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第7話_初めての鯉ベタの繁殖

~初めての鯉ベタの繁殖~


五月三週目の水曜日。今夜も桜島さんは僕の部屋に入り浸っていた。

なお、咲希と過ごしたゴールデンウィーク以降、桜島さんは僕に断ることなくキッチンを自由に漁るようになっている。……いや、マイ包丁やマイフライパンを持ち込んでいるから、キッチンは桜島さんに占拠されたと言っても過言ではない。



「ぷはぁ~♪ 淹れたてのコーヒーは格別だわぁ~♪」

嬉しそうな表情で桜島さんが呟いた。その手には、僕が咲希と一緒に選んでプレゼントしたマグカップ。猫の図柄が描かれていて、桜島さんのお気に入りになっている。



「桜島さん、食後にコーヒーを飲むと、眠れなくなりますよ?」

「ん? 良いの、良いの、まだ二〇時だから。マグカップ一杯のカフェインなんてたかが知れているし、カフェインは体内に入って三時間で身体の外に二分の一以上が排出されるし、問題無いわ。妊娠中および授乳中の女性や赤ちゃんには、お勧めできないけれどね♪」

上機嫌な桜島さんは、どこか得意げな表情で微笑んでいる。

そんな桜島さんを見ているだけで僕は幸せな気持ちになれるけれど――恥ずかしいから桜島さんには言わない。僕だけの秘密だ。



「桜島さんがコーヒー好きなのは知っていましたが、何だか知識も詳しそうですね?」

「もち♪ 小学校五年生の時の私の自由研究は、タイトルが『愛するコーヒー一〇三の効能』だったもん。コーヒー知識に関してなら、お任せあれ♪」

「小学生の頃からコーヒーが好きだったんですね。一〇三って数字には、何か意味があるんですか?」



僕の質問に、桜島さんが小さく笑う。

「一〇三は、自由研究を見る人の注意を引きつけるために適当にでっち上げた数字よ♪ でも、お父さんと自家焙煎や水出しコーヒーにチャレンジしたりもしていたから、それなりにキチンとした自由研究になっていたと思う」



ゴールデンウィーク最終日に、咲希も含めて桜島さんのご両親と食事に行ったのを思い出す。桜島さんのお父さんは、咲希にも優しかった。あのお父さんと一緒に作った自由研究だから、多分良いものが出来たんじゃないかなと思う。



「自家焙煎、ちょっと憧れますけれど――今も自家焙煎しているんですか?」

桜島さんが、あっさりと首を横に振る。

「ううん、流石にやっていないよ。家の物置を探せば、簡単な道具は出てくると思うけれど――やっぱりプロの技には敵わないって分かってからは、素直にお店でコーヒー豆を買うようにしているから」



「プロの技には敵わないんですか? 焙煎したてが一番かなって素人の僕は思うんですけれど」

「それがねぇ……香りが足りなかったり、豆が焦げ焦げになったり、一度に沢山の豆を焙煎しないと結局美味しく無かったり、素人じゃなかなか超えられない壁があって難しいのよ」

懐かしそうな表情で桜島さんが言った。ふと、気が付く。



「それじゃ、僕の家の『個別パッケージの紙ドリップ式コーヒー』じゃ、物足りないんじゃないですか?」

「そうでもないよ? コーヒーのパッケージが一つひとつ密封されているから、その分、香りが逃げていないし、味も悪くないし。豆を挽く手間もいらないし、コレはこれでお手軽だから良いと思う」

指を折り曲げながらメリットを数える桜島さん。でも、その顔は微妙な表情で、どこかはにかんでいる。



「……何となく感じるのですが、桜島さんの言葉がインスタントお味噌汁の感想みたいになっているところを見ると、僕の家のコーヒーは六〇点から良くて七〇点というところですかね?」



桜島さんが苦笑する。

「あははっ♪ バレた。――そりゃ、昔は豆の産地にもこだわっていた人間ですから♪ 格言の一つくらい持っていますわよ? 知っている? 蜘蛛にコーヒーを飲ませたら酔っぱらうのよ♪」

