澄香:花が咲いたら
シラクスの街に帰る純朴なヒツジ飼いのように、私は走る。勢い良く世界の沖へ運んでいく邪智暴虐な離岸流に酔い、自分本位な感情の塊をを吐き出しそうだ。シンデレラにはどうやらなれない。悲劇のヒロインに自分の精神の防衛本能が嘘混じりの楼閣を仕立てあげてしまう。この世界には王子様は居ないし、合うガラスの靴は当然のようにない。第一そんな靴では速く走れないだろう。卑屈な心を靴にするくらいが、ちょうどいい。よく走れそうだ。そんな下らないことを考えていたら、何やら揉めている声が聴こえた。
『斎はなんでそんなに私を邪魔するの?』
『君に罪悪感の枷をもう増やさない為だ。タルヒ。分かってくれ。』
あぁ、羨ましい言い争いをしている。ステレオタイプの男女。この世界に居なければ、もっと平穏な二人だった。きっと、月に何回かデートして、たまに愛を言い訳にお互いの身体の輪郭を溶かす春の関係。越冬済み。
『ソクラテス、垂氷、どうせこの世界はそこに居る澄香君と文哉が幕を引くんだよ。鉄分だらけの幕になりそうだけれど。』
『だから無駄な争いはしないのが賢明ではないかな?』
彼女の説得によって、風船は割れて不自然な空気入りの静寂が訪れる。さらりと火奥さんに気づかれていて、謎の液体が背中をつたった。陰を作っていた草葉は全て焼けてしまったらしい。どうだ明るくなったろう?陽は登ってるから、明るくないの気分だけだと思う。正直、気分的には曇り空だ。しかし、文哉と私がこの世界の幕を引く?何のことを言っているのだろうか。すっかり置いてけぼりだ。太陽照り付ける気象と同じく。
***
「文哉君……。」
逢いたかった人は、もう変わってしまっていた。揃いの赤目。ぼうっと燃えた熾火。
『武梨さん。やっぱり貴女だったんですね。』
つかれた笑み。クレーマーをあやす接客業のよう。彼と私ではあうの漢字が違う気がする。
「うん。そうだよ。」
『あのときはすいませんでした。』
間髪を入れずに、謝罪。私が悪いのに。取り付く島に橋を架けて領有を主張して来た。言いたい言の葉を浮かべあって、陣地取り。私はそんなつもりないけれど。
「私こそごめんなさい。」
ずっと言いたかったことだった。私がしてしまった最悪の【妥協】。文哉君に【諦観】を決定的に植え付けてしまったという罪悪感。頭の中を散々傷つけた瘋癲の文字がやっと抜けてくれる。露骨に見ないでくれる火奥さんに軽く会釈。
『気にしてないよ。でも言葉はしっかり受け取る。ありがとうね。』
文哉君は曖昧な顔。
『熾。この二丁の拳銃はそういうことなんだよね?』
火奥は、熾と呼び掛けられて頷く。彼女は私を見て
『すまないね。少し意地悪をしていた。』
笑いながら、明け透けに言い放った。怒る気も起きない。
「まぁ、好かれてると思ってなかったからいいですよ。ところで、そういうことって……」
『この二丁の拳銃はどちらとも火を噴かなければならない。しかし、問題がある。文哉の銃口は澄香を求め、澄香君の銃口は文哉を求めているという点だ。二つの口を満たすためには、同時に眉間で引き金をお互いに引かなければならない。この世界は最高に趣味が悪い。』
怒りを堪えながら、熾は答える。認めたくないものを言葉に吸殻のように乱暴に捩じ込んでいる。
『熾、そんなんでも本当に終わらせてしまうんだね。』
垂氷と呼ばれた女性は、悲しげに空を見ながら言う。好きな人の首のキスマークにする見て見ぬふりに似た仕草。心と首に絆創膏を貼りたい。その一心で、わだかまった思いを書き損じしながら一筆書きで、
「花が咲いたらいつか散るでしょう?はじまったら、どんな場所も終わらなければいけないんだ。確かに、悪趣味で最低だし納得も出来ないけれど、終われるならそれでいいよ。貴女も一緒に戻りましょう?」
思わず垂氷を抱き寄せる。華奢な身体が見せた戸惑いと震える肩。複数の刺青と身体に空いた穴に、心から流れた血を如実に感じる。中途半端にうるかしたスクランブルエッグの皿みたいだ。こびり付いたケチャップ。穴埋めにピアス。化膿した傷口。愛の後に飢えを知った彼女に魚を食わせる。不幸さにも上には上がいるなんて思わせない。辛ければ辛い。進んだら転びそうだから歩きたくない。転ぶことが分かっていても、転んだら痛い。当たり前だ。他人事にはどうしても見えない。独りではないと存在が認識出来るくらい強く抱き締めて離す。ひょっとしたら、私の心の声も聴こえたかもしれない。水のように惚けた顔。遊佐木は、哀しそうな眼をしながら頬を弛めた。
『私が溶かすことはついぞかなわなかったな。』
と言っているように見えた。熾も安心した顔をしている。文哉も慣れない展開に目を逸らしているが、きっと顔は曇っていない。さっきとは打って変わって、終わりに向かって緩やかに時間が流れていた。
***
しかし、平穏はこの世界では続かない。近くで大捕物の最中のような声が聞こえる。疎らな間隔で『垂氷様!ご無事ですか!』という声。段々ボリュームが大きくなってきた。それに呼応するように風で激しく梔子が揺れ、そこから顔が覗く。やっと見つけたらしい。大きい声の『見つけたぞ!』の合図で砂埃を立て揃いの服に腕章を付けた人々がゾロゾロと東屋の周りに来て、平穏を荒しに来た。腕章には警邏隊の三文字。私と同じく銃声を聴きつけてやってきたんだろう。代表と思われる女性が二つの銃を見て叫んだ。
『垂氷様から離れろ!!!』
当人の垂氷はやる気なさそうな顔と嫌悪感が1:1で混ぜられた顔をしていた。




