第6話_二酸化炭素の添加が不要な水草
※CO2添加がいらない水草は、ボトルアクアリウムにも使えます。ミクロソリウムやウイローモスは有名どころだと思いますが。
~二酸化炭素の添加が不要な水草~
五月四日の午後。
学習塾のアルバイトが予想よりも早く済んで、自分の部屋に帰り着いたのは一七時を少し回った時間だった。まだ部屋には咲希も桜島さんも帰って来ていない。
寝室でスーツを脱いで、部屋着に着替えてズボンをはいた瞬間――
「ただいま~っ♪」
咲希が帰って来た。急いで身だしなみを整えて、リビングに移動する。
「お兄ちゃん、ただいま♪」
笑顔の咲希。右手に何か大きな紙袋を持っている。
『グリーンファンタジスト与次郎店』のロゴマークが入っているから、指宿店長のお店から何かを貰って来たのだろうか?
「咲希、お帰り。桜島さんは?」
「今来るよ?」
咲希の言葉の直後、リビングに桜島さんが入って来た。桜島さんも手に大きな紙袋。
「ただいま。――鼎、早かったのね?」
「おかえりなさい。塾長が今日は早めに上がって良いって言ってくれましたので。桜島さん、その紙袋は何ですか?」
「ん? これ? 私のは、店長が――」
「沙織お姉ちゃん言っちゃダメですっ! 咲希が言うんですからっ♪」
桜島さんの言葉を真面目な口調で咲希が遮る。そして小さく咳払いをしてからゆっくりと口を開いた。
「こほんっ。え~、それでは、お兄ちゃん両手を出して下さい♪」
咲希に言われるままに、両手を出す。咲希が紙袋を渡してくれる。
「お兄ちゃんにプレゼント。開けて見て」
紙袋の封を切って中を見る。可愛いサボテンの寄せ植えが入っていた。
「これ、どうしたの?」
「咲希の初めてのアルバイト代で買ったの♪ 水は少なめに、良く日光に当てて、枯らさないように大事にしてね♪」
どこか誇らしげな表情の咲希。ありがたく貰っておくことにしよう。
「咲希、ありがとう。さっそくリビングの窓辺に飾らせてもらおうかな」
僕の言葉に咲希が嬉しそうに笑う。でも、お兄ちゃんとして確認しておかないといけないから、それとなく咲希に聞く
「咲希は指宿店長からバイト代、貰ったんだ?」
「うんっ♪ 三日分のアルバイト代として一二〇〇〇円と――コレ、貰ったの」
そう言って、咲希が桜島さんの手に下がっている紙袋を指し示した。
「中身は何?」
「一つは、お店のレイアウト水槽をトリミングした時に出た水草の切れ端。これは奄美に持って帰るのが難しいから、飼育部屋の水槽に後で植えるの♪ 開けても良いよ?」
桜島さんが咲希の代わりに右手の紙袋を差し出してくる。
受け取ると、思っていたよりも、けっこうずっしりした感触があった。紙袋を開けると、パッキングされたビニール袋が三つ。濡れたキッチンペーパーに包まれたアヌビアスバルテリーやミクロソリウムナローリーフ、グロッソティグマや南米ウイローモス他多数……お店で購入したら、多分、かなり良い値段がしそうな雰囲気。
そんなことはお構いなしに、咲希が言葉を続ける。
「――んで、もう一つの大きな袋は――」
嬉しそうな表情で咲希が紙袋から中身を取り出す。
「――お花ですっ♪」
五キロ入りのお米の袋くらい有りそうな大きな袋に、色とりどりの花がぎっしり入っていた。よく見ると茎は無くて花だけ。
「咲希がね、『花びらが浮かぶお風呂に入るのが夢なんです』って言ったら、指宿店長と従業員のお兄さんお姉さん達がプレゼントしてくれたの!」
興奮した様子の咲希を見て、桜島さんが優しく微笑む。
「売れ残って廃棄処分しないといけない分のお花は従業員が持って帰れるんだけれど、咲希ちゃんの話を聞いて、みんなが全部の花を咲希ちゃんにくれたのよ。持って帰りやすいように花だけにして」
「えへへっ、今日はお花のお風呂に入るんだ♪」
「そっか、咲希良かったね。きちんと指宿店長とお兄さんお姉さん達にはお礼を言った?」
「もちろん言ったよ。今日がアルバイト、最後の日だったから」
咲希が言う通り、今日で咲希が指宿店長のお店のお手伝いをするのはお終い。にこにことした咲希の表情を見て、楽しい時間だったんだろうなと僕にも感じられた。
