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ソラのイロ  作者: 亜房
山と集落 【緑青】
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垂氷:絡まらない小指

 アスファルトの水たまりが群れを為している。結合していく集団に浮く人。水(したた)る花。雨はいつから降っていたんだっけか。それすらも覚えていない。私はただ彼を見ていた。彼の手には雨で薄まるインスタントコーヒー。注ぐシナモンハニーの用意はない。薄く噛まれた紙コップの口。私が買ったフラットラテの口は私と同じ口紅をしている。


『垂氷か。』


雨音で聴こえないフリをするつもりだったけれど、心のアジャスターの穴が足りない。一番きつい穴に引っ掛けても溢れるように


「斎の言うことを聴くという選択肢も勿論有った。でも、斎と私の間には中央分離帯がある。それに斎が選んだ道は私を拾う為にかなり縁石に乗り上げていた。だから選ばなかった。いや、選べなかったんだ。」


と謝罪のような塊を彼に投げる。彼は二酸化炭素混じりの『そうか』と悲観的一瞥を寄越して黙り込んだ。今、私の脳には惑星が棲んでいる。きっと彼も同じだ。

 その惑星には、自らの利益をこいねがう辛酸のシャワーが雨音あまねく。激しい酸化。甘燃あまねく嫉妬の炎。羨望の凍傷。世界全土をあまねく忙しい生き物。かれも常に幸せなんてことある筈が無いのに、その青は消えない。だから私は停滞を選んだ。まるで本のように自己完結し歩を止める。他人の幸福に共感が持てない彼は、ただこの世界から抜け出す為に何でもすることを選んだ。この世界で起こることは彼に潜む惑星同様、彼の為にある。


***


 池で泳ぐブラックバスを触るみたいだ。雨にぼかされた服の色を頬紅(チーク)で色を添えるときみたいに、軽く叩く。それを見て、彼は乾燥した顔を少し弛ませた。輪ゴムならもう弾いても綺麗に鳴らないだろう。


『頭を冷やすのに付き合わせてしまったようだね。すまない。』


着ていたスーツのスリットから少し水分を含んだハンカチを渡しながら斎は申し訳なさそうな顔をして言う。私の頭の中の惑星はそれを見聞きし満足したのか、なりを潜めた。単純な構造らしい。私の中に【停滞】が大きく膨らむ


「斎くん。君はどうして、どう云う意味で君なんだい?」


顔を背けて、誤魔化すようにふらふらとした声で私が作った沈黙の穴を埋める。彼は不思議そうな顔をして、また埋めた穴を掘る。


『私はきっと自分の為に生きてはいけない人間だった。しかし、禁止事項(タブー)ってのは殆ど必ず恐ろしい程に甘美だ。気づけば手に触れていて理性を甘く蝕み、元に戻れなくする。私はきっと記号的で辞書に書いてある【利己】の使用例になってしまったんだろうな。』


目を瞑って、おそらく自分を思い返しながら斎はそう言う。鍍金メッキの剥げた鈍色の額縁に収められた過去。モナ・リザはきっともう居ない。過去に渦巻き引き攣る皺だらけの未来の実。脳のソレと同じくその皺の中から全てが始まる。彼の皺寄せが来るのを避けたい停滞が溢れ出る。


「斎。貴方はこの世界を終わらせて、何処に向かうつもりなの?此処に漂蕩(ひょうとう)したい私なんてどうでもいいの?都市開発の為の森林伐採みたいな事をするの?」


旅先の宿から帰りたくないとグズる子供のようにすがる。私が欲する停滞には斎も居るのに。


『私は、置いてかれてしまった元の時計の針を追い掛けるよ。どうでも良い筈がないじゃないか。君には此処から一歩踏み出す必要があるんだよ。』


その優しげな顔が鼻につく。私の想いは叶えてくれないくせに。


「何年生きるつもりなんだい?どうせ追いついても、その先の何処にも行けやしない。行けるとしたら天国か地獄くらいさ。」


言葉に明確な毒を混ぜる。彼は顔を顰める。刺激臭付きの毒だったらしい。硫化水素かな。


『変わらないな。あの時と。君は釣り針ごとルアーを飲み込むことになっても、何処に続いているかも分からない運命の赤い糸を引きちぎる。』


まるで縄張りを死守する猛獣だよと斎は呟き、スーツの内ポケットに手をやる。プラットフォームの黄色い線の外側に立っているような感覚。ガチャリと幻聴。


『ごめんな。君にこの塊をチラつかせるなんてしたくなかった。しかし私の思いを繋ぐ導線は事切れ、小指はもう交わせない。私は君と外の世界でまた逢いたい。これしかないんだ。』


彼がこの世界から逃げるために自分に向けた銃口を申し訳なさそうに、こちらに向けてきた。渡し辛そうな思いと一緒に。どうやら終わりらしい。でも、終わりまで私は自分から動かなかった。皮肉な満足感。諦めて目を瞑る。

 しかし、痛みは一向にやってこない。不思議に思って目を開ける。目の前に斎は居なかった。足も生えている。物も触れる。相変わらず停滞を求める脳。目の前に赤い糸のような引きちぎれた髪。訳が分からない。しかし、私の危機は続いているということは痛いほど分かる。屋根を探さなければならない。全てを隠してしまう雨から逃れるために。

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