熾:傘なし、赤髪、濡れネズミ
「ソクラテス。もう、君は自分から罪を負う必要はない。」
この世界が終わったら、その罪を断罪する者は居なくなる。そうなってしまえば、ソクラテスはきっと壊れてしまう。雪ぐことのできない自罰の隧道。煤を被って利己的に生きた彼と矛盾する。
『だが……』
頑なさが滲む強ばった声。否定したくないのに否定しようとする。
「だが……何だい?」
微笑と余裕を意識的に言の葉に潤わせる。酸素と水気を食う。
『……』
空気が振動しない。言の葉が食べ過ぎたらしい。
「まぁ、後は私に任せてくれ。」
緩く人を食ったような言葉を吐く。
『あぁ……。分かった。君に任せるさ。文哉君は集落の最奥に向かった。』
濡れた髪をかきあげて、空を仰ぐ唇から零れる。目は見えない。口元にはスイセンともアサガオとも別の花。悪戯に成功したことを喜ぶ微笑み。
「おう。」
その言の葉で巻き笛をしながら、私はそちらに向かう。揺れる赤髪。嫋やかな虹。まだ不器用に雨が降っている。
***
気付けば虹の境界線が曖昧になり、絵の具箱を全てかき混ぜたような、真っ黒な夜が出来ていた。花紺青に白菫。星と月が雨と一緒にジメジメと間借り。雨粒と一緒に落ちてこないものか。そうなったら、相当愉快だ。落ちてくるまでの間に、宙走る雨粒を数百引きちぎるに違いない。もっと多いかもしれない。
「しかし、いい加減身体が冷えるな。」
雨の中傘を捨てて踊ることは自由だとしても、流石にゲーテもこの長さは想定してないだろう。風邪をひいて色々な人に迷惑をかけそうだ。
***
何かの軒下を探す。濡れ鼠なのに猫のようだ。そろりそろりと前足を交換する。靴が水音を道と接吻する度に発するのが少し不快。土踏まずが寂しがっているのか、靴下と張り付いて自己主張してくるのも。いい加減にしろと言いたくなるほどに、逢い引きさせた後ようやく雨宿りが出来る場所を見つけた。屋根が付いてるベンチ。人影が一つ。
「この空に居る星と月ではないけれど、ここをしばらく間借りさせてくれないかい?」
つい言い終わる前に座ってしまう。バツの悪そうな雨音。見覚えのある靴が並ぶ。
『この世界を今だけ二人で間借りできるのなら。』
そう言って彼は振り向く。顔には雨模様。水滴る山荷葉。彼は今回も誂え辛い花を乞う。
***
星の代わりに降る花色の雨。乾くはずの無い靴は足と離れ離れになって、淋しげに雨から逃れて蹲くまっている。そんな幼い隠れんぼすら、道端の露草と一緒に見透かし包み込む雨。毎日が命日の雨粒は、降る刹那の為に生きているから、縹緻に優れているのかも知れない。二人で独占するには広過ぎた世界が、雨煙で狭くなったのもきっと雨のやさしさだ。
彼はココアシガレットを机に押し付け、円を描く。揺れる机と木の繋ぎ目で私たちと同じように繋がりきれない「えん」破線の輪。
『やはり、こうなってしまうね。』
彼は悲しげに嗤い、呟く。空が代わりに泣いているから、泣いてないだけなのかもしれない。
「文哉。」
つい呼びかける。
『でも、何となくまた***気がしてた。それが最後になることも何となく、ね。』
彼は、枯葉のように風に流される風情。私はまるで引き止める熊手。零しそうになる。
「そうだね。でも、おわりがはじまる前にそんなことを考えてはいけないよ。」
今日は目を零さない。文哉の目を押さえる。この不吉で酷薄な世界さま、恐れながら今はお目こぼしのほど。
***
二巻きのメリージェーンの片方に火を付けて、文哉に渡す。再びの営火。雨と風で直ぐに消えそうな燈。もう一巻きをその火が終わる前に口で分火する。二つの煙突が濃厚な煙を上げる。雨音のスネアとハイハットが私たちを隠すように早足になる。猩々緋のジャケットと同じ色の目。マリオネットの糸を切る時間。
『雨、止まないね。』
間奏を埋める言葉。
「泣きたい空には勝手に泣かせておけ。君の顔を腫らす雨じゃなければ良い。君の曇り空を退けるのが先だ。」
そう言って知らないことを調べるみたいに密に体温を分けながら、右手で震える背中をさする。残念なことに心を守る手を疎かに出来ないから右手しか使う事が出来ない。せめて、1・2・3・4・5 手が届く範囲のみの事由を愛し、掌をしっかり握りしめよう。きっと細い指でも1つ位なら支えられるはずだ。絡み合わす指。彼の手から仄かに香る熱。常識とか言う押し付けの聴診器では測り取れないような物を渡し合う。穴の空いた心に相性の良い曖昧じゃない愛を詰め込む。
「」
『』
「」
『』
「愛してるとは言わないよ。」
『ああ。私も愛してるとは言わないよ。』
私たちは夜をなぞる。邪魔が入らなければ、この夜が開けるまで。