「良かったね、咲希。奄美に帰ったら、お礼の手紙を書いてみて。みんな喜んでくれると思うから」
僕の言葉に、咲希の顔が笑顔になる。
「お兄ちゃん、すごいっ。良いアイディアだから、咲希、そうする!」
「アルバイト代は、大事に使うんだよ?」
「もちろん。家に帰ったら、お父さんとお母さんにも何かプレゼントするの」
咲希が自慢げに笑う。その頭に手を置いて、桜島さんが口を開いた。
「それじゃ、咲希ちゃん。手洗いとうがいを先にしてきて。私もすぐに洗面所使うから」
「はいっ、分かりました」
咲希がリビングを出て行く。それを見送ってから桜島さんが優しく笑う。
「咲希ちゃんのバイト代は、元々無いはずだったから、私の分を半分渡すつもりだったんだけれど――帰りに店長が用意してくれていたの。でも、小学生と雇用契約を結ぶ訳にはいかないから、多分、店長がポケットマネーで全部出してくれたみたい」
「僕からも、指宿店長には、お礼をしておいた方が良いですね。このゴールデンウィークは咲希がお世話になりましたから」
「あら、私にもお礼をしても良いのよ?」
桜島さんが悪戯っぽい顔で僕をじっと見つめる。咲希の前では見せない、我儘モードの女の子の瞳だったから、心臓がドキリとした。
「もちろんです。桜島さんにはお世話になりっぱなしですから。本当に、毎日、咲希と一緒にいてくれてありがとうございます」
「どういたしまして♪ 鼎のお礼、期待しておくわ♪」
「はい」
「んじゃ、――私もうがいしてくる♪」
小さく笑うと、桜島さんもリビングを出て行った。
一瞬しか見えなかったけれど、その横顔は明らかに、嬉しさを堪え切れないといった表情ではにかんでいた。……。格好つけて桜島さんにお礼をすると言ったけれど、桜島さんは何をプレゼントしたら喜ぶだろうか?
今更ながら、自分でハードルを上げてしまったような気がした。
◇
咲希と桜島さんがお花のお風呂に入っている間に、晩ご飯の下準備を済ませる。
今日の夕食のメインは鶏の唐揚げ。鶏肉に下味をつけて冷蔵庫に入れる。お味噌汁も具材を切ってあとは味噌を溶くだけの状態にしておく。ベーコンとゆで卵のサラダを作って、バジルの葉っぱを上に載せる。
……一通りの用意が済んでしまった。時計を見ると午後の一八時二〇分。
咲希が「お風呂でパックをして、お花のお風呂を満喫するの♪」と言っていたから、二人がお風呂から上がってくるのはまだ先になりそうだ。
大学の講義の予習をしておこう。――と思ったけれど、桜島さんのプレゼントを何にしたらいいのかインターネットで情報収集する方が、優先度が高いと思い直した。
まずは『彼女/プレゼント』でキーワード検索してみよう。
◇
「ねぇ、お兄ちゃん?」
ご飯を食べながら、咲希が僕に視線を送って来る。
「ん? どうかした?」
「んっと、さっきまでの話と全然関係無い話になるんだけれど、水草レイアウト水槽って二酸化炭素を添加しないとダメなの?」
「そうだなぁ……二酸化炭素を添加した方が、水草が元気に早く育つから有利だけれど――二酸化炭素がいらない水草もあるから、そういうのを上手に使えば二酸化炭素を添加しなくても水草レイアウト水槽は作れるよ? 事実、飼育部屋のいくつかの水槽は二酸化炭素を添加していないし」
「そうなんだ? 後で見てみても良い?」
「良いけれど? 咲希も水草レイアウト水槽作りたいの?」
「うんっ! 今日、お店で指宿店長のお手伝いをしたんだけれど――指宿店長みたいな格好良い水草レイアウト水槽が作りたいなって思ったの♪ 二酸化炭素のいらない水草で」
咲希が水草レイアウト水槽に興味を持つなんて、ちょっと意外。
今までトンボのことしか興味が無くて、ヤゴの餌用にグッピーを繁殖させているような女の子だったから。
グリーンファンタジスト与次郎店のレイアウト水槽を思い出す。
オーソドックスな有茎水草の水槽も有れば、国内の有名なレイアウト水槽のコンテストで上位に喰い込んだ水槽も置いてある。いずれにしても指宿店長の趣味はネイチャーアクアリウム系。二酸化炭素の添加無しで作るとなると――ひと工夫必要そうだ。
「咲希、二酸化炭素は添加しないんだよね?」
