※2 チラリ大冒険(引きこもり)
『押し入れ』から出て、キョロキョロとタマが周囲を見まわす。体には『押し入れ』から持ってきたシーツがちゃんと巻かれている。
場所は変わらない。タマが飛び乗った太い木の枝の上だ。地上四〇メートルほどの樹上。どこのジェラッシクパークかレッドウッドかという森林地帯が視界を埋めていた。まあ実際の古代樹や国立公園はでかいと一〇〇メートルクラスらしいので、まだまだ小さいほうのなのだろうけれど。だが幹の太さはジェネラルシャーマンかもしれないな、これ全部。
二人それぞれが魔法を使い、ここがまだ例の異世界なのかと検証する。
魔力があって『押し入れ』が使えて俺がいることから、きっと世界は変わっていないのだろう。同じ世界の別のどこかへ、召喚魔法陣の暴走とかであのとき飛ばされたと認識して良さそうだ。
ちょっだけ魔法を使い、すぐにタマは再度『押し入れ』に入ろうと構える。
同時に俺も予定通り行動を起こし、とある絵を現実化させた。
輝きと共に絵から膨大な量の魔力が消費されたかと思えば、タマと俺は『押し入れ』の中にいた。
「成功したようだね。ちゃんと魔力も回復しているし、おお、シーツも新しいのがある。
……でも巻いてたシーツがなくなってる」
(あー、シーツ、ごめんなさいうっかりしてました。俺のせいです。
とりあえず使用後の絵も残っていて、ちゃんと魔力の補充も出来ますね。
ああ、エルフ耳達と戦う前にこれ用意しておけばよかった……)
「過ぎたことは仕方がないさ。これで今後の安全性は相当に上昇したし、それだけでも私としては御の字だよ。
次はシーツなどこの部屋のものを複製できるかどうかだね」
(うーん、今後のことも考えて服飾も別レイヤー化出来ないかちょっと試してみますね)
やったことは単純だ。
『押し入れ』の中をびっちり描き込んだレイヤーを作成し、そこに別に描いてたタマの全裸絵レイヤーを重ねたのだ。レイヤーとは、絵を描ける透明な板だと考えていい。しかもそれは複数重ねて一枚の絵に出来る。
そして、その絵を現実化させた。
結果、タマの後ろにその背景だけが生み出されるのではなく、しっかりと『押し入れ』の中に移動できたようだ。
(でもこうなると、対処されない限りは無限に魔力が使い放題ですね。エネルギー保存の法則とはなんだったのか)
「そんなの魔法とかがある時点でお察しだろうさ。
……ところで、スズキくんがいないのだけど……」
(あ)
先ほど『押し入れ』から出た際、タマの側に死霊兵スズキは浮いていたのを見ている。
だが今までであればこの『押し入れ』に来ると同時にベッド上に鎮座していた死霊兵スズキの姿がない。
これまではタマの意志で『押し入れ』に入っていたので自動的に着いてきていたが、衣服と同じでこのやり方だと死霊兵スズキも着いては来られないらしい。
「どうなっているか不安だ。すぐに戻る――」
(いやちょっと待って下さい。アイコンは表示されたままでパーティーは組んだままですし、おそらく死霊術は解除されていません。
折角ですし、この状態から死霊兵スズキになにか命令出来ませんか?)
