澄香:空想の氷にアイスピックをふるう。
あの人が立ち去って後も、私は経年劣化しかしていないシャッターを見ていた。何も起こるはずがないのを分かっているのに。視線で物が焼けるとするなら、そろそろ、ちょっとした煙が立つんじゃないかと言うくらい、ずっと見つめていた。何かに囚われたみたいに。目の前がいきなり暗くなる。
『予想通りなことになっているな、君はこの世界から出たくはないのかい?』
聞いたことの無い声。何処か作ったような軽薄さだ。誰かは分からないけれど取り敢えず向き直る。少なくとも火奥ではないから。彼女はもう、私の世界にはもうやって来ない。彼女は鳥には向いてない。確実に跡を濁していった。煙はかなりの量まだ遺っている気がする。
『アイツも手酷くやったなぁ……。まぁ、気持ちがわからんわけでもないけれど。』
このわざとらしさが漂う大男にも、何処か煙が漂っている。少なくとも、この世界の関係者なのだろう。
『返事は無しかい?寂しいなぁ。この世界からあちらに向かう最短距離を私は向かうんだけれど、それに誘おうと思っていたんだけれど。』
明らかに怪しいけれど、聴き逃せない話だった。この世界で初めての具体的な話だったから。今まで全く見えなかった氷に、現実味たっぷりのアイスピックが刺さったような気がした。この大男がふるうアイスピックは色んな氷をぶっ壊してくれるに違いない。
「是非お願いしたいです。具体的に話を聞かせて下さい。」
私は、どうやら【抽象的な事物に対するアレルギー】に罹患してしまったようだ。いきなり、具体的に説明してくれ!なんて言われちゃ、こんな軽薄そうな人間でも苛ついてしまうだろう。
『あらら、どうも抽象を怖がってるみたいだねぇ。でも、具体の方がどう考えても危険だ。具体的ってのは、皆に分かりやすくて、使いやすい簡単な言葉で説明することだ。使いやすい言葉ってのは使いやすい理由ってものがある。【やばい】とか、君だって良く使うだろう?この言葉ってのは、良いことにも悪いことにも使う。つまり、価値が安定しないんだ。これ程信用出来ないことは無い。それなのに、具体的な言葉は考えもせずに飲み込めるせいで信じやすいんだ。蛇じゃないんだから、咀嚼しないで飲み込むなんて離れ業をしてはいけないよ。』
「抽象的な事物も安定しない気がするけれど。」
大男は肩を竦める。英語圏の映画に良くある【こいつ分かってねぇなぁ】って仕草だ。かなり様になる。
『抽象的な言葉は、その意味を時間をかけて斟酌するだろう?訳が分からなければ、訳が分からないほど。抽象的な言葉を使う発話者ってのは、何も意味を込めずに言っている訳じゃあない。余程の意地悪ではなければ、答えへの糸口は一つしか見当たらないのさ。だったら、その答えを言えばいい?違うんだよ。その考える過程が必要なんだ。ご飯を口開けて待ってるようじゃ、この世界に置いていかれる。』
「置いていかれる?」
『そうだ。置いてかれる。あっちの世界でもそうかも知れないけれど、大事なことほど、皆抽象的に話すもんだ。好きな人の好きな理由をみんなそこまで明確に言えないように。』
この人の振るうアイスピックはかなり無骨でとても強い破壊力を持つものだった。コンパクトガンみたいに。問題は、それが私の考えないように凍らせておいた脳が標的だったことだけだった。最後にダメ押しのように彼はこう言った。
「これまでよりも、かなり具体的だけれど、それでも、一緒に来るかい?」
危険が見えやすいなら、それでいい。たとえそれが大きくなっても。きっとそんな考えは間違いなんだろうけれども、そう思った。




