坤野:ただ勤勉な五本指
「初日は何となく遅れる気がしていたんだけれど、本当に遅れたな澄香ちゃん」と独りごちながら、使い古しの滑りの悪さを感じて、買い換えようと思う度に何故か復活するシャッターを下げて-毎度の如く物凄い時間を要する。いい加減滑りが良くなろうが変えるべきかも知れない-澄香ちゃん宛の張り紙を貼る。不要不急ではあるが用事が出来たのだ。不要不急なのに何故行くのかって?それは察するべきだと思う。こんなに客が来ないんじゃあ開けてる意味も無い。
我がカフェから出て少し行った所にある路地を右に曲がると、いかにもな雰囲気のBARがある。別に足音を立てていた訳でもないのに、ドアの前に立つと端正な顔をした男が開けて出迎えてくれた。
『坤野さん。結構久しぶりですね。』
恐ろしいくらい素晴らしい手際で椅子まで引かれてしまった。顔に魅力が有るとそれに合わせて挙措も美しくしなければいけないという義務でもあるのだろうか。何処かわざとらしい。
「おー。斎君。君も相変わらずなようだね。」
そのなんて言うか、何でも知ってそうな賢い雰囲気を纏っているところとか。
『いやー、まぁそうですね。私の事を本名できっちり言ってくれる人なんて殆ど居ないので。そういう人には礼儀正しくしようかなと』
「確かに。まぁ、私も筋張った漢字はあまり好きではないから普通に接してくれて大丈夫だよ。ところで、私を呼びつけたあの人らは?」
灰皿も無いし煙くも無いからここに居ないのは確かだろう。斎くんは溜息を吐きながら何でもなさそうな口調で言う-やり慣れてるのか妙にさまになっていた-
『あー、もうすぐ帰ってきますよ。自家製の【B】を取りに行ってるだけですから。取りに行くなら終わってから行けって言ったんですけどね。』
相変わらずタフな女性だ。
あんなに濃密で良質なグラスを吸引するってのは並大抵はもんでも無いはずだ。
ドアがまた開いた。噂をすればと言った所か。
『ソクラテスー!帰ったよ。おー。坤野君じゃない。その後どうだい?』
斎くんは用意した少量の水では足りなくて口に漢方が残ってしまったみたいな顔をする。
赤コート-確かこの色味は猩々色と言った気がする-は呼びつけた癖に忘れているらしい。まさに自由人-どちらかって言うと風来坊か世捨て人の方が正しいかもしれない-巻き込まれた側としてはたまったもんじゃないが。
まぁ良いか。
どうせ碌な用事ではないが、先に済ませてしまった方が確実に楽だ。
「ところで!火奥さん。」
考え込んでる間に火奥さんと斎くんは回し煙草をしていた。構成成分が判然としない煙がモクモクとしている。
『あー。そう言えば君には、話があるんだったね。』
火奥さんは、相変わらず空気を見透かしていた。




