澄香:空間のテナント募集
カフェに着く。最初から何も無かったかのようにもぬけの殻だ。それこそ、綺麗に揃えられていた筈のプレートやコーヒーカップ、ソーサーさえも無かった。どう考えてもおかしい。ドアにテナント募集の貼り紙がついてた方が自然な状態だ。何がどうなってしまったのか、よく分からない、よく分からないけど、何処か不安さを煽る。心がさざめく。
『だから、言ったじゃないか。此処には来ない方が良いって。』
後ろを振り向くと、嘲笑うかのような女が退屈そうな立ち方で立っている。そんなの聴いていない。
『君は逃げるように居なくなってしまったからねぇ……。逃げる場所なんてないって言うのに。』
風に流されて妙に間延びしたように聴こえる。どうもここらの風は勤勉のようだ。休んでいい時にも働く。言の葉を切り離すと、ただでさえ曖昧な女の言葉はそれこそ漂流しているアルファベットの一文字みたいに訳が分からなくなってしまう。
「何があったの?」
聴いてしまう。聴いてしまったというべきかも知れない。でも、聴くしか無かった。たとえ、したくなくてもしなければいけない時ってのは存在する。きっとこの世界でも。彼女の持ってるらしい地球儀でも。
『君は聴いてばっかりだねぇ……同時期に入ってきた彼とは大違いだ。』
この世界に迷い込んだ人は、他にも居たのか。
『興味あるのかい?』
反芻するような嗤い。
「別に。興味はない。他の人が居ようと、この状況は変わってはくれないし。」
『そうか、別に興味はそれほどないが君はそういう考え方をする子だった。』
昏い、昏い嗤い。
『久しぶりにこんなに笑ったから、一つこの世界の事を教えてあげよう。これからは、【めはふたつじゃたらない】瞬きすら慎重に配慮してとらないと、大事なことを見落とす羽目になる。それは、致命的なものとなってしまうかも知れないし、小火程度で収まるかも知れない。けれど煙は立つ。それは、この世界の暴力性の目印になる。だからしっかり見るようにするんだ。心でも見るくらいでなくてはいけない。』
相変わらず、抽象的な煙を立てる女、そう私は思った。肝心なことは何も分からない。まるで詐欺師の用いる偽の契約書だ。
『人聞きの悪いことを。私は詐欺師とは別物だ。詐欺師は、得てして何かを騙し取る存在だ。私はむしろ与えてるんだよ。君は折角二つの目がこの世界には不充分だとは言え、存在しているというのに、瞼の裏に懇切大事に保管していた。無駄にしているものの使用方法を教える事ってのは、そのものを与えるのと殆ど変わらないだろう?』
私が目を無駄にしている?何を言っているのか。私は自分の目で、しっかりと、見ている。人の話を盲目的に聴いてそのまま動いている訳ではない。ただ自分の思うように進まないのが当然な場所に生まれてきただけだ。そう、だけなのだ。
『もう一度言う。考えることを辞めるのは行けない。目を啓き、考えることだ。』
気だるそうな視線と私の目が合う。諦めとはまた違った何かを燻らせた目だ。良く考えれば、この女の目を見たことなんて一度もなかった。煙を集める目。赤い……この前着ていたジャケットの色のような目。
『あと、これは餞別だ。【この世界で、行き先を言わずに居なくなった人とは二度と会えない】』
ただ、おまけかのように一つ付け足して去る女の背中を見ていた。確か、あの人から去ったのは初めてだったかも知れない。きっと、あの雷の夜も違ったんだろう。