「そうか。そうだな。……どうやればいいんだろう? ウルくんの方からは何かないのか?」
(元々、描画魔法の使用決定キーは死霊兵スズキの物ですし、ここでは魔法の使用は不可能です。他のも同じでこっちからはアイコンが灰色で指令不可ですね。『RPGシステム』上では難しそうです。
出来るとしたらタマさんの『死霊術』の異能部分からになると思います)
「『死霊術』か……。こうかな」
タマが呟くと共に彼女の体からわずかに魔力が生じる。
それは空間に溶け込むように消えると、彼女の前に紫色の魔法陣が出現した。
紫色の輝きが増したかと思えばすぐに魔法陣は消え、数瞬遅れてからその空間に無数の黒い泡が立ち膨れあがる。と、今度は中から死霊兵スズキが出て来た。
死霊兵が出た後は泡がプチプチとはじけていき、何もなかったかのように消えてしまった。
出来た出来たと喜ぶタマを横目に、俺はログや取得済み魔法一覧を確認した。
予想通り、『死霊術・死霊兵召喚 発動』の文字がある。
そして同じ魔法スキルはツリー上や習得済み魔法一覧に確認出来るが、俺からはやはりそこが灰色になったままだ。
そう、タマの『死霊術』の異能力は、魔法として俺の『RPGシステム』にしっかりと取り込まれているのだ。
そしてシステムに取り込まれてはいるがシステム外の存在でもあり、使用権限はタマのもので俺からは操作一般が不可能となっている。
元々『押し入れ』で魔法が使えないのは『RPGシステム』の元となったゲームの影響だろうとは考えていた。
そして『死霊術』は俺にとってはシステム内でありながらも、タマにとってはシステム外でもあるために、システム対象には完全には収まらず、この『押し入れ』内ではタマだけが魔法であり異能でもある『死霊術』を使うことが出来るというわけだ。
これは以前、『押し入れ』内でタマが死霊兵スズキをふよふよと飛ばして遊んでいたので、もしやと考えたのがきっかけであった。
おそらく、『押し入れ』を絵にしてその発動ができたのだから、外であれば俺からもこの魔法陣を絵にすることで同じように発動が可能だろう。
ただ『押し入れ』内だと描画魔法アイコンが使用不可になるため、俺からはどのみち操作不可となる。
さらにこれらの結果から考えると、この『押し入れ』内では『RPGシステム』の魔法は使えないが、この異世界で使われているような魔法であれば使用可能かもしれないということも考えられた。
これらの結果を踏まえてタマと協議し直し、再度実験である。
タマが台所にあった包丁で腕を軽くなぞってみる。
どうやら自傷行為は可能らしい。だがそれは魔力同様、すぐさま何事もなかったかのように回復――治ってしまっていた。痛みはしっかりあるらしいが、治るときは微妙な違和感だけで治ると言うよりも逆再生みたいな感じとのことだ。どんな感じなのかさっぱり分からない。
次いで浴室で髪を濡らしておいてもらい、水も出しっぱなしにしておく。
その間に俺はタマの絵の上に巻いたシーツなどを別レイヤーで描き足した。
準備を整え、タマが『押し入れ』から出る。
場所は変わらない。
「ん。どうやらスズキくんを置いてくることも出来たようだ。
……呼び出しも可能、と」
死霊兵スズキをあえて置いて来ることが出来るかを確認し、置いてきた場合も呼び出すことが可能であることがこれでわかった。どうやらこのあたりは彼女の意志一つで自在らしい。
持ってきた包丁でまた自分の腕を切りつけ『押し入れ』内のように治らないことを確認すると、タマが包丁を木に刺す。やたら硬い木だったらしく、何度も同じところをえぐってやっと刺さったようだった。
その間、俺は先に描いていた醤油などの絵が現実化出来ないか試していたが、やはりというか、結果は空振りに終わっていた。
(ではまた『押し入れ』へ)
描画魔法を起動し、瞬間的に『押し入れ』へ入る。
「おっとっと、スズキくんを抱いた状態の絵にしたのかい? なにも聞いていなかったから焦ったじゃないか」
(いや、すみません。この辺りも可能かどうか知っておきたくて。
そして、どうやら実験は成功したようですね。シーツの結び目の絵準拠に変わっています。
髪も乾いていますね。これも絵通り。新しいシーツもありますね)
「浴室の水は止まっているね。包丁も新しいのがある。
ふむ。どうやら完全に絵のとおりというわけではないようだ」
(え? なにかありました?)
