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ソラのイロ  作者: 亜房
山と集落 【緑青】
58/61

垂氷:不細工な月と闖入者

 終わった世界におそなえする梔子の花の香りが漂いだした集落の最奥に向かう。白い不細工な月が青い空の疾患。垂氷つららのように空にぶらさがっている。年に四回消える噂を全て消えなくしてもいいから、世界の終わりを噂のままで消してしまいたい。七十五日を超えても消えぬ噂なんて物は失敗がゆるされぬ反理想郷(Dystopia)を産んでしまう。しかし、結局生きている限り人間は(ねた)んだり(うらや)んだり忙しい生き物だ。その時々の失敗だけで人を(おとし)め、(はずかし)め、踏みつける。そのことに例外なんて物は存在しない。優しい人は人を踏み台にすることは無いとしても値踏みをする目線からは、避けられない。生まれたときから人は詰んでいるんだ。どうせ変わりゃしない。それに気づかない盲目どもは、ゾンビのように満たされることなく、歩き続ける。また死になおすまで。きっと誰もが幸せを目指して勢い余り天国に行くんだろう。不毛だ。一つの場所にとどまることこそ正しい。何処かしらで膝をつくよりは、泥のように眠る方が綺麗だ。底抜けのバケツに水を注ぎ続けるより、全て諦めて蛇口を止めてしまった方がいい。実に簡単で甘美。私はこの停滞の味が好きだ。味蕾(みらい)を甘くくすぐり、苦い後味を残す。その苦味が甘めの珈琲を飲みながら吸う煙草によく似ている。緩やかに死を迎える点でも。煙草の副流煙のように自分を構成する全細胞を一つずつ丁寧に安全ピンで刺して、未来をゆっくりと無くしていくように断つ。それが、この世界における私の目標であったりする。


***


 梔子の蜜に蟻が集っている。盲目的にゾンビがありがたがっているお話によだれを垂らす。今日かに座一位だったんだ。ふうん。いつ占っても私を置いていかなかったら君が好きだよ。薔薇の棘混じりの自分本位と小さじ1杯の誤魔化しのカクテル。カクシアジを垂らして出来上がり。喉に気だるさが残ること請け合い。散々、斎に飲ませた。それが終わらないと思っていたから。夢をなぞれなかった現実では、寄りかかっていた背中は消えて、お遊びの恋人繋ぎで逃がさないようにしていた微熱も冷め、昼間の猥談も宙に浮いた。ネットフリックス・アンド・チル。シーズン2は独り。その寂しさすらも奪われかけ。部屋の隅に首元が怪しい隙だらけ共用のシャツ。洗濯の影響を少し受けたグスタフ・クリムトのレディウィズファンが妖艶に脳裏をぬる揺蕩たゆたう。彼が使った後のシャワーのよう。君が溶けてしまわぬようになんて冗談。冷たいかも知れないけれど(つらら)らしく撓垂しなだれ掛かれば良いのかなと大きな背中に色を付けて返したっけか。アルバムを開いたときのように連鎖的に浮かび上がる記憶に開いた古傷に浮かぶ寂寥せきりょう。見上げた明けたばかりの空が──私の舌の色そっくりだ──薄情に雲だけ流す。寂しさなんて普段は要らない感情だけれど、きっと私の心の落としてはいけない一欠片。世界が終わったらこの感情の出口は消えてしまうかもしれないから。さてさて。向かう先に今の私を邪魔しそうな二人。濃密な夜を散財したであろう四阿あずまやの雨宿り客。どう落とし前つけていただこうかしら。


***


 やけに憂鬱くさい青色の空が充満している。山、谷、海の変わりに誂えたような一対の人。この世界のやけに煙たいアダムとイヴ。ワルツの代わりにジャズが流れそうな朝だ。影を縫うようにその演奏の邪魔をする。


『誰だい?』


「紙の月だけれど叢雲。悩みの種が付ける花に吹く風。申し訳ないけれど邪魔させてもらうよ。」


It's only a paper moon.

この世界の終わりを見せかけの物にする為に全て否定してしまおう。


***


『もう終わりだよ、垂氷。』


煙草で焼けたイヴの咳ばらいついでの一言。氷を容赦無く溶かそうとする温度。熾火。


『私も、もうすぐ帰れるだろう。もう終わらせてやってくれ。ヒツジも浮かべずに私たちを見てる。』


近寄るとアダムは暴力の塊をこれ見よがしにお手玉して見せた。あると言うことだけ示す使う気が少しも無い表示。世界をお手玉している。引き金はいつでも引けるんだぞと。


『申し訳ないけれど、決心が紛れる前に終わらせてしまいたいんだ。僕は停滞という禁断の果実は味わえないよ。』


 哀しげな顔から、耳なし芳一ほういちのように滲み出る言の葉。和洋折衷。私たちの中では折衷案はどうやら成立しないらしいけれど。そんなこと考えて、それっぽく懐を確認する。物が切れそうなくらいキリキリした空気。しかし、勿論銃なんて携行していない。凶器は一つ。よく研いだ剃刀(カミソリ)。果物ナイフは無かった。刺さるかどうかも怪しい。心無い誹謗中傷の方がきっと余程刺さる。血よりストロベリージャムの方が似合いそうだ。塗るパンは……おっとちょうどお誂え向きに神様のお肉。音を立てない程度に勢い良く踏み込んで、距離を急速に詰め、アダムの首筋に剃刀を当てる。驚いたように彼の喉仏がごくり。しかし、冷静にカチャリと照準を私に合わせている。熾は怒りに満ちた目で腕を拘束しようと私の腕を掴む。首には赤い線の一つも引かれやしない。擦過傷さっかしょうが多少首をのたうつだけだ。返って傷を付けてることに気が付いたようだが、彼女は腕を緩めない。私は思わず視線を浮かせる。つまんないな……と。元から薄かった世界の色がさらに希薄になる。ソラのイロはむなしき何かを抱えていた。虚脱感に心を奪われ、いつも効果が出ない睡眠薬の効果が折悪しく顔を出す。発砲音が空に咲いた。しばらくして遠くから弾が落ちる音が聴こえる。気を失う前、私は斎の声を聴いた気がした。


『もう潮時だな。』


皮肉にもあのときと同じ五十音の並びだった。

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