火奥:420番街
私は、相変わらず泥濘を揺蕩うように生きている。本意ではないけれど、ただ生きている。昨日の残り香を追い出すように窓を開けると、起き抜けには少し面食らう陽光が差し込んで来た。この部屋に居るもう一人の寝顔を照らしている。何をしなくても結局のところ朝は来る。
420番街。これがこの世界の名前だ。だからと言って何だという訳では無いけれど、名前を聞かれたらそういう風に答えるしかない。何だかんだ、この世界に迷い込んで一年が過ぎたが、これは変わり続けるこの世界で唯一変わらないものだ。何か意味があるのかも知れないし無いかもしれない。
朝ごはんの準備はほとんど終わっていた。トーストを狐色になるくらいまで魚焼き器で上手いこと焼き-家にはトースターというものが存在しない為、魚焼き器が業務外の仕事をする羽目になる-バターを塗った。目玉焼きも普段よりひとつ多く焼いてある。後は珈琲を淹れるだけだ。水を入れて、火をかけてから放置していたやかんが存在を主張するかの如くヒューヒューとなる。
そろそろ起こさなければいけないだろう。普段起きる度に【また起きてしまったか】等と考える人間が起こすなんて行動を取るなんて筋が通ってない気もするが仕方ない。
「寝不足かも知れないがそろそろ起きなさい。文哉君。休日なんて自堕落に生きるものだけれどね。」
文哉君は目をこする仕草を何回かして、また寝てしまう。昨日の事を考えると仕方が無いか。私は、軽くラップを上から掛けて、ヒューヒュー言ってるのにも関わらず何となく放置していた熱湯を珈琲の粉末が入ったカップに注いだ。安っぽい味だが手軽に飲めるのだから贅沢は言えない。毎朝頭から降りてくる苦いものと一緒にゆっくりとゆっくりと飲み込む。
やっぱり珈琲はブラックが至高だ。無駄に甘い物はどうも胸焼けしてしまう。人生大半が苦いのだから、今更他に甘いものを追加しなくてもよいだろう。それは、汚水にこまごめピペットで清水を入れるようなものだ。そんなことを考えながら、いつも使う曰く付きのカードでザクザクと素性の知れない無農薬野菜を切り刻み、アルミフォイルで丁寧に巻く。
無駄に律儀に進む右回りの時計の秒針が均等に音を鳴らして進んでいる。取り返しのつかない物を巻く感覚。それは時間かもしれないし、この違法の塊かも知れない。綺麗に巻き終わるとオイルライターに火をつける。身体を汚す有害な煙が都合の悪い事を覆い隠す見たいに広がっていくのを眺める。
そう言えば、ここに来る前は吸っていなかったんだっけか。どうも遠い昔のようだ。その頃の私は自分で炎を出してその煙が体に充填されていた。あの燃え盛った炎は何処へやら。終わりの見えない思考を頭の中を洗う見たいにコロコロと転がす。いつもの事だ。後悔は全くしていない。当たり前だ。後悔なんてしても、私には左回りの時計の持ち合わせがない。時間だけは無駄に余っているけれど、そんな事に使う時間だけはないのだ。それはどうも過去を【諦める】
ことに似ていた。呼び込みたくなった理由はそういうことなのかもしれない。炭化してしまった残滓と消えかけの火を合わせるという事は、火を熾し直すには上等な方法だ。それはまるで、誂えたのかのように。