「シーツのここを見てくれ。これはさっきウルくんから隠れて私が少し破っておいたんだ。
ウルくんは正面から描いているだろうと踏んで、後ろ手でちょっとね」
得意げにタマが尻を晒しつつ、破けたと言うよりもほつれたという程度に損壊したシーツの部位をつまみ上げる。
確かに俺は正面から見た図で巻かれたシーツを描いていた。後ろの内側であるその部分は、見てすらいない。
「ウルくんの絵によって結び目は変わったのに、ウルくんが認知していなかった破損は変わっていない。もちろん絵にも描かれていない。
不思議だったんだよ。絵は三次元じゃないから、写真のように完全に模写したところで見えないし映らない部分が絶対出来る。それなのにウルくんの『描画』は三次元的、四次元的に作用している。
一番最初にウルくんの体が生きていたときも、小さな火を描いて作って見せたじゃないか。
火は不定形の象徴でもある。それを平面に描いて、実際に現象として火を生み出した。
だが先に実験したとおり、物体を現実の存在にするにはウルくんが想像しながら描いただけではうまくいかない。
これらから考えられる意味はなんだと思う?」
(俺も予想してましたが、やはり『描画』で起こる事象は、絵自体ではなくて俺の認識によって影響されているというのは確定でしょう。
物質化に関しては構造とかの問題から想像だけでは認識が弱く、そのものを直接参考にしないといけないって感じですかね。
火に関しては物質ではない、そういう現象だからという認識の結果、かな。
ついでにいけば、あの火みたいに想像だけで作った現象は現実化出来ても、非常に不安定で弱々しいってことになりそう)
なんでも生み出せるはずの力を得た者が主人公の物語では比較的テンプレな設定である。なんでも生みだし作れるが、その詳細知識がないからソレがなんであるか決定できず生み出すことが、作り出すことが出来ない。
「私も同じ見解だ。だからこそあの時の火は小さかったし、『描画』で描いた私を現実化しても、現れた私の記憶は『描画』で描かれたときの過去の私ではなく、その後の私となっている。ウルくんの認識が私の肉体の損傷と認識している部分のみに影響するからだと考えられる。
そして『描画』によって『RPGシステム』の魔法が当たり前のように使えることと、目の前にあるものを魔力を補助にして現実化すると上手くいくのは、ウルくんの認識を元に、さらに有機的なアシストが働いているからだと考えている」
有機的なアシスト。
考えてはいたのだ。
描いている本人が気付かないはずがない。
絵というのはどんなに描き手ががんばっても、絵が絵である以上、情報としては二次元でしかない。さらに例え立体ソフトなどを使い立体化しても、内部はそうもいかない。そして今度は内部の映像化を突き詰め始めると、人間は脳内のシナプス配置を映像記録化するだけでも世界中のハードディスクが必要になると言われている。
第一に俺の絵は俺の絵として描くと、写実的に描いても今まで描いてきたものの影響で漫画絵、もしくは萌え絵と言われるイラストに近くなる。俺は年齢のわりに技術があると自負しているが、基本は仕事のためだけの技術だ。美大とかに行ってしっかり勉強してきたような人達とは基礎能力でどうしようもない差がある。どこかの画家が描くような写真と見間違うような写実絵ではないし、二次元的な意味以外を含んだ芸術的な何かでもない。あくまで商業のための絵なのだ。
だが『描画』は、明らかに絵に描いたとおりになるよう、俺が思ったとおりになるよう、現実に影響を及ぼす。
これが差す意味はわからないが、どうやらどこかで何かが、誰かが融通を利かせてくれているらしいことは感じていた。
(……タマさんは、この世界に神はいると思いますか?)
そしてその場合の、否、異世界召喚という状況に考えられる最大の懸念は、これら特殊で強力な異能力を与えたモノが存在するのかどうかだ。
異なる世界から強制召喚し、有用で強大な力を与えることがあの魔法陣だけで出来たのならそれでいい。
だがもしそうではなく、何かしらの上位者による手助けによってそれが成り立っていた場合、与えられた力はその者の力によって失う可能性が生じる。
同時にそれは、元の世界に帰る際の最大の障害になるかもしれない。
そいつの目的は解らないが、わざわざ連れてきたのだ。呼ばれた対象が勝手に帰ると言い出したら面白くないと思う可能性がある。
タマもそういった存在の可能性を考えていたのだろう。すんなりと返しが来た。
「召喚された際、ウルくんはそのような存在を感知したかい? ちなみに私はないな。気付けばあいつらの前に居た」
(いえ、俺はタマさんしか見てないですね)
若干はぐらかす意図も含んではいるが、嘘なく答える。
こう考えるとあのとき見たタマそっくりの彼女が本当に今目の前にいるタマと同一人物なのか不安になるが、どうしても彼女が敵対する存在には思えなかった。
それを聞いたタマはベッドに上がり寝転がると、そのまま持論を述べた。
