トナ・エルセ
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「あなたは、どうしてあんなことをしたのですか」
先程のリグイの町を望む森の中へ来ると、フォールヴェは牢番を振り返って聞いた。
「どうしてと言われてしまうと困るのですが……」
若い牢番は首を傾げた。
「最後の矢は、獣変の毒が塗ってあったものですから、つい」
精悍そうな容姿に合わぬ、間延びした口調で牢番は言った。春の野原で昼寝をした後のような、聖盾を使ったときとは別人のような表情だ。
「つい……って」
間の抜けた返答に、リフェーラも呆れた顔を向ける。
「私はサイルの神殿にあった者なので、獣変を人に使うことが許せなかったのです」
サイルというのは東の神聖都市で、俗に『護法都市』と呼ばれるところだ。
『獣変』は、別名『ボーブルストの血』と言う。それは侵された者の皮膚を爛れさせ、発狂するほどの痛みを与えながら、なおかつ死に至らしめることがない毒物だ。外見も人間に見えなくなり、絶えずのた打ち回って、文字通りの獣のような咆哮を上げ続けることから、『獣変』の名がついている。いまだ解毒法は見つかっていない。
「サイル? ずいぶん若いがそれで聖盾を使うというのは、護法神官か?」
「……でした」
牢番は少し寂しそうに笑った。
「神官の立場と男前なのを利用して、どこぞの貴婦人を誘惑して職を追われたのだろう」
フォールヴェは意地悪そうに、牢番だった青年を見た。恩人に向かって、さっきの悪徳審議官と同レベルの、やっかみ混じりの言いがかりだ。
「まさか」
育ちの良さを思わせる表情は、一部の同性には妬まれるだろう。もし貴婦人に誘惑されても、本人には自覚がないに違いない。
「サイルの神官が総入れ替えになったと言う噂は聞いたが」
無駄だとわかって、フォールヴェはからかうのを止めた。
「私はミスタクリス・トナ・エルセと申します。こうなったのも成り行きです。お名をお聞かせ願えませんか」
ミスタクリスは『火焔』の呪を使って、拾い集めた枯れ枝に火をつけた。
「ミスタクリス・トナ・エルセといったのか?」
フォールヴェは眉間に縦皺を寄せた。次に夜空を仰ぎ、そのまま言う。
「ミスタクリス、歳はいくつですか」
「……? 二一です」
聞くとフォールヴェはがっくりと肩を落とした。
「どうしたの?」
リフェーラがフォールヴェの顔をのぞいた。
顔を強張らせて、ヘーゼルの瞳に決意の光を灯している。
「先程の聖盾だが、あなたの呪は間違っている」
フォールヴェは枯れ枝を取って、地面にミスタクリスの『聖盾』の詠唱の言葉を書き始めた。
『穢れたるを祓え
悪意たるを遮よ
風の精霊よ
人の子の請する』
「あなたの唱えるべき呪はこうだ」
フォールヴェは聖盾の呪を書き直した。
『穢れたるを祓え
悪意たるを遮よ
清きものの眷属よ
汝らの王が命ずる』
「これは神盾という」
「それはどういうことでしょう」
ミスタクリスは表情を硬くして、フォールヴェを見つめる。
この呪はまともな神経の人間には口にできない語句でできている。
『清きものの王』――それは神のことだ。
「トナ・エルセなら、その資格があろう。それが奪った名であったなら、呪を唱えたその場で絶命するだろうが」
顔を上げたフォールヴェも、顔を強張らせていた。そのまま木の枝を払って呪を消した。
「どうするね? 曲がりなりにも恩人の、その命を危険に晒したくはないが、その名を聞いては知らさぬわけにはいかんのだ」
フォールヴェも葛藤しているのがわかる。
「トナ・エルセ」の名と、神盾にどのようないきさつがあるのか知らないリフェーラは黙って二人を交互に見つめていた。
「では、やってみましょう」
ミスタクリスはきっぱりと言った。
「穢れたるを祓え
悪意たるを遮よ」
目を閉じ静かに詠唱を始めたミスタクリスに、リフェーラは青ざめて立ち上がった。
「止めて!」
「清きものの眷属よ」
ミスタクリスの口を塞ごうと、駆け寄ろうとしたリフェーラをフォールヴェが抱きとめた。
「汝らの王が命ずる」
詠唱が完成したその瞬間、森全体がざわめいたようだった。