澄香:遺失物届けを出しても見つからないかもしれない
走るのは『花下忘歸』への道。朝というにはまだ早すぎるくらいの時間の上がったばかりの太陽を尻目に靴すら満足に履ききらずに、いつもより感覚が早くなってしまった呼吸を無視してただひたすらに。何故だか知らないけれど不安だった。夜の包容力に置いてけぼりにされたからかも知れない。私と一緒に置いてけぼりにされた月は、雲間を縫って白い体を寂しげに浮かばせている。
踏切に足をとめられる。紅鳶色の電車が置いてかれるのを恐れるかのようにガタゴトと忙しく通り抜ける。だからだったのだろう。そこから逃げ出さなかったのは。いつもだったら田舎らしくゆっくり走る電車の窓から危険を感じとれた筈だ。紅鳶色に混ざった猩々色……。
『あー。随分と嫌われてしまったようだねぇ……。』
寧ろ避けられない理由がないだろう。一緒にいて心が波立つ。いや、粟立つ。
『まぁ、私も君のこと余り好きになれないからお相子かも知れない。』
煙を吐き出しながら火奥はそんなことを言う。嫌なら関わってこなければ良いものを。それならばこちらも渡りに船だと言うのに。
『私も仕事なんでねぇ。好きで関わってる訳では無いよ。』
仕事?私とその仕事にどんな関わりがあると言うのか。
『君は知らなくていいさ。この街には知らなくていい事が山積みにされている。』
「知ってますよ。暴力団紛いの宗教のお話なら。」
思わず口に出た。それは明らかな失敗だった。仕事の内容がソレで当たっているとしても。この問題には、深入りしてはいけない。この女と同じように。
『確かにその関係の事だねぇ。しかし、それ自体は些細な問題なのさ。私は地球儀を見る仕事をしているんだ。決してその辺を出歩いて使えるものではないけれど、それは君が持っているこの近辺の記憶という地図も一緒さ。移り変わってしまっているから、今となっては使えるのものでは無いいって考えると、こちらの方がより広い世界を見れるのだし、いいのかもしれないねぇ。』
何を言ってるのかさっぱりだ。【要はこの話はこの暴力団紛いの問題で片付く話ではない】って事なんだろうけれど、それだけで決めつけるのは明らかに早計だ。まぁ、どうでも良いか。この問題には一切関わらないと決めたんだ。最初から決めてた話ではあるけれどこの女が絡んでるとなれば尚更だ。早くカフェに向かわないと。火奥がまた何かを語ろうとする前に。私は逃げるように走り出した。だから、火奥の最後の言葉を聞くことは出来なかった。(それは、唐突に吹き出した強い追い風のせいでもあった。逃げるのに必死だった為、それは走りやすくて良かったのではあるけれど)
『助言を一つ君にやろう。なぁに、簡単な話だ。もう、そのカフェとやらに行かない方が良い。もう、彼は居ない。奴等に攫われたからね。もう彼は君の前から意識的に姿を消したんだ。この世界ではもう会うことは叶うまいよ。』