悪戯っぽく笑って、桜島さんがコーヒーに口をつけた。



  ◇



「ついにこの時がやって来た!」

飼育部屋で桜島さんが、蓋の閉まった二リットルのペットボトルを高らかに掲げた。

桜島さんの足元には、同じように栄養価の高そうな水が入ったペットボトルが五本。その中身は、すりつぶしたキャベツと、ごく少量の牛乳と、水草水槽の飼育水だったモノが入っている。



「ゴールデンウィーク中に、咲希ちゃんと仕込みをして約一週間。ついに、ついにインフゾエアの大量養殖か完了したっ!」



インフゾリアというのは、水槽に湧く小さな微生物の総称。

顕微鏡で見ると、大抵、ゾウリムシが多い。インフゾリアは栄養価の高い水で飼うと爆発的に増殖するから、ブラインシュリンプが大き過ぎて食べられない生まれたての仔魚の餌に最適。



「インフゾリアという偉大なる飼料を手に入れた我々は、第二計画へと移行する。それは――つまり、コイベタの大量繁殖で、アマチュアブリーダーになることであるっ!」

何か一言、コメントを欲しそうな瞳で、桜島さんが僕をちらちら見てくる。

何だか子猫みたいで可愛い。



「……。桜島さん、良かったですね」

「――っ、ちょ、鼎、ノリが悪いわねっ!?」



桜島さんが非難の声を上げた。僕の返事は、お気に召さなかったらしい。

軽く弁明させてもらう。

「いや、いきなり第二次世界大戦的なノリの演説を始められても、普通の人間はドン引きするだけですよ? それとも、突っ込み待ちでしたか?」



「突っ込みは求めていない。欲しいのは、温かい優しさだけ」



てへっ、と桜島さんが可愛く笑った。

「桜島さん、酔っています?」

「蜘蛛みたいに、コーヒーのカフェインと自分に酔ってる♪」



「……恥ずかしく無いんですか?」

僕の辛口コメントに、桜島さんの顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。



「桜島さん、自覚症状があるなら、まだ大丈夫です。今のうちに引き返しましょうよ?」

「うわぁぁんっ、なんか鼎の扱いがひどいよぉ~。人がノリノリでコイベタの繁殖を試みようとしているところに、水を差す男の子がいるぅ!」

桜島さんが泣き真似をしながら、じとっと僕を睨んできた。若干、口元が尖っている。

ちょっと突っ込み過ぎたらしい。



「いえ、そういうつもりはないんですけれど、咲希がいた頃の『しっかりしたお姉さん』の桜島さんはどこに行ってしまったのかなぁと感じてしまって……」

「ん? 今ここにいるじゃん?」

平然とした顔で桜島さんは言っているけれど、ゴールデンウィーク中とは明らかに行動パターンが違う。



「……今になって考えると、子どもの前だったから、桜島さん猫を被っていましたよね? 咲希が帰ってからは、ちょっとタガが外れていますよ?」

「ううっ、まぁ、そう言われると言い返せない自分がいる……。でもっ、咲希ちゃんの前では私、良いお姉さんだったでしょ!?」

「はい。とても素敵なお姉さんでした。それだけに――」

惜しまれます、と言おうとした僕の言葉を遮って、桜島さんが大きく頷く。



「うん、頑張った。私は頑張った! ということで、とりあえず話を戻して――コイベタの繁殖計画を実行に移す時が来たのよ!」

強引に言い切った桜島さんが、水槽部屋の一角を指差しながら嬉しそうに笑顔を浮かべた。

そこには、スポンジフィルターで極々緩やかにエアレーションされた縦置きの三〇センチ水槽が四個×四段で計一六本。そのうち一〇本に鯉ベタが入っていて、残りの六本もウォータースプライトとマジックリーフを入れて水回しがされている。



ゴールデンウィーク前に桜島さんが指宿店長から貰って来た鯉ベタ達は、僕の見る限りでは、日々、完璧な管理がされている個体達。でも、一つ気になったのが――

「桜島さん、ベタの繁殖をしたことはあるんですか?」

「無いわよ? ――って、それ、前にも話したじゃん?」



「そうですよね。聞いた覚えがあります。ベタの繁殖をしたことが無いのに、高級な鯉ベタに手を出すのは、ちょっとハイリスクで無謀だと思うんですけれど……」

遠まわしな「大丈夫ですか?」という確認サイン。でも、桜島さんから、自信満々な笑顔が返って来た。

「そうかなぁ? 私、同じアナバスの仲間のパラダイスフィッシュなら殖やしたことあるから多分、大丈夫よ♪ パラダイスフィッシュも泡巣を作る魚だから、似たような方法で繁殖できるでしょ?」