「私の予想だが、こんな異世界召喚があったんだ。神のような存在がいないとは言えないが、私たちが危惧するようなのはいないんじゃないかな。
いても現時点では私たちに敵対の意志はないどころか、どうでもいいと思っている。
もしくは複数ある内の一柱などで、何かしらの行動を起こしたくても、力関係問題でそこまで大それた事は出来ないのかもしれないな。
理由としては私たちを召喚した連中が、私たちを神子と呼称しながらも敬う様子がないどころか、陵辱し利用し尽くす気しかなかったこと。
連中には神そのものよりも王家を上に置いている節があったこと。
良いようにされていた神子達が大勢いたこと。
あの召喚魔法陣の暴走で転移したらしいこと。
信仰者である奴らが大勢死んだはずだけど、今のところ私たちになにも問題が起きていないこと。
奴らの話では奴らに敵対していた者達がいるらしいこと。つまり神が着いていながら敵対できていたということ。
世界間移動やこれら能力の付与などを考えると、地球にはなかった強大ななにかがいる可能性は高いけど、それはおそらく私たちにとっての当面の目的であるウルくんの蘇生には関与しないのではないと思う」
なによりもね。と彼女は続けた。
「次元を超えたり超常の力を与えたり外したり、そんなことを自在に行える明確な敵性存在がいた場合、私たちはなにも出来ない。世界が上位世界からのシミュレーションだとしたらという科学哲学と同じことだよ。
完全な意味での上位世界による計算世界だった場合、この世界も元の世界もシミュレーションで、あのとき私たちはあの場から情報だけを抜き出されてコピペで作られた別の私たちである可能性もあるんだ。
単純な世界間移動にせよ世界間コピペにせよ、やった者がまさか自分が与えた力で害されるような間抜けなわけもないだろうし。私たちよりも情報や思考が足りないなんてこともないだろう。
ありふれた神超えの物語のように、実際は努力や気合いでどうにかなるということもないし、ましてや覚醒してどうにかするなんてのは以ての外だ。
結論。警戒するのはアリだが、今は考えるだけ無駄さ」
確かにもっともである。
よくある展開だったら与えられた力を足がかりに神に近付くのだろうけれど、それを拒むような存在が神なら元からそんな道筋を与えないだろう。つまり足がかりにもならない可能性が高い。
さらにあるあるで、その神の底意地が悪くて人間が足掻く姿を楽しむため途中まで道を与えているという流れもあったが、それもまずないと言えた。あの聖王家とかいう者達は明らかに信仰対象の神を舐めていた。自分たちのために利用することしか考えていなかった。神が意地悪だったら、そのような下位者に好きにさせているとは思えない。
奴らの神罰に俺たちを使わせた展開だったらどうなるか知らないけど、今のところそういった感じもないしなあ。
そしてそこまで万全ではない神なら、抗い様はある。かもしれない。
そういった上位存在と戦うと決まったわけでもないし、タマの言うとおり今はそれを危惧するだけ無駄だろう。希望的な観測ではあるが。
それでもまだ疑問点はある。
(さっき言っていた、現実化の際の有機的なアシストとかはどう思います?)
「予想でしかないけど、魔力じゃないかな」
(魔力ですか?)
「うん。むしろ魔力が神の一部か、そのものとか、そんな感じかもしれない。
聞く限り『描画』は魔力を絵の具に見立てて描いているんだよね? そして現物を前にしてその物や場にあった魔力を使い描くと、描いた物を物質化出来る。これから考えて、魔力そのものには万物に変換可能な高度エネルギーとしての性質と、付近にあったものなどを記憶保持する何かしらの機能がある可能性がある。直近の記録にあるものへの変換の方が効率がいいとか、ありえそうじゃないか。物質化よりも現象化の方が行使しやすいのは、それが原因じゃないかとも思える。
まあこの辺りは、この世界の魔法体系を知ってからじゃないと仮定でしかないんだけどさ」
でもそう考えると、神の存在に一定の説明がつくのは確かだ。
(だけど、『RPGシステム』の魔法が陣を描いて使えるのは?)
そこだよっ。と興奮気味にタマが起き上がる。
「『描画』するのはウルくんだけど、描画魔法のトリガーは死霊兵であるスズキくんが持っているよね。
実験を続けないとわからないが、『RPGシステム』の魔法はウルくんとスズキくんによって補助されているんじゃないかな。
『RPGシステム』の魔法は元々この世界にあった魔法とは趣が違うようだけど、ウルくんの反応を聞く限りだとゲーム上のそれとさほど変わりなく動いているみたいじゃないか。
魔力の性質が仮定の通りであれば、エネルギー問題は大丈夫だろう。だがその効果を確定する記憶や情報は一体どこから来るのか?
つまり変わりなく作動するようウルくんが『描画』と『RPGシステム』の両ソフト面を、描画魔法のトリガーになっているスズキくんが魔力に魔法内容の投写、いわばハードへの補助を行っているんじゃないかな?
