海鳴りの町で
朝起きると潮の香りがする。そんな毎日が自分に訪れるとは思っていなかった。
人口1万人ほどの小さな海辺の町に引っ越してきて半年ほどが経つ。慣れるには十分な時間だが、時折、なぜ自分がここにいるんだろうという気分になるのはなかなか抜けない。世界にひとり放り出されたような、ぼんやりとした不安。自分で選んで来たはずなのに、我ながら勝手なことだとちょっと呆れる。
緯度が高いため朝が早い。まだ6時だというのに、太陽はそれなりの高さにあり、朝日というには少し眩しすぎる光を海上に撒き散らしている。
穏やかな潮騒のなかで一日をはじめられることは悪い気はしなかった。だけど、海というのは、やはり人間のなかにある何かを掻き立てるみたいで、寄せては返す白波が、遥か遠くの水平線の先にある何かの存在を仄めかす。
わたしはこの町に来てから、何かをずっと待っている気がするのだ。海を眺めていると、それを余計に強く感じる。
思えば、多くのものを失ってきた。そのときは当たり前にあったが、噛み締めておけばよかった幸せとか、そんなものばかり。いらないと思ったが、今ではそれは海の上に乱反射する光の粒のように、手の届かない残光となって私の胸を刺す。つまり、今のわたしには何もないのだ。空っぽの毎日。
海が何かを連れてこないか。それを確認するために、朝の海を見たくなるのかもしれない。そして今日も何事もないことを確認して、そこから一日をはじめるのだ。何の変哲もない一日を。
なぜわたしはここにいるんだろう。答えのない問いは波間に転がる透明のボトルのように、波に洗われて同じ場所をくるくるしている。
遠くにいけば何かが変わると思っていた。
それも幻想だったとわかったとき、今度は何かがわたしの生活を変えてくれるのを待つしか選択肢はなくなっていた。自分自身でどうにもならないことは、一番最初にわかっていたから。
渡り鳥が海風に推されふわりと空中に浮く。路地裏のお婆さんがゆっくりと籠のついた歩行器を前に進める。堤防の釣り人がラジオ放送を聞き始める。軽トラがクラッチをつなぐ音。
気怠い朝も、文字にすると少しはましに見えた。