文哉:朝 MOon Rest aNd INGress
──無価値な夜。隠しごとが良く映えそうな空白具合だ。月は休みをとっていて、星すら影も形もない。誰かが跡形もなく掃除をしてしまったのかも知れない。視界の隅っこに空の埃のような雲。あそこにゴミを纏めたのだろう。風が雲を撫ぜるように過ぎていく。綿埃が舞っているかもしれない。このような夜は寝るしかない。しかし、僕が寝る事が出来るベットなんてない。寝ないように飲む気付けの酒もない。背中を預ける為の木も全て殺されてしまっている。切り株の椅子《chair》。座して死ぬのを待つわけにはいかないから、座らず進む。
***
夜に敷きつめられた木々の間を歩く。蜘蛛の巣を何度被ったか分からない。ただ、目的地は確実に近づいている。それの証明かのように、視界の奥に無機質な街灯がある。夜を殺す白い光。蛾が夜の死体に群がっている。夜を食べる蛾は、明日の朝何をしているんだろうか。そんなことを考える。きっと、腹が裂けて消化不良の無色透明な夜が身体と共に太陽光に溶けている筈だ。
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街灯の日向に着く。左手の甲に蝶が棲んでいる人が日陰に紛れていた。
『──ルリタテハ』
一瞥して、そのまま去ろうとしたら、影はそう言った。
「ルリタテハ、ですか。」
『あぁ。翅を閉じると死んだ木のように見える蝶でね。気に入っているんだ。』
「そう、ですか。」
判を押したような反応をつい、してしまう。
影は気を悪くした風でも無く、また口をただ単に開く。
『ところで、君は乾 文哉君で合ってるかな?』
突然読み上げるかのように言われた名前。子供が面倒くさがってする音読のような温度の声だ。
「違うよ。僕は、絢駒という。」
──熾の苗字。
──偽る……ということ。
綺麗事は偽りより人の為にならない。
融通の利かないカントの言い草なんて燃やして煙だ。目には染みるけれど、涙は流れない。幸か不幸か目に当たる煙には慣れている。
『オキの関係者……と言ったところかな。』
──熾を知っていた。無言で頷く。虚実を綯い交ぜにして、夜に異物を混入させる。
『ほう。彼女に関係者なんてモノが居たとはね。』
陰から出てライトを浴びる。眩暈が頭を襲ったみたいな猫背に灰色の髪。病的なまでに白い肌。深めに被った帽子から彼女は目を覗かせて
ふぅん。ういねぇ。
と言った。
***
──ルリタテハの刺青の女は、冷たい空気を纏う。酸素すら希釈して吸わなければならない。まるで溺れているみたいだ。営火の煙立ち上る海に既に溺れているのに。舐るような鋭い目線が、無価値な夜に潜る無価値な僕を値踏みしている。──的になっているみたいだ。目の前に硬質な弓矢を構えている射手が立っていて、弦を完全にしぼっている状態だ。いつ射抜かれるか分からない。
僕は硬直した。──此奴は危ない。
けれど、僕の硬直を余所に彼女は口角を上げ、その停電した街のような目を山なりに緩ませて
『夜はまだ続きそうだ。我が家に泊めてあげよう。大丈夫。オキと違って取って食ったりしない。』
と嗤って、僕を家の方向に引っ張った。
***
大きい掃除用具ロッカーのような部屋だ。動くことを嫌い続けた慣れの果て。終点の巣窟。
『そこに毛布があるだろう?それにくるまって寝るといい。』
多量の酒瓶。薬の抜け殻。本。
特に周りに物が散乱しているハンモックに横たわり、そう言った。
僕を見る訳でもなく、降る雪を口に入れるときみたいに宙を眺めながら。夜の灯りに触れた白菫色の喉仏がやけに艶かしい。
「あぁ、そうすることにするよ。」
吸い込まれそうな視線を無理に逸らして、無愛想にそう応えると、頭から大きめな毛布を被った。寝れる筈がない。そう思った。しかし、その毛布はどうも安心する香りがして、僕はいつの間にか寝入っていた。
***
目を閉じると、そこはベランダだった。星が僕らに向かって夜空を泳いでいる。夜空に溺れたままの星は、何を思うのだろうか。星を捕まえようとしているかのように、上を向いていふ彼女なら分かるかもしれない。
「熾」
呼吸の仕方を思い出したみたいに、声を掛ける。あの営火に薪をまた。彼女は振り返って、泣きそうな顔をする。それを誤魔化す、煙草の煙が目をやられたみたいな仕草。
『****』
「ああ、僕もだ。」
空を見て、僕も自分の感傷を誤魔化す。
「僕らは、まるで夜空に溺れたままの星のようだ。」
いつの間にか持っていた、非合法な煙草を吸って目を赤くしながら言う。
『ああ。そうだね。もしくは、船が無い孤島と言ったところか。』
「間違いない。僕らを繋ぐ船は元から壊れかけだったけれど、完全に壊れてしまった。後には、破線の輪が残るだけ。」
『でも、また***気がするんだ。』
「僕も、また***気がする。」
合言葉を確認するみたいに、僕は鸚鵡返しする。そうしたら、もう彼女は居なかった。夢の橋渡しはもう終わってしまったらしい。カササギはもう……いない。




