閑話 ヴェルケーロの一番長い日
少し短めです
アーク歴1500年 什の月
ヴェルケーロ領
メイドのミーフ
「坊ちゃん、この新しいパンは配らないのですか?」
マークス殿の何気ない一言。
その一言から私たちの苦難の道のりは始まった。
ご領主様が戯れに作ったパン、その素晴らしい出来栄えに感動したマークス殿が皆に味わってもらいたいという優しさを発揮したのだろう。
それは分かる。
だが、もし皆に配るとして…それを誰が作り、誰が配るというのか。
よく訓練されたメイドたちは勿論顔には出さない。
だがコックのシボカオは青い顔になっている。
リヒタール時代から当家の食卓を支え、何百と言う人数の料理を一手に引き受ける人材であるが…さすがに領民全員にパンを配るというのはどうか。
「配ってもいいけど中に入れる具材がな。身内の分だけと思ったからホイホイ作ったけど…今の領内は何人いるんだろ?」
「8000を超えましたな。赤子も含めてですが」
「そんなに俺一人で作るの無理だろ…」
ここにいる人数分、領主館に普段からいる奴と工房、その辺でスカウトしてお手伝いに来たの合わせて50名。500名分の焼きそば、ソーセージ、その他の惣菜を用意するだけで限界をはるかに超えていた。
パンをひたすら焼いたシボカオ殿とその部下、具材を共に調理したご領主様もさすがに今の160倍は捌けまい。
「なに、若は指図だけ頂ければ。我々執事隊とメイド隊、それに厨房の者たちが作ります。手伝いの方々にはパンの配布をお願いすればどうですか?」
「そう?んじゃあ頼むわ」
こうして大晦日、ヴェルケーロで最も長い日が本格的に始まったのだった。
「パンが足りないぞ!」
「こっちだって必死でやってんだ!おい!気温が下がって来たぞ!発酵が止まるだろ!温度係!」
「もう魔力切れですよ!」
「こっち!油がもうない」
「バターも有りません!」
「肉もだ!買い付け!しっかりしろ!」
あちこち大混乱である。
ご領主様は通常の執務に戻られた。
レシピと数量の差配は行っていただけた。
レシピにあるものは一つ一つ。
それ自体は面倒ではない事だけが幸いか。
だがそれでも、8000人分である。
一人一つじゃ足りないだろうという事で3個配るとなると、およそ25000個を作る予定だが…それだけの数となるととても。
厨房だけでは処理しきれず。食堂の大半のスペースを使ってパン作りは行われた。
食堂を利用しに来た兵や領民には試食させ、そのままついでに手伝わせた。お土産を持たせれば問題ないだろう。
そうして大晦日が終わり。
初日の出が上がるころにようやくパン作りは終わったのだ。
ヴェルケーロ領
カイト・リヒタール
「おつかれ。大変だったみたいだな」
元日に領主館に集まった領民。
彼ら、彼女らには家で待っている人数×3のパンを配った。
食べてみて大満足だったようで。昼過ぎには『また貰えないか』『どこで売っているのか』と言った問い合わせが増えた。おかげでメイドたちはまた大変だったようだ。
その一方で俺は領民に感謝されつつ、ぐうたらなお正月を迎えることが出来て大満足だったが。
マークスに聞いたところ、どこで売っているのかとかいつ販売するのか、なんて問い合わせが多かったみたいだ。そのうちパン屋を開いてもいいかもしれない。
リヒタールパンの店?パンのお店リヒタール?まあ名前はどうでも良いか。
「よし、大活躍したって話のメイド。君は…ミーフだったかな?」
「は、はい!」
「パン屋さんを開こうと思うから店主やる気ない?シボカオに手伝わせていいから。」
「え、ええー!?」
「考えといてね。よろしく~」
後方でマークスが説得している声が聞こえる。
上手く丸め込もうとしているような感じも無くもない。
でも悪い話じゃないと思うんだよな。
メイド業は実質年齢制限があるようなモノだ。
でもパン屋の主人なら定年もクソもない。
どんどん新しい商品を開発してほしいものだ。
そして新たな名物を作りだしてくれると尚良い。うんうん。
「…で、私の分のパンは?」
「えっと…日持ちしないかなーって…テヘ?」
「よし、訓練を始めるか…!今日は特別に厳しめにしよう」
「タスケテー!」