「それは、そうですけれど――」

僕の言葉を、桜島さんが両手で×を作って遮る。そして、誇らしげに胸を張った。

「私は一応、ペットショップの生体販売担当だから♪ 商品知識はある程度は持っているとはいえ実際に飼育や繁殖させないことには、お客さんに自信を持って商品の説明が出来ないでしょ? 何事もチャレンジだと思うんだ♪」



その言葉は否定できない。何事もチャレンジだと僕も思うから。でも、ちょっと不安だから、余裕の表情の桜島さんに聞いてみることにした。

「ちなみに、ある程度の商品知識って、どの程度なんですか?」

「お客さんに突っ込まれても笑顔で返せる程度かな。何か質問してよ。答えてあげるから♪」



頭の中で少し考える。

すぐに、いくつかの質問を思い付いた。

「……お姉さん、何でこのベタはこんなに高いんですか?」

「コイベタと言って、まだ日本では比較的珍しい種類になるからです。水面の上から見ると錦鯉みたいに見えるので、コイベタと名前が付いたのですが、錦鯉と同じで色や模様が世界に一つだけの魚ですから、その分、価格も高めになりやすいです」

まぁ、予想通りの回答。



だったら、こちらも基本的な質問からしてみよう。

「鯉ベタは、一つの水槽に、何匹まで入れて良いですか?」

「お客様はベタを飼われるのは初めてですか?」



質問に質問が返ってきた。ここは一般的なパターンを返しておく。

「いえ、普通の安いベタなら何度か飼育したことがあります」

「それでしたら飼育数は普通のベタと一緒です。こちらのコイベタも原則として、一つの水槽で飼えるのは一匹だけになります。メスは一つの水槽で複数の飼育が可能ですが、オスのベタはケンカをしてしまうので、絶対にオス同士は一緒の水槽に入れないで下さい」



「普通のベタと一緒ということは、他の魚と一緒に飼えますか?」

ちょっと小生意気な質問。

「飼えないことは無いですが、価格もコレクション性も高い魚なので単独飼育をお勧めします。水草との相性も良いですので、三〇センチ水槽や四五センチ水槽に水草を植えて、緩やかな水流のフィルターで飼育されることをお勧めします」



「この中では、どの個体がお勧めですか?」

桜島さんの鯉ベタコレクションを見ながら、質問する。

「基本的には、活き活きとして元気な個体、そして柄や模様がはっきりしている個体がお勧めです。そういう意味では、こちらに置いてあるベタはどの個体もお勧めですので、あとはお好みの色や模様で選ばれると良いかと思います」



「鯉ベタのオスとショーベタのメスで繁殖させたいのですが、可能ですか?」

変化球的な質問。

正直、あまり良い質問ではない。

「品種的には可能なのですが、ヒレの長さが中途半端だったり、柄や模様がはっきりしなかったりと、綺麗とは言い難い個体しか出てこないので止めておくことをお勧めします」



それなら、もう一つ変化球。

「鯉ベタのオスにプラカットのメスで繁殖させたいのですが、可能ですか?」

「品種的にはどちらもプラカットなので、問題は無さそうですが……柄や模様の出方に影響があると思いますので、メスもコイベタとして売られているものを用意されることをお勧めいたします」



最後に、ふと気になったこと。

「プラガットとプラカット、どちらの方が正しい呼び方ですか?」

「どちらも正しい呼び方です。なお、当店では、原則『プラカット』と表記しています」



「お姉さん、ベタのことに関して詳しいんですね、ありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとうございます。もし何か、他にもご質問がありましたら、お気軽に声を掛けて下さい。――って感じかな♪」

にかっと桜島さんが笑う。やり切った感のある、得意げな表情だった。

ちょっと悔しいけれど、僕の思う限りでは完璧な回答だった。



「桜島さん、凄いんですね。ちょっと意地悪な質問もしたのですが」

「もちろんよ♪ 自分である程度は勉強しているし――売れ筋商品にしたいモノは、商品知識とQ&Aを店長が用意してくれているから、それも頭に入れているの♪」

熱帯魚ショップ製作のQ&Aがあるなんて、ちょっと見てみたい気がする。多分、社外秘の極秘情報なのだろうけれど……指宿店長に頼めば何とかしてくれないだろうか?