そしてそれは、ウルくん本来の体であるスズキくんとの繋がりが、今も残っている証だと思うんだ」
幽霊の俺がソフトで、骨のスズキがハードである。魂と体。その理屈には、ただ魔法の性能を曝く以外の意味があった。
タマの視線が、見えるはずもないのにどうやってか俺を正面に捉える。
例え死霊兵スズキが生き返り、あの『鈴木潤一』となったところで俺には一つの懸念があった。
俺という存在は、首輪のせいか『RPGシステム』のせいか、最初から『鈴木潤一』からは切り離されていたことだ。
故に死霊兵スズキが生き返り『鈴木潤一』になったところで、召喚されたばかりのころの『鈴木潤一』がそこに居るだけで、俺というこのプレイヤーはプレイヤーとして、キャラクターにはなれないままなのではないかという可能性だ。
懸念が消えたわけではない。
彼女の言葉は俺と死んだ『鈴木潤一』が同一の存在であるという、証拠にもならない極々小さな可能性を示しただけに過ぎない。
でもタマは転移する直前に言った。生き返らせる目処は立っている、と。
それが真実なら、その先まで想像したタマも同じ思考に至り、危惧したのかもしれない。生き返った『鈴木潤一』が俺ではない可能性を。
タマのお腹がぐうっと鳴った。
自らの腹部を見て撫でさすり、腹の音のせいか、それとも先ほどまで見せていた勢いのせいか、恥ずかしげに彼女が笑う。
あざいといなあ、と思う。
「この部屋には台所や冷蔵庫があるのに食料がない。森に食べられる物があればいいのだけど」
システム画面端にある時計では、召喚されてから八時間ほど経っている。
この時計がどういった基準の時計なのかはわからないが、経過した時間だけで見る限り地球のそれを基準にしているのだろう。
その間、タマは先ほど実験でここの水道水を飲んだっきりだ。召喚されたときはお昼前くらいで、昼食もまだだったので、相当お腹が空いているはずである。
(次の実験の内容は、外部の物を中に『押し入れ』に持って来られるかどうかですね)
彼女と出会ってたったの八時間。
ほとんど一目惚れであった俺がいうのもなんだが、もしかしたら、本当にもしかしたらだが、タマは本気で俺のことを好きになりかけているのかもしれないと考えていた。
でもそれは、俺の現在がログという文字だけの一次元的情報に近いからだという前提からだ。そう思うようにしていた。
だけどさっきまでの彼女の反応は、あざといくらいに俺の体も本気で求めているものの類に見えた。
彼女には俺の絵と『描画』のような、小説家や文字といった分野に関する明確な能力がない。いいところ物書きをする際に籠もっていたというこの『押し入れ』の原型になった離れだけだ。
タマが小説家田中奏太であるという話が嘘か真かはわからない。
ただ、俺はそういった葛藤が少ない方だったようだが、やれることとやりたいことが一致しないのなんて世の中にはありふれている。
俺にとって絵を描くことは完全に生活の一部であった。その高校生としては高いと自負する技術は、才能というよりも環境と時間による結果だと思っている。身近に本物の天才が居たのだ。自惚れる要素などほとんどなかった。ちょっとぐらいはあったけどね。
そんな天才も、生活のためというお題目がなければ漫画家を目指す気はなかったと言っていた。家計の足しに少しでもなればと、自分で出来ることを始めただけだったのだ。
タマがもう一度包丁を持ち出す。
包丁と言っても小振りでどちらかというとナイフに近い代物だ。ここにはそれ一本しかない。
タマだって、俺が彼女の能力の本質に気付かないとは考えていないだろう。
一次元好きだと公言したのが話を合わせただけの言葉かもしれないなんて、すぐに気付かれると解っていたはずだ。
三番目の姉ちゃんが言っていた。見た目が可愛い女の子というのは、自分の容姿を自覚しているからカワイイのだと。そして多くの女性の演技は嘘ではなく、自分の見せ方をこだわっているだけだと。演技は演技だから嘘だろと言ったらバカにされたけど。
三次元のリアル存在であるタマが見せるあざとさがどういった理由からのものなのか、俺にはわからない。
彼女から説明されなければ、その演技の意味なんて確信しようがない。自信が持てない。
でも、それでも知っていることはある。
カワイイは正義なのだ。
だから俺がカワイイと思ったらそれで良いのである。
タマが『押し入れ』から出る。
室内風景が切り替わり、タマの背後に広大な森が一面に現れた。
先ほどまでと変わらない光景。
だが何かを察知したのか、タマが後ろを振り返るために首を捻ろうとして――
瞬間、タマの胸部に大穴を開けて黒い何かが俺を通り過ぎた。




