文哉:『諦める』Forgotten name
憂さ晴らしに上からマドラーで掻き回したような部屋だ。目を開けて顔を洗い、口をゆすぐ。そう言えば泊めてくれた女性の姿が見えない。書き置きも無く、彼女の相棒のハンモックは寂しげに疲れた振り子のように揺蕩っている。この揺れから察するに、未だ出てから時間が経っていないのかもしれない。利便性より防犯性を優先したと思われるやけに重いドアを少し苦労して開けて、確認する。明けやらぬ空をうつす白い町にぽっかりと青い穴を空けた背中が遠くに見える。雰囲気が違った。彼女も包む世界も。あの夢も何かのメタファーだったのでは?と考えるほどに。思わず、冷たい風と青い背中を追いかけるように、慌ただしく走る。肩で白い息を吐く。真っ直ぐに長い道に白線を引いているみたいだ。誰が白線を引いたとしても、どうせこの世界は止まる人なんかいないから、意味なんてないんだけれど。
鉄の塊が無機質に列ぶ道。出来の悪く、ここにある意味が分からない彫刻は道の中央に椅子と置いてある。腰掛けた芸術家が、彫刻の絵を書くことを想定して置いたとは考えにくいから多分スペースの有効活用だろう。有効かどうかはこの際脇に置いておいて、これが無かったらもうモデルルームと変わらない。不気味な街だ……。はいはい、こうすれば良いんでしょ?みたいな考えが透けて見える見掛け倒しの偽物。有名無実。きっとこの街は、一般家庭でもコーヒーカップの下にソーサーが有るし、来客用のシュガーもミルクも揃えている割に、自分はブラック以外認めないとか言う偏屈な人だらけなんだろう。根拠は無いけれど、そんな気がした。
下らないことに気を取られていたら、人が鉛筆より少し大きく見えるくらい先の鉄塊の間に彼女は姿を消していた。遠いことが分かっていると言うのに、僕は100m走のペースで一気に走った。
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目視で確認した場所が正しいとするならば、僕だけ別の世界──ただでさえ普通とは別の場所にいるのに、別の世界と考えるのは毒されていると言う他ない──に居るのかも知れない。目の前にあるのは、行き止まりを示す標識と、建付けが悪いのかきっちり嵌っていないマンホールと着くのか怪しい街灯だけだ。この道に先があるとしたら、それはマンホールの先しかない。意を決して、下に入る。明らかに継ぎ接ぎの舗装がされている。思わず「ビンゴ」とほくそ笑んだ。何せ普通有るであろう階段すら、飛び降りれる位しか存在しない。この先にひょっとしたら、この世界の核心があるのかもしれない。寝ている蝶を起こさないようにそーっと日曜大工でも出来そうな板敷の通路を渡る。ひょっとしたらこの雑さがこの街の本性なのかもしれない。
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歩いて数十分が経過した。鉄のような臭いがする。明らかに状況がおかしい。その臭いの根源であろう角を曲がる。
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その先は彼岸花が咲く独房だった。
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冬の都会の吐息を織り重ねるような煙が繊細にたなびき、空と戀に落ちる。そこの主は、今と未来を綴り合わせられずただ終わっていた。身体の上にしっかりと終わりを示す花が供えられている。この花はエキナセアだった筈だ。
彼の弾痕の位置が疼く。足の踏む位置があやふやだ。顔が地面と近くなっていく。あぁ、僕は倒れ申し訳程度のているんだ……と知覚するのは何故か早かった。
ありふれていない世界。
ありふれていない銃。
その銃の副流煙。
視界に沢山ありふれてないものが溢れている。
しかし、僕の目に最後写ったものは、僕と一緒に地面に蹲っている鼨。薄れゆく意識の中、聴きとれたのは、悲しげな女性の声。
『スミカさん。貴女結局ヒツジを殺したんですね……。』
世界は全て眩んだ。