「うん……ランニングコストだっけ? それを考えると、咲希のおこづかいじゃちょっと厳しいから、二酸化炭素のいらない水草で水草レイアウト水槽を作ってみたいなって思ったの」
頭の中で計算する。咲希の月々の基本お小遣いは確か三〇〇〇円。うちの親なら理由があれば必要な分を増やしてくれるけれど、毎月一〇〇〇円程のボンベ代を捻出するのはちょっときついのだろう。
「親父は緑色の二酸化炭素の大型ボンベ持っていなかったっけ? それを分岐すればランニングコストは問題無いんじゃない?」
僕の言葉に咲希が首を横に振る。
「お父さん、水草水槽は管理が大変だって言って止めちゃったから。ボンベの接続キットは残っていると思うけれど、緑のボンベはお酒屋さんに返しちゃったと思う」
接続キットがあっても、ボンベが無いのなら仕方がない。親父に言って大型ボンベを用意してもらうことは簡単だけれど……咲希の勉強にもなるだろうから、今回は二酸化炭素の添加無しで行ってみるのも有りだと思った。
「そっか。それじゃ、二酸化炭素の要らない水草で水草レイアウト水槽を作る方法を、お兄ちゃん達と考えようっか♪」
「うんっ、お兄ちゃん。――ちなみにだけれど、二酸化炭素のいらない水草ってどんな種類があるの?」
「えっと、僕が知っているのは――ミクロソリウム、ハイグロフィラポリスペルマ、ハイグロフィラロザエネルビス、ラージリーフハイグロフィラ、ナヤス、ウイローモス、南米ウイローモス、マツモ、アメリカンスプライト、ベトナムスプライト、ウォータースプライト、レッドルドウィジア、グリーンルドウィジア、アヌビアスナナ、アヌビアスバルテリー、ロタラインディカ、スクリューバリスネリア、ジャイアントバリスネリア、バリスネリアスピラリス、ピグミーサジタリア、ジャイアントサジタリア、オオサンショウモ、アマゾンフロッグビット、アナカリス、クリプトコリネアルビタ、クリプトコリネウェンティーグリーン、クリプトコリネパルバ、クリプトコリネバランサエ、アマゾンソード、ボルビティス、ヘアーグラス、エキノドルステネルス、ロベリアカージナリス、マヤカ――は、実際に自分の水槽で成長するのを確認したよ。中には、底砂がソイルだと育たない種類もあったり、逆にソイルじゃないと育たない種類もあったり、あるいは成長が遅いからひと工夫必要な種類もあるけれど」
僕の言葉に、黙々と鶏の唐揚げを食べていた桜島さんが、お茶を手にして口を開く。
「鼎、インターネットで調べたら、もう少し出てくるかもよ? カボンバとかウォーターウィステリアが抜けているもの♪」
「カボンバ、意外に育成が難しくないですか? 僕、上手く育てる自信無いですけれど……」
初心者の頃に、三回くらい育成に失敗して以降、僕は手を出していない。
「そう? 水の硬度に注意すれば意外と行けるわよ? ――って、あら? 咲希ちゃん、固まっているけれどどうかしたの?」
桜島さんの言葉に、咲希がゆっくりと首を縦に振る。
「えっと、お兄ちゃんも沙織お姉ちゃんも、水草の名前ですか? 呪文を言っているようにしか聞こえないです……。でも、何でそんなに沢山の種類の二酸化炭素のいらない水草をお兄ちゃんや沙織お姉ちゃんは知っているんですか?」
咲希の問いかけに、僕は思わず笑顔になっていた。
「ん? 水草を育てたいと思った人が必ず通る道だと思うから。桜島さんもそうですよね?」
僕の回答に桜島さんも頷く。やっぱり、その表情も笑顔だった。
「そうね。中学生でお金の無い時に、二酸化炭素無しでいかに綺麗な水草水槽を作るのか、必死に考えたものよ♪」
桜島さんの言葉に、咲希の表情が和らいだ。
「そうなんですか? 今の咲希と一緒ですか?」
「一緒、一緒♪ だから、咲希ちゃんにいっぱい協力できるわよ♪」
「ぅ~、良かったですっ♪ ねぇねぇ、お兄ちゃん、沙織お姉ちゃん、早くご飯を食べて、飼育部屋に行きましょうよ?」
◇
「お兄ちゃん、この水槽、本当に二酸化炭素を添加していないの!?」
水槽を覗き込みながら沙希が驚いたような声を上げた。
「うん。二酸化炭素を添加する水槽は、ライトを点けている時とそうでない時のPH――水質を表す一つの基準――の差が出やすいんだ。神経質な魚やエビを飼っている水槽は、僕は基本的に二酸化炭素を添加していないよ」
