文哉:拙い合言葉
この世界が終わる前にもう一度熾に逢いたい。彼の話を聴いて、僕は深くそう思ってしまった。数多く諦めの楔を心に刺してきた僕がどうしても刺せずに放置していたところ。彼岸花の的になっている傷だらけのこころの奥底。悩みの種からは一向に花が咲いてくれないのに、思いの丈は雨後の筍のように伸びてしまう。その思いに背中を突き飛ばされるかのように、居るはずも無い場所すら、目を向けて歩く。アレだけ無数にあった意味不明なオヴジェの姿は見えなくなり、いつの間にか人の手の絡んでいない寒々とした木々が代理を務めている。木々の合間から水滴がぽつりぽつり。頭を冷やす。この雨は強くなりそうな気がする。哀愁が強いぺトリコール。それを跳ね除けて鼻腔を花の香が擽る。何処から来ているのだろうか。鼻を追い掛けるように歩く。
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雨匂混じりのお淑やかな匂いを追いかけ、少し開けた場所に出る。白い花を沢山付けた木と寂しげな東屋が迎えてくれた。この白い花がおそらくあの馨しい匂いの源だろう。季節外れを指摘する無粋な口を奪うほどの美しさだ。放心状態で東屋の椅子に腰を掛ける。待ち構えたかのように雨足が強くなった。ふと我に返り、口を取り返す。
「梔子。僕に幸いを運んでおくれ。」
一言だけ零すと頷くように梔子は風に乗ってふらりと消えた。
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「ありがとう。熾。」
顔は空気読んだ空が隠している。それでも、目をきっちり見る。既存の言葉では、気持ちが器から溢れてしまうけれど、一部だけでも。自分の言葉を模造品に捩じ込む。枷の中で本意が複雑そうに微睡んでいる。睡眠薬を理性に飲まされたらしい。言ってはいけないこと。「*****」「******」そして「*****」。終われなくなるから。だから。だから……。だから…………。また目が塞がれて、温まった目を冷まさせる。細い水脈に流れを阻む石。視界に月白。涙が退いてしまう。潮の満ち干きのように木々がざわつく。
「また、いつか。」
『ああ、そうだね。』
そう言って彼女は僕の手を取り、唇を落とす。鮮やかな痛み。掌にアートが出来ている。理想の口寄せ。
『好きの反対は嫌いなのに、逆さまにしたら接吻なんだ。この傷を私の証として取っておいておくれ。』
「ああ……ありがとう。」
真鍮の釘を心に刺される。ご縁がありましたら。正体不明の心とかいう臓器から血がどくりどくりと流れる。心潰瘍。
『飢えの上にしか愛は乗らないんだ。乞う程に飢えた君に私が少しだけ乗せてもバチはきっと当たるまい。さいごだからね。漢字はどちらか知らないけれど。』
僕は知っていた。この世界ではこれが最期の逢瀬であること。彼女の背中に見え隠れする絆創膏だらけの現実がそれを喧伝していた。だが、僕はそれを無視する。
「雨だけれど、踊ってくれないかな?」
空を見て言う。上滑りしていて何も見えていないけれど。読めない空気が辺りに漂って意識を食い散らかす。脳に酸素が足りない。欠伸。この空間に言い訳。塩辛い雨粒。舌が目元の水溜まりから出来る支流を掬いとる。
「煙が滲みただけだよ。」
『私のも欠伸だ。』
水溜まりをすぐに埋める。居ない神に祈りながら一服。吸い残りを置かれたグラスに放って、両手を繋ぐ。零れ落ちないように。始まる千鳥足のようなステップ。酔っているものは、きっと運命だ。叩くドアが無くても勝手にやってくるソレは簡単に人の間を引き裂く。釣り針を食い破る魚のように。
***
踊りが終わると、雨は止んでいた。黙りこくった空に油が浮くように、月が顔を出す。それは人を狂わせようとしているかのようで。月を避けるように涙は何処かへ消え、僕らの形をした影は互いの足らないものを補い合うかのように折り重なり、動かなくなった。夜を固めた露悪の引き金は、密かに持つべきものにもたらされた。