「指宿店長、鯉ベタの繁殖に関しては、何か言っていませんでしたか?」

「えっと、口頭だけれど――『セッティングはお店の水槽を参考に』『初期飼料のインフゾリアをまず用意しておいてから卵を産ませないと、仔魚の餌が無くて後々の生存率が大きく違う』『ブラインシュリンプは、孵化後三日から四日目以降くらいじゃないと食べられない』『あとは失敗してみろ♪』――って笑いながら言っていたわ」



最後の方、指宿店長らしいアドバイスだなと思う。ある程度、僕らが失敗するのを分かっていて、高級な鯉ベタを桜島さんに分けてくれたのだろう。

「そうですか。インフゾリアを沸かしていたのも、水槽のセッティングをしていたのも、指宿店長の教えがあったからなんですね」

僕の言葉に、桜島さんが腕を組む。そして人差し指を真っ直ぐ立てて左右に振った。



「甘いわね。それだけじゃないのよ、ベタの繁殖はインターネットで十分に調べたの♪ コイベタと言っても種類的にはベタ・スプレンデンスの改良品種なのだから、基本的な繁殖方法は普通のベタと変わらないし」

「……ものすごく極論な気がしますが、否定できないのも事実ですね。でも、初めての繁殖で桜島さんは不安がないんですか?」



「この飼育部屋には、鼎という便利機能がついているから大丈夫♪ 鼎はベタの繁殖、当然したことがあるんでしょ?」

「僕のことを某青色系猫の秘密道具みたいに言わないで下さいよ。僕だって、ベタの繁殖はしたことありませんから」

一瞬、部屋に沈黙が流れた。……いや、一瞬じゃなくて、かなり長い沈黙へと変化しそうになっている。



固まっていた桜島さんが、ゆっくりと口を開く。

「えっと、鼎は経験無いの? ちょっと初耳なんだけれど?」



「言わなかったですか? 僕、中学と高校の生物部で色々な生き物を繁殖させたことはありますが、ベタの仲間を繁殖させた記憶はありません。ベタは気性が荒いですし、殖やした個体を持て余しそうだったから、部活のみんなが躊躇してしまったのが原因かと思いますけれど――って、その顔、どうしたんですか?」



桜島さんの顔が、何か大失態をした時のように、青くなっていた。気まずそうに、ふぃっと目線を逸らされてしまう。

「……私さ、店長に『鼎はベタの繁殖したことがあるので、余裕で大丈夫です♪』って言ってコイベタ貰って来ちゃったんだけれど……」

やっちゃったという表情で桜島さんが呟いた。



明らかな勘違いのミスに、フォローのしようが無い。

「ちょ、それ、指宿店長に嘘をついたことになってダメじゃないですか。僕も初めてベタを繁殖させるんですから成功させる自信はありませんし、今から、半分だけでも返しに行き――」

「ダメよっ! もう全員名前つけたんだから返しに行けない。『桜花』に『梅花』に『白菊』、『海龍』や『伏龍』や『神龍』達は、もう手放せないの!」

僕の言葉を遮りながら、何だか特殊な兵器を連想する名前が、桜島さんの口から聞こえたような気がするけれど……多分、気のせいだ。



じとっとした僕の視線にはお構いなしに、桜島さんが言葉を続ける。

「それにお店の水槽は、二回目の仕入れの子達で一杯だから、物理的にも無理よ?」

――って言うことにしておいて、と桜島さんが小さく呟いた。そして言葉を続ける。

「初めての経験がコイベタでも良いじゃない?」

ちょっと瞳をウルウルさせて、懇願するように桜島さんが言い切った。



何と言うのか、こう、どうでも良い話なんだけれど、『コイベタ』と『恋下手』が掛っているみたいで突っ込みたくなったのは正直な気分。でも、桜島さんは真面目な表情だから、流すことにしよう。