具体的にはビーシュリンプや紅白エビの水槽はもちろん、水質を変化させたくない繁殖用の水槽には二酸化炭素を添加していない。双頭イモリの「サクラダ」のいるサテ*イトが設置されている水槽も、もちろん二酸化炭素を添加していない。
それに気付いた桜島さんが、小さく微笑む。
「一部の水槽に二酸化炭素を添加していないなんて、元気に育っているから私も気付かなかったわ。改めて思うけれど、鼎、ロタラインディカとクリプトコリネだけの水槽なんて、良い趣味しているわよね。こっちの水槽は流木と活着水草だけで作っているし♪」
桜島さんも興味深げな表情で水槽を覗き込んでいる。テストの採点をされているみたいで、何だか少し恥ずかしいような気分。
その隣で咲希が、水草の名前を桜島さんに聞いている。――と、僕の方を向いた。
「ねぇ、お兄ちゃん。どの水草をどの水槽に植えるってルールが有るの?」
「どうして?」
「ん、だって、沙織お姉ちゃんに水草を説明してもらったら、同じ水草が固まって植わっていることに気付いたから」
「そっか、良いことに気付いたね。ルールというか、僕は基本的に、一つの水槽で三種類から五種類までの水草に種類を絞って植えるのが好きかな。種類を絞った方が群生しているっぽくてレイアウトにまとまりが出るし、長期的に見ても管理も楽だし」
「ねぇねぇ、それっていわゆる『コツ』って言うやつ?」
興味深げな表情で聞いてきた咲希に頷きながら返事をする。
「そうだね、水草レイアウト水槽を維持する自己流のコツの一つだよ。僕の場合は水槽の数が多くて一つひとつの水槽に時間と手間をかけることが出来ないから、細密なレイアウトは向いていない。だから、なるべく少ない種類の水草で、管理がしやすいレイアウトにしているんだ」
「ふ~ん、少ない種類の水草でも大丈夫なら……何だか、咲希にも作れそうな気がしてきた♪ 指宿店長から貰った水草で、この飼育部屋の六〇センチ水槽に、二酸化炭素のいらない水草レイアウト水槽作ってみても良い?」
咲希の目が輝いていた。何だか、初めての獲物を前にした子猫みたいで、可愛く思える。
「もちろんだよ。それじゃ、まずは二酸化炭素が必要な水草と、そうじゃない水草を一緒に分けてみようか」
◇
飼育水を浅く引いたステンレスのバットに、指宿店長がくれた水草を広げていく。
咲希はトリミングの切れ端と言っていたけれど、指宿店長は咲希にあげることも考えていたのだろう。一種類ずつ綺麗にキッチンペーパーに包まれていた。サイズにバラつきがあるものの、植えやすいようにカットするだけで、そのまま使えそうな感じ。
「咲希、二袋目を頂戴」
「お兄ちゃん、分かった。――あっ、白と黒のビーシュリンプが三匹入ってる♪ とっても小さいけれど」
嬉しそうな咲希の声。手に持っているビニール袋の底に溜まった二センチ程の水中に、小さなエビが泳いでいた。
水草の入っている袋を桜島さんも横から覗きこむ。
「あら、本当。稚エビだから南米ウイローモスに混ざっていたのかしら?」
微笑む桜島さんに笑顔を返した咲希が、袋を揺らさないようにしつつ僕を見る。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん。この子達、水草レイアウト水槽に入れても良い?」
「うん。水回しはしてあるから、水合わせをしっかりすれば問題無いと思うよ。小さいプラケースを用意するから、とりあえずそっちに避難させておこう?」
「うん、分かった」
一〇〇円均一で買った小型のプラケースを取り出して、その中に稚エビを水ごと放す。水深がかなり浅いけれど、とりあえず元気に手足を動かしているから、大丈夫そうだ。
◇
咲希が指宿店長から貰って来た水草は、二酸化炭素無添加でも育てられる種類を含む、比較的オーソドックスなモノが多かった。
中には僕の知らない水草もあったけれど、それは桜島さんが種類を判別してくれた。後学のために園芸用のタグに名前を書いて、水草育成用の水槽にコレクションするために取っておく。
