男の子と女の子が這い出てきた。

 お父さんは立ち上がると、ケルベロスの衣装を首から一気に脱いで、胸の前でぐるぐると丸めた。そして思い出したように、二人から犬の被り物を受け取り、丸めた衣装の中に突っ込んだ。

 僕は黙々とうつむいて階段を上っていく三人から十分はなれた距離を保ちながら、階段を昇っていった。

 七階まで来ると、お父さんは売り場の方へ入っていった。子供たち二人もそれに続いた。売り場は確かに振り袖や喪服、それからウェディングドレス、それからそれらに関係する下駄や、髪飾りがおいてあった。

 お父さんは割合近くにあった、結婚式用の服売場へ行き、すぐに「これをください」といって、クレジットカードで支払った。

 店員にプレゼント用のラッピングをしてもらうと、その若い店員に聞かれていた。

「妹さんにプレゼントなさるんですか」

「いえ、今からこれを持ってプロポーズをしにいくんです」

 店員は顔を赤らめて、口を大きく広げて笑った。

「頑張ってくださいね」

「ありがとうございます」

 と言うと、お父さんは真面目な顔をした。

 きれいな紙袋と箱に入ったウェディングドレスを受け取ると、お父さんは再び階段を下りて、109を出た。

「よし、じゃあ、ついてきて」

 しばらく道玄坂を上がっていると、女の子が聞いた。

「お父さん、プロポーズ成功するの?」

 お父さんは歯を剥き出しにして笑った。

「それはわからない。でもお父さんは全力を尽くすつもりだ。実際頑張っただろ? お父さんは」

「うん、頑張ったよね」

 三人は坂を上って下りて、横道に入ったところの小さなマンションの前で立ち止まった。

「ここだ」

 エントランスに入るとお父さんが、インターホンを押した。

「はい。目黒です」

「こんにちは。恵比寿です。ちょっとしたプレゼントを持ってきたのですが、入れていただけませんか?」

「はいはーい」

 自動ドアが開いた。お父さんはふいとインターホンの前からはなれると、ドアをくぐった先の角で、ケルベロスの衣装から犬の被り物を引っ張りだした。子供たちに渡して自分も被ると、ケルベロスのコスチュームを広げて、頭からすっぽりと着た。

「よし、じゃあ、とりあえずこの格好で4階まで行こう」

 三人はエレベーターに乗り込んだ。僕は階段を足音をたてないように走った。

 4階までたどり着いたときには、三人はエレベーターホールの隅で合体している最中だった。やがて後ろから手が出てきて、側に置いてあったウェディングドレスの箱をつかむと、衣装の上から背中の辺りまで送って、そこで動かなくなった。下から子供二人が支えているらしい。器用だなあと思った。

 ケルベロスはゆっくりと動いて廊下に出た。すぐに一室の前に立った。ドアの低い所を前足でトントンとノックすると、すぐに開いた。

「あら、何をやってるの?」

「背中の箱を受け取ってくれ」

 女の人は建物の陰から姿を現して、ケルベロスの背中に乗っていた箱を持ち上げた。

「私にくれるの? ありがとう。何が入っているのかしら」

「ちょっとそこで開けてみてくれないか」

 女の人は不思議そうな顔をしたが、包装紙を破いて中の箱を取り出し、軽くとめてあったテープを切った。

「あら、これ」

「僕と結婚してくれ。以前言っていたよね。ケルベロスがウエディングドレスを届けてくれるようなことがあれば結婚するって」

 子供たち二人は黙って、身じろぎ一つしなかった。

 女の人は目を丸くして、目の前でプロポーズをする自分よりやや年上の男性と、自分の手に持ったウエディングドレスをかわるがわる見た。そしてにっこり笑った。

「そういえばそんなことも言ったわね。でも、あなたがケルベロスになる必要はなかったんじゃないの? セント・バーナードのラムス君にケルベロスの格好をさせればよかったのに」