「そうですね。失敗することも含めて、何事も経験だと僕も思います。……仕方がないので、今回は二人で協力して繁殖させましょう」

「ありがとう、鼎。――でも、失敗は私が許さないわよ?」

両手を組んで、少し上から目線で不敵に笑う桜島さん。その表情は商売人の顔をしていた。鯉ベタを増やして売ろうという、皮算用的な魂胆が見え見え。

正直、この自信を僕にも分けて欲しい。



「失敗できないのは分かっています。高級魚の鯉ベタの繁殖に失敗したら、自分でもかなり落ち込みそうですから気合いを入れて繁殖させますよ。――ちなみにですが、鯉ベタって柄や模様の固定ってされていないんでしたよね?」

「うん、今のところ柄の固定はされていないわよ。一匹一匹が違う模様を持つ。だから今回の繁殖も、色の固定は考えないことにするわ。でも、なるべく似たような色や模様の個体同士でペアを組ませる予定だけれどね」



「分かりました。見た感じだと卵を持っているメスは三匹なので、繁殖可能なペアは三ペア採れそうですね」

ベタのメスが卵を持っているかどうかは、お腹の後ろの部分を見れば何となく分かる。卵を持っている場合には、白く透き通る卵巣が発達して確認出来るから。この間、雑誌で見た借り物の知識だけれど、多分、間違ってはいないと思う。



「鼎が言う通り、卵を持っていそうなメスが三匹。泡巣を作っているオスが五匹。ペアリングは『桜花×梅花』、『白菊×神龍』、『海龍×伏龍』で考えているわ」

「柄的には、それが一番似合っていますね」

「でしょ? でしょ? それじゃ、繁殖を始めるわ♪」



  ◇



飼育部屋のガラステーブルの上には、桜島さんが持って来た数枚のコピー用紙。そこには、鯉ベタの繁殖方法がまとめられていた。

「まずは、インターネットの情報によると、『お見合い』をさせる前に水深を一二センチくらいに浅くしておいた方が良いらしいの」



お見合いというのは、オスとメスをいきなり同じ水槽に入れるのではなく、頭を切ったペットボトル等の透明な容器にメスを入れて、仕切りのある状態でオスと顔合わせさせること。これをすることでベタは発情しやすくなり、なおかつオスがいきなりメスを追い回すということが避けられる。



「水深を浅くするのには、何か理由があるんですか?」

「産卵の時にオスが卵を泡巣に運びやすくするためと、仔魚が生まれた後に、泡巣から水底に落ちた仔魚をオスが泡巣に戻しやすくするためという理由があるわ」

プリントを見ながら桜島さんが僕に教えてくれる。



「なるほど、ずっと水深は浅くしたままが良いんですね」

僕の言葉に、桜島さんが首を横に振る。

「ううん、仔魚がブラインシュリンプを食べるようになったら、水質が悪化しないように水量を増やした方が良い結果が得られるらしいの。だから、ブラインシュリンプに切り替えたら、徐々に水深を上げていくわよ」



「そうなんですか。覚えておきます」

桜島さんが頷く。

「それじゃ、今夜中にオスとメスをお見合いさせるのを済ませたいから、早速、水深を減らすのを手伝ってよ」

「はい、分かりました。タオルを持ってくるので、少し待って下さいね」



  ◇



一〇分後。無事に、オスの水槽三本分の水抜きが完了した。

泡巣も崩れることなく綺麗に維持されている。



「それじゃ、五〇〇ミリリットルのペットボトルにメスを入れて、お見合いを開始するわ」

そう言いながら桜島さんがメスを掬って、頭を切り落としたペットボトルに入れてから、オスの水槽にペットボトルを立てる。すぐにオスがメスに反応して、メスの目の前でヒレを広げる。



