澄香:責任転嫁のテンカウント Continue to Run Away or Trigger
ハウスダストの住処のようになっているマンホールの下。そこで息を吸う。咳と一緒に吐く。──煙草を初めて吸う人の仮装。暗闇に目を慣らす。
夜のボカシが逃げて、前方が見える。スプレーで描かれた赤を主体としたグラフィックアート。夜に住む人の身体に流れる赤黒い血の奔流をなぞっている壁。迷わないように腕を立てて進む。砂が私の腕から逃げて、壁を走る。本来ただ耳を通過するだけの音が大きく聴こえるような気がするのは、きっと私がこの世界の知覚過敏になってしまったからだろう。
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フェンスの下を這う。脳なくまた這う。フェンスを通り過ぎると、身体が使い古した布切れみたいだ。立って吐く息が白い。そう言えば冬だったな。今は。秒針を追いかけるのに必死で忘れていた。流れたのは時間と涙だけで星は流れていない。まぁ、どうでもいいか。どうでも良くないのは、これから流れなきゃ終われないらしい、血、だけ、だ。まだ道は続くらしいけれど、歩くのに疲れてしまって、一度止まる。正しいかどうかは知らないけど。しかし、お陰で気づいた。息の音が私だけじゃないこと。その音が近づいていること。金縛りにあったみたいに逃げられなかったけれど。
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『スミカちゃんかな?』
近づいてきて声を掛けられる。各駅停車の感情を呼び起こす声。あぁ、この人は私の味方だ……と。
「はい。坤野さん。こんなところで会えるだなんて、思っていなかった……。」
自然と嗚咽混じりの声になる。
『おいおい。泣きたいのはこっちだと言うのに……。』
温かい声が頭の上からする。それを頭に馴染ませるみたいに撫でてくれた。逆効果。蝶の鱗粉を涙で落としてしまった。もう、涙が目の中で飛べずに落ちていく。
『ごめんな。澄香。君には辛いことをさせる。君の血を目で全部流してしまうかもしれない。でもね?君がここから出る為にはしなければいけないし、僕が言わなければならないことなんだ。恐らくカホさんは私のことを話してないだろう?』
いきなり呼び捨て。出会い頭の不幸の手紙。不穏さを感じながらも、喉仏を拭き取り、頷く。積み重なった消しゴムにケチャップを掛けて置いてあったみたいな不安感。深読みをしたくなるような空気。何処か芸術的な不安感だった。でも何故か私の頭の中に最初に浮かんで来たのは、「年上の話を遮ってはならない」とか言う今の状況からはピンボケした、この世界に一番役に立たない「常識」とか言うやつだった。宙を仰いで黙り込む。風を見て見えない未来へと目指すイカロスのようだ。鉄《妥協》の羽はそこまで飛べなさそうだけど。
『私を銃で楽にしてくれ』
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聴いたとき、言われると分かっていたのに、理性を保つ枷が死屍累々になった。
信号が一斉に赤になる。危険を伝える理性のトラロープは一本もないから、黄色は一瞬も跨がない。
「そんな、こと、でき……」
止まる。胡乱な目。救いを求めていた。私の細い腕と心では引き金は引けない。砕けてしまう。
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『それで、良いんですよ。』
歪んだ目と目が合う。
声は目の歪みの後にひっそりついてくる。
視界が、何処かにいった。眠るみたいに。




