熾:灰色の髪、黒い眼、青い舌
どんな高性能のカメラで撮ったとしても、この夜を撮った写真は、前後左右が分からないに違いない。雲がヴェールで空を隠しているせいで、月すらも見えない、何も見所がない空を撮るような人がいるとも思えないけれども、そんな夜だ。
路地裏では、更にその何も見所のない空を建物の無粋な影が切り取る。集落を朝から夜まで、徹頭徹尾見渡せるとか言うあの鉄塔もこの場所は、東京の人口のように無駄な幾重にも渡るコンクリートジャングルと、悪趣味な雲が隠して見えないだろう。路地の向こうの街灯の作り物のような青白い光を盗み、マンホールから体を這い出す。
猩々緋のコートに灰色が鼠のように、蹲っている。空咳と一緒に飛んだソレ以外を念入りに落とす。
光を避けるように闇にもう一つの色が混ざる。灰色の長い髪。薄く開いた瞼。刺青のような隈。彼女はきっと、現実が見えないように、眼を圧縮している。
その病的な眼が私に焦点を結ぶ。目を逸らす瞬間を見誤った。出来ればこの人間とは、話したくないのだけれど。
『あぁ、熾さん。ご無沙汰しております。来ると思ってたんですよ。どうせ籠の中のヒツジに逢いに来たんでしょ??』
「そうだ、と言ったら?」
笑いかける彼女の声を押さえつけるみたいに、言の葉を破る。
『そんなに警戒しなくても良いじゃないですか』
彼女は少し口を開けて笑う。睡眠薬焼けの青い舌が見えた。
『私は少し交渉がしたいだけなんですよ。貴女と。このちっぽけな山の集落のリーダーとして。』
「何がお望みかな。その現実すら虚構に見えそうな目玉では、何が起こっても変わらないと思うけれど。」
『今、貴女が持っている銃。文哉くんに絶対に渡さないで下さい。彼に撃たせてはいけません、絶対に。』
にじり寄る『変わらないこと』を望む病的な眼。同じ空気を吸っては吐いているのではないかと思える距離。
「それは……」
私の勝手だ。文哉に可能な限り危ない目に合わないようにする為、保険で渡さなかっただけだ。
『ん?なんですか?何か不都合でも?だって、今までだって渡してなかったんでしょう?そのままでいいんです。どうぞ、何もしないでください。』
『停滞』が手酷く滲む目。溺れるほどに真空な虚。
途端にガサガサと音が鳴る。真空じゃないことを証明でもしようと言うのか。つい、その方向を見る。見慣れた顔。酷く冷めている。
「ソクラテス……。」
呟く。聴こえないように。その掛ける声は必要ないから。
『垂氷。お前の願いは届かねぇよ。俺には、お前をいつでも殺せる用意がある事を忘れるな。この世界は、終わらせなければならないんだ。お前が『停滞』をどれほど望んでも、な。』
それに、と言って切る。私に向き直った。
『その銃は熾、君のものではない。』
そう言って、彼は先程の強ばりが嘘のように、余裕のある笑みを浮かべた。