「ヒレが広がって綺麗よね♪」

「二匹とも発色も良くなっています」



「このまま、他の水槽の子達もお見合いをさせて、しばらく様子を見ましょ」

三ペア分のセッティングを済ませた後、しばらく観察をしてから新聞紙を水槽にテープで貼り付けて、今日の作業は完了。繁殖が上手くいくと良いなぁ。



  ◇



翌々日の朝。

昨日は桜島さんのアルバイトが二二時三〇分まであったから、メスを水槽に放すのは、最初にお見合いをさせた日の二日後の今朝になった。



「どの子もみんな元気そうね」

「オスの泡巣がすごく大きくなっています」

水槽を覗きこむ僕らの声は、どこか弾んでいた。



「泡巣が大きいのは、オスの準備が出来ている証拠よ。それじゃ、メスを放すわよ」

そう言うと、桜島さんがメスの入ったペットボトルを傾けた。



水中でゆっくりとメスが出てきて、オスの前に移動する。オスがメスを追いかけて突く。追いかけては突く。――しばらく突き回されていたけれど、泡巣の下にメスが向かう。そこでオスが身体を曲げてメスを包み込む。次の瞬間、白い粒が水中にばら撒かれた。

「――あ、卵を産んだわ♪」

桜島さんが嬉しそうに小さく声を上げた。そしてそのまま言葉を続ける。

「オスが卵拾いに行っている♪ これは良い感じ」



そのまま数十分。飽きることなく、僕らはベタの産卵を観察して――危うく午前中の講義に遅刻しそうになった。



  ◇



午前中の講義が終わった後、僕らは桜島さんのバイクで一度、飼育部屋まで戻っていた。

それは産卵を終えたメスを水槽から取り出すため。ベタは卵の世話をオスが行うから、産卵を終えたメスは、オスにとっては邪魔者でしか無い。



「それじゃ、メスを取り出すわよ?」

桜島さんが僕に確認する。泡巣を壊さないように注意しつつ、桜島さんが小さな魚掬い網でメスを取り出す。若干、ヒレにダメージがあるメス個体を元の飼育水槽に戻す。マジックリーフが入っているから、綿カビ病や他の病気にはならないだろう。



「さぁ、お昼ごはんをちゃちゃっと食べて、大学に行くわよ♪」



  ◇



お昼ごはんを食べながら、桜島さんと話をする。

「桜島さん、大体、何日くらいで卵は孵化するんです?」

「私が調べた内容によると、水温が二八度の場合、二日から三日で卵が孵化するわ」



「孵化した後の流れを教えてくれませんか? 僕も知りたいですから」

「もちろんよ。まずは、孵化したての仔魚は養分の入ったヨークサックをお腹に持っているから、一日程度は何も食べない。んで、二日目からインフゾリアを泡巣の周囲に少しずつ投入するの」



「泡巣にかけて大丈夫なんですか? 泡巣、壊れません?」

「そこは、スポイトで優しくしてあげれば良いんじゃないかな? 目的は、ほとんど自力で泳げない仔魚にインフゾリアを与えることだから、なるべく近くにあげた方が良いでしょ?」

「そうですね。その後は、どうなるんです?」



「ちょっと待ってね。今、飼育情報をまとめたプリントを用意するから」

そう言って桜島さんがプリントを飼育部屋に取りに行く。



すぐに戻って来て、プリントの一部を指さした。

「さらに二日程度で仔魚が自分で泳ぎ出すらしいから、そうなったらオスも水槽から取り出すの」

「オスを水槽から取り出すんですか?」

「うん。オスの役目は終わりだからね。その頃から餌をブラインシュリンプに切り替えて、大きく成長させると書いてあるわ。そして――ブラインシュリンプを食べるようになってくれれば、後は水質の急変にだけ気をつけて大きくさせるのみ♪ 簡単でしょ?」



