坤野:新品の消しゴムでも
目を開くと、ただ白い部屋-ドアさえも白かった-に閉じ込められていた。心当たりが無いわけでは残念ながら無いが、唐突過ぎではないだろうか。いや、そうではないのかも知れない。私は後悔をしないようにする為に-世の中で後悔することほど無駄なことはない-自分のしでかしたことやら、何やらの記憶を全て消しゴムで雑に消しているのだ。新品の消しゴムを何度使っても消えない悪い記憶は捨ておく。まさに筆禍。もうどうしようもない話だ。
おそらくその禍々しい一つの問題が引き金だ。きっと今回も。ここ迄、問題が危篤状態なのは初めてだが、慣れのせいか落ち着いていた。
「起きろ!」
軍人風の声がドアの外から聴こえてくる。ご苦労なことだ。私ももう歳なのだし、これくらいの時間には好む好まざるとにかかわらず、体が起きてしまう。私はそう言えばこの声が八月の蝉の大合唱より嫌いだったな。げんなりしながら扉を開ける。
「おう、坤野君。非常に災難なことだけど、君はこれから死ぬみたいに生きてもらわなくてはいけない。」
それは遠回しな生存許可だった。どんな生き方だろうと、死に方を選べるのであればどちらでも良い。もう、死に方すら拘らなくていい気がするけれど。
「で、どのようなご要件で?」
どうせ火奥さんが話してたのと、同じ要件だろう。嫌なことに巻き込まれたものだ。苦虫を噛み潰しながらも、平静を保ってただ義務のように-それは機械のようとか形容するには無理がある程人間らしい行動だったと思う-言う。目の前の彼も本意でなさそうな顔で
「君に話せるのは全てが終わった後だ。」
とか何とか面白くないことを言いよった。それじゃあ面白くない。私に傍観者になれと言うのか?心とか言う見えない臓器に少し小火が着く。こんな思いからは若い頃に卒業したんだっけか。眠らせる時は時間がかかった筈なのに、起きる時は一瞬じゃないか。しかし、どうしようもないようだ。この世界はきっと私の話ではない。私がどうしようと私の自由意思なんてものは、何処ぞの分岐器に奪われてしまったらしい。火奥さんが言うには。
「今日の朝食だ。私達も物資が潤沢と言う訳では無いんだ。精々味わって食べてくれ。」
渡されたのは、古臭い駅のホームにこびり付いているガムのような色をしたおぼんの上に乗っかった見るだけで硬いとわかるパンにどう考えても薄い牛乳。こう言うのがこれから毎日続いていくんだろう。時の進む速さより寿命をすり減らす速さの方が速くなってしまいそうだ。しかし、死ぬことはどうやら無いみたいだ。良くも悪くも。私はパンの硬さを我慢して口に頬張り、薄まった牛乳で流し込んだ。