 僕は男の人の家は比較的裕福でセント・バーナードを飼う余裕があるのだ、と思った。

 少しの沈黙があった。

「そういえばそうだな」

 お父さんは愉快そうに笑った。だが、その笑顔にはどこか陰りもあった。考えてみれば、お父さんはいつも浮かない顔をしていた。

 それはそうだろう。子供が二人いて、求婚している、ということは離婚なり、死別なりで、女の人を失ったことがある可能性が高い。真面目そうにも見えるから、結構こたえたのだろう。

 

 


                    左

 

 ワーカーショップでズボンと上着と帽子を買って、それを全部着て大学へ行った。ジーンズは昔アメリカの肉体労働者が来ていたものだそうなので、日本の肉体労働者が着る物を日常用の服にしても差し支えあるまいと思ったのである。実際、何の問題もなかった。むしろ気分が良かった。ジーンズは引っかかって、足などあまり動かしやすくないが、日本のワーカーパンツだとそんなことはない。外で作業をする時に着るものだから、比較的丈夫だし、耐寒性もないわけでもない。

 授業が始まる前に教室に入ると、友達が話しかけてきた。

「この授業の宿題って、今日は何もないよね」

「そうだね」

 僕は自分のワーカースタイルで頭がいっぱいだったが、友達は全然気にも留めていないようで、恥ずかしくなった。

 なので、自分から言い出してみた。

「どうこの服。ワーカースタイル」

「ああ、思った。作業着じゃん。なんで?」

「新たなスタイルとして、世界に広めるんだ」

 話はそこで終わって、別の友達が話に入って来て、他の授業の宿題のことなどを話した。

 

                   左


 スマートフォンを捨てた何年か後に、小淵沢友という人と友達になった。彼は同じ授業をとっていて、席が隣り合ったときに、消しゴムを貸してあげたことから、昼食をおごってくれた。そこで彼も携帯電話を持っていないことが分かった。

「部活? 入ってるよ。ラグビー部。でもなんにも困ることはない。部の連絡はLINEも使ってるけど、重要なものは全部メールで来るから。家に帰ると、あるんだよね。パソコンが。実際パソコンも、ないならないで大丈夫そうだし。毎回部活に出てれば、練習試合とかあって、普段と集合時間とか集合場所とかが変わる時でも、練習が終わった後のミーティングで、ちゃんと言うしさ。明日は朝9時に三鷹駅の北口に集合とかさ。まあ、でもこんなことをミッチーに話してもしょうがないか。多分同じようなことを思ってるだろうからね。違う?」

 その通りだった。僕は部活には入らず、授業とアルバイト先と一人暮らしの家とを転々とする生活だったけど、それでも、携帯電話を持っていないで、さほど不便を感じたことはなかった。周りの人に携帯電話を持った方がいいと言われたことはあったけれど、僕はその忠告を無視した。僕は現代社会で、大学生は携帯電話を持っていなくても生活できるということを証明したかったのだ。

 


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 多摩川を泳いで渡ることに決めた。まずはパソコンで多摩川が泳いで渡れるかどうかを調べる。ヤフー知恵袋には「渡ったことありますよ、友達にも内緒で」というような書き込みがあった。また川崎市の取り組みか何かで、実は大人なら歩いても川崎市から東京都まで渡れるということが書いてあった。

 僕の通学定期はJR線で武蔵小杉駅を通るからそこまでは無料だが、そこから東急東横線に乗り換えて、多摩川駅まで行くと、交通費を払わなければいけない。僕はアルバイトもしてないし、父親からもらっている月に五千円のお小遣いもほとんど全部使ってしまったので、たったの二駅ということも考えて、歩いていくことにした。

 

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 ねえ、君、僕の手紙はそろそろ終わるんだけど、何か気に入ったエピソードはあったかな? あったら教えてほしい。メールでも電話でもいいから。

 僕がわざわざ手書きでこの長い手紙を書いたのは、パソコンで書く文章だと、どうも自分が書いたものではないような気がしてしまうからなんだ。子供のころはキーボードで自分を表現したりはしないからね。鉛筆とかクレヨンだろ。

 でも君が僕に返事をしようとするとなると、僕が手紙を書くなり、メールを打つなりしないといけないね。なぜかって? 君は知っているじゃないか。君は僕が作り上げた架空の人間なんだから。


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 本当は僕は小説を書きたくないんだ。嘘をつくのは辛いから。


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