熾:飛ぶ様子を見せる訳にはいかないから
なるほど、毒されたのは私の方もだったのかもしれない。一つの顔しかない環境。木は1本。もうひとつの止まり木をなくした鳥は飛びっぱなし。そのまま、炭の輪を通る。破線の間を通らないといけない。しかも、音を立てずに、虫すら起こさないように。
『おい。』
後ろからしばらく会っていなかった、ソクラテスの声がする。何処か怒っているような声だ。頭の中に石を投げ込めば、球威が無くなる前に心当たりに数十回は当たるくらいの状態だから、振り返って続きの言葉を待つことにする。
『随分酷い顔をしてるな、火奥……いや、今は熾だったか。』
「そう。眼鏡で隠れてくれていると思ってたんだけれどねぇ。」
久しぶりに掛けた眼鏡は顔を覆い隠すには足らなかったらしい。
『もう刻限だ。この仕事もようやく幕引きが近づいてきた。その前に頭に不純物を作り過ぎてはいけない。心の上昇気流が頭を雲だらけにすることに使われてしまうからな。勿体ないこと、この上ない。』
「珍しく文学的なこと言うな、ソクラテス。」
『ソクラテスの面目躍如と言ったところだろう。』
心底面倒くさそうにソクラテスは言う。どこか様になる。
「ふーん。」
沈黙。
翻訳したらきっと誰もが【切ない】と訳すであろう沈黙。全てが終わってしまった寂寥感。
『そろそろ向かうぞ、あの山に。どうせあいつら二人もあの山に結局集まる。集まらざるをえないんだ。』
「まぁ、そうだねぇ。それが私のお仕事だ。そろそろ戻らなきゃいけないねぇ。」
ソクラテスは私を見て、仕方ないなって顔をしてこんなことを言う。
『あの店で最後に酒とあれを引っかけに行くか。』
これがきっとソクラテスの優しさなんだろう。そういや、あの時もそうだったか。でも、私はもう良いんだ。
「酒か、良いねえ。今の気分を飲み込んでしまうには、ピッタリだ。でも、アレはもう良いんだ。この前のが最後の一服だ。もうこれがあるから。」
ココアシガレット片手にそう返す。きっともう私はこれで十分だと、そう思うから。
『ならいい。取り敢えず行こうか、あの店に。最後になるかも知れないが。』
「あぁ、きっと、だねぇ。」
この仕事が終わったら、きっと私は。そんなことを考えて道路にある水溜まりに向けて中指をたてた。その鏡は色んな物が刺さって割れていた。




