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ソラのイロ  作者: 亜房
山と集落 【緑青】
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澄香:機内モード

追う足音が聴こえなくなっても、時計の針が私を急き立てる。随分と遠くに来てしまったようだ。穴に落ちたり転んだりしなかったのは不幸中の幸いだが、これでは、逃げたことにはならない。この場所はそんな単純なものではない。すべてが誰かの為に作られているような感覚。常にまとわりつく消化されていない不安。この不思議な国とはもう長い付き合いだというのに、思わず走り過ぎてしまった。リノリウムの病的に整備された道に慣れた足が気弱に震えている。笑う。この世界から出なければ、何処に行こうともプラットホームの黄色い線の外側だ。風が鋭く吹いている。


***


 戻ったところで問題の解決にはならないことは、もう明らかだ。目の前の少し砂利が目立つ道を進む。気付かぬうちに整備されてないところまで来てしまったらしい。気味の悪いほど小綺麗な街の言い訳。時間が無いときの掃除のようだ。妥協せずに全てを綺麗にしようとすると、結局収拾が付かなくなり最初より汚い状態になる。私はそんな状況でもこの世界からは掃除されてしまうのだろうけれど。不揃いの石が私が歩く度にがちんがちんと当たって綺麗な石が欠ける。しゃがみこんで拾い上げると、太陽光が反射して、水溜まりに浮く油のような虹を目の前に架ける。自分の目印になる気がしてポケットに入れて、立ち上がろうとすると、空が急に暗くなった。太陽はまだ東から真上に上がる途中だったはず。視線を上げると、緑のハット。目は影で見えない。


『君は、澄香さんかな?』


歳をある程度重ねた声。渋く固い声。私の顔は勝手に固くなる。唯一見える口が戯れに緩んでいた。


***


 私はこの伯父おじさんの名刺に書かれている内容よりは多くこの人を知っている。坤野さんの盟友で、元クラスメイトの文哉君の父親、(イヌイ) 読司(ヨミツカサ)。地方では知らぬ人は居ないが、都内ではテナント募集が荒く貼り付けられているビルに挟まれている会社に務めている。喫煙者。手巻きタバコを海外から輸入している。そのこだわりはかなりの物で、信条で煙草を吸わない坤野さんすら揺らぎそうになった。お気に入りは紅茶の香りの葉。服がいつも紅茶の香水を付けていた。今知ったことは、この世界に居たということ。


「居たんですね。ヨミさん。」


彼はヨミツカサと呼ばれることを好まない。『仰々(ぎょうぎょう)しいじゃないか』というのが彼の談。確かに司るというのは、彼に対して使うには向かない漢字かもしれない。


『ああ、居たよ。ヒツジが居たら私も居なければならないだろう?』


カチッと見慣れたライターで手持ちの煙草に火を付け、軽く咳込んで煙に目を細める。この世界にもう彼が居ないことは、もう彼の耳に届いているのだろうか。


「坤野さんはもう……」


彼は首を振った。私もうなづく。儀式みたいだ。言葉を使わず、意識を擦り合わせる。私は余りこれを得意としていない。


***


『そう言えば、文哉を探しているんだけれど心当たりはあるかい?』


 心当たりも何も……私が探している人だ。私のせいで心を凍らせた人。溶かそうとする人は誰一人居なかったし、彼はシャットアウトしていた。機内《✈︎》モード。充電の消耗を抑えるような逃避だった。


『その様子だと、無さそうだね。』


諦めたような口角。それは何処かあのときの文哉君に似ていた。


***


『もう僕に近づかない方がいい。』


斜陽の校舎。気持ちの良い風が二人の席の間にひゅるり寒々(さむざむ)吹く。迫害の的になっている彼と話をする為に、最近無駄に残っている。


『もう僕に近づかない方がいい。』


再度言われる。彼はきこえないふりを見逃さない。


「何で?」


理由は分かったけれど、訊く。もしかしたら最後の会話になるかもしれないから。


『君には居場所があるだろう?僕と一緒に居るとソレは失われてしまう。僕を襲う寒波も君と一緒にいるようになってから、更に酷いんだ。』


ゴミのようになったプリント。穴だらけの消しゴム。バネが無いボールペン。それらを丁寧にバックに入れて、彼は言った。身体から温度が出ていかないように冷たい声で。メールの方が人間の温かみを感じるぐらいに……冷たい。


『さようなら。武梨さん。僕をうらんでくれていい。』


向けられた背中が斜陽であかく焦げ付いているように見えた。私は夏の虫では無いから、火傷やけどをおそれて、それを追いかけることが出来なかった。



***


『ん、大丈夫かい?』


突然石のように黙り込んだ私を、彼はいつの間にか帽子を脱いで覗き込んでいた。


「あ、はい。大丈夫です。」


駅の床を噛むガムのように、ねっとりと苛む傷口が得意気に開いただけだ。妥協し始めてから、過去の傷口って奴は容赦ない。おかげで慣れている。


『そうか。』


乾燥肌のせいでビニール袋が開かないときの色々混ざった顔をしている。


「はい。」


今度は沈黙が空気を旋回する。何も知らないくせに、騒ぎ立てる鳥のように。


『文哉は別に君のことを恨んではいないよ。きっちり新たな感情を見つけている。注ぎ込む場所も。』


沈黙を少し呑み込み彼は言う。私は呑み込め無かった。その沈黙も、彼の言の葉も。友達が夜の街に消えたのを見たときのように。


『分からない顔をしているね。』


憐れみの目を向けて、彼は帽子を深く被り直す。


『もう罪悪感に囚われなくて良い。そう言ってるんだよ。君は悪いことをしていないけれど赦された。』


心臓に生えた毛が綿毛に絡まって引っ張られる。罪悪感からの開放ってのは、彼と全くの無関係になるということだ。罪悪感は皮肉にも、私と彼を繋ぐ脆い糸電話。ハッキリ聴こえなくなっているうちに、断ち切られていたことに気づかず、私は一人相撲をしていたらしい。この電話番号は現在使われておりません。十円玉の山が崩れる。火奥がくれた目印が掻き消えた。針が外れた北を示す羅針盤。間の谷を渡れない。待ちに待ったかのように祝砲が鳴る。火奥の言う通りだったらしい。リアリスティックでバイオレンスな世界が牙を剥く。


『澄香さん!銃声だ!』


目を剥いたヨミさんの焦った顔と珍しい大声。茫然自失の私の耳には都会の足音。しかし急がなければならないという事実だけは伝わった。


『あっち方向だ。ヒツジ以外きっと全員居る。急いだ方がいい。全てが手遅れになる前に。』


背中を押しながら、ヨミは言う。この世界はよく分からない。私を雪のように置いていく。関わる時は身勝手に痛めつけるくせに、勝手に溶けて、アフターケアも無しに私を無視する。私はバネでもゴムでもないから元通りにならないというのに。気に入らない。しかし、言うしかないのだ。


「ありがとうございます。行ってきます。ヨミさん。」


鬼さんではないけれど、私は音の鳴る方に足早に向かった。ひょっとしたら本物の鬼が待っているかもしれない。

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