にぱっと笑って桜島さんが僕に視線を送って来る。

「そうですね、基本的にはアピスト系の繁殖に似ているところもありますし、何とかなりそうです」

「なんとかなりそう、じゃなくて『なんとかする』のよ♪ 私達は、熱帯魚のアマチュアブリーダー目指して、きっちりした仕事をするわよ?」



「はい。分かりました。僕も気合いを入れて作業します」



  ◇



午後の講義が終わった後、僕と桜島さんは飼育部屋に直行した。無事にオスが泡巣の下で卵を守っているのを確認し、キッチンに移動してから、お茶をすることになった。



コーヒーを淹れながら桜島さんが、お菓子を準備している僕に話しかけてくる。

「私さ、お気に入りの喫茶店のコーヒーも好きだし、自分で淹れるペーパードリップ式のコーヒーも好きだし、子どもの頃に試行錯誤した失敗だらけのコーヒーも好きだった。インスタントは飲めないことは無いけれど……まぁ、何と言うのか、今回のコイベタの繁殖をしているなかで、鼎との関係もコーヒーみたいだなって私は思ったんだよ」

どこかやさしい表情の桜島さん。何か僕に伝えたいことがあるのだろう。

「えっと、コーヒーみたいな関係ですよね?」



いまいちピンと来ない。桜島さんは、コーヒーが好きなのは知っているけれど、単純に僕のことが好きというそういう意味で言っているわけではないと何となく感じた。

「気軽に楽しめる距離感ってあるじゃない?」



「そ、そうですね……」

桜島さんの真意が読めないから、曖昧な返事を返すことしか出来なかった。

僕と桜島さんの関係は、ペーパードリップ式コーヒーみたいな中途半端な関係だと非難しているのだろうか?



そんな僕の不安げな雰囲気が伝わったのだろう、桜島さんが小さく噴き出す。

お湯の入ったポットをコンロに置くと、桜島さんは僕の隣にやって来た。

「もぅ、鈍いのね。鼎のことを大好きでいられる今の距離感が、鼎と試行錯誤できる距離感が、私はとても幸せって言っているのよ!」

少しむくれながら、桜島さんが唇を尖らせた。その顔は真っ赤に染まっている。



一瞬迷ったけれど、僕から目線を逸らさない、上目使いの桜島さんの顔を見てソレをした方が良いのじゃないかと気が付いた。

女性恐怖症と緊張で震える手を桜島さんの頭に乗せて、桜島さんの頭を撫でる。

「ゴールデンウィーク、とても頑張りましたね」



直後、桜島さんが僕の胸に飛び込んできた。

「気付いてくれるのが遅いよ……私、一杯いっぱい頑張ったのに。もっと早く褒めて欲しかったのに。鼎の馬鹿ッ!」

胸の中で桜島さんが鼻声になっていたけれど、それが何だか嬉しく感じてしまった僕がいた。心臓のドキドキが気にならないくらい嬉しかった。



「桜島さんは頑張りました。僕の自慢の彼女です」

「私は、我儘言うよ?」

胸の中で桜島さんが呟いた。ゆっくりと息づいている。

「構いません、それすら可愛いですから」



「我儘、一杯いっぱい言うよ?」

鼻声の桜島さん。可愛くて、思わず笑顔になってしまう。

「良いですよ」



「……あははっ♪ ありがとぅ」

泣き笑いの桜島さん。すぅっと桜島さんが息を吸い込む。そして、言葉を発した。

「このままさ、私のこと、私が良いって言うまで抱きしめて。温かい鼎の体温をしばらく感じていたい気分なの♪」

そう言うと、桜島さんは僕を抱きしめる腕に力を込めた。



桜島さんは、ずっと僕に甘えたかったのだろう。でも、ゴールデンウィーク中は咲希がいたから、我慢していたのだろうなと理解できた。

「分かりました。抱きしめますよ?」

桜島さんの肩に手を伸ばして、軽く力を入れる。

「んっ♪ 大好きっ♪」

桜島さんが小さく、肯定の声を洩らす。



僕の胸に顔を埋めていたから表情は見ることが出来なかったけれど、桜島さんの耳は真っ赤に染まっていた。可愛かった。

可愛くて、可愛くて、可愛くて。胸の中にいる存在が愛おしかった。



「鼎、このまま、ずっと抱き付いていて良い?」

「良いですよ?」



その後しばらく――夕陽が沈んで空が暗くなるまで――僕らは二人で抱き合っていた。誰かと抱き合うことが、こんなに落ち着く行為なんだなぁと初めて知ることが出来た。



冷めたコーヒーは、桜島さんと一緒だからか、美味しかった。



(第08話_ネットオークションに手を出してみるにつづく)

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