「それじゃ二酸化炭素を無添加で水草レイアウト水槽をつくるコツを、もう一度おさらいするけれど――咲希、覚えている?」
僕の言葉に、咲希が手元のノートを開く。そこには、僕と桜島さんが言ったことがしっかりと書き込まれていた。
「えっと『水換えを小まめにすること。その理由は、水道水には二酸化炭素が含まれているから』『コケを生やさないようにすること。そのために①魚の数は少なめに②エビやオトシンクルスネグロを一緒に飼う③成長の早い水草を一種類は入れる』だけど『光の量は多めにすること。有茎種の影になるところには、耐陰性のある水草を植えるといったひと工夫』だよね?」
咲希の言葉に、桜島さんが追加する。
「咲希ちゃん、それに加えて『水上葉の水中化には注意すること』も入るかな♪」
「あっ、忘れていました。えっと、お店で売っていることが多い水上葉は、水中に入れると一度枯れるんですよね?」
咲希の言葉に桜島さんが頷く。
「そう。だから、水上葉の水草を二酸化炭素無添加で育てようと思ったら、一ヶ月だけでも二酸化炭素を添加した方が上手くいく場合が多いの。今回の咲希ちゃんみたいにランニングコストをかけられない時には、最初の一ヶ月だけで良いから『発酵式』という方法を使うのが手よ」
「はい、『はっこう式』のこと忘れないようにします♪」
咲希が手元のノートのページをめくる。そこには、桜島さんに簡単に説明して描いてもらった発酵式の二酸化炭素発生装置の図解が載っていた。図の横に何かを書き加えている咲希に言葉をかける。
「発酵式は親父も知っていると思うから、奄美に帰ったら試してみてよ」
「うん、分かった。お母さんからペットボトルとお砂糖とドライイースト貰って、お父さんと一緒に工作すれば良いんだよね?」
「そうだね。チャレンジしてごらん」
僕の言葉に咲希が大きく頷く。
帰ったら、親父が喜びそうだ。僕は気付かなかったけれど、最近、咲希の反抗期が始まっていたらしいから。
◇
「水草の高さの足りない部分は、本来は時間をかけて育成することでカバーするのだけれど、今日は僕の育てている水草を切って使って良いからね。あと、流木や石も予備があるから、下の棚から出して好きなのを使って良いよ」
僕の言葉に咲希が頷く。
「分かった。ありがとう、お兄ちゃん♪」
その隣で桜島さんが口を開く。
「流木や石は、同じタイプを使うのがまとまりを出すコツよ。白い石は白い石と、黒い石は黒い石と、枝のある流木は枝のある流木と――って感じが基本かな」
「いわゆる、『自然な感じで統一感を出す』ってことですよね?」
少し自慢げな表情の咲希に、桜島さんが頷く。
「そうね。うふふっ、でも、どこでそんな言葉を覚えたの?」
小さく噴き出した桜島さんに、咲希がわざとらしく舌を出す。
「えへっ、引用しただけなのがバレちゃいました。本当は、今日、指宿店長に聞いたんです。――お兄ちゃん、沙織お姉ちゃん、聞いても良いですか? 『綺麗な水草レイアウト水槽を作る極意』って何だと思いますか? 本当は一杯あると思うんですけれど、指宿店長に聞いたら、さっきの答えが返ってきたんです」
なかなか難しい質問。思わず桜島さんと視線を合わせていた。
頭の中で考えて、言葉を選びながら、ゆっくりと口を開く。
「僕は、水草レイアウト水槽って、結局はたくさん作って、たくさん育てて、たくさん試行錯誤することが上達のコツだと思う。極論を言えば、二酸化炭素のボンベを使えば育成が難しい種類も比較的楽に育てることが出来るけれど――結局は『水質』『光量』『肥料』という基本と『レイアウトを作る感性』が大切なのだから。……えっと、一言でまとめるなら『水質・光量・肥料・感性のバランスが大切』だと僕は思う。桜島さんはどう思う?」
僕の言葉に、桜島さんが頷く。
「私も『感性』は大切だと思うな。加えて『自然らしさ』を自分のモノにすることも大切かな。水草レイアウト水槽コンテストの上位入賞者の、過去の水槽写真を見るだけでも勉強になるけれど、自然の景色をたくさん見ることで、より自然な水草の配置が可能になると私は思うから。そういう意味では『自分の感性を育てること』が一番大切だと思う」
僕と桜島さんの答えに、咲希が難しそうな表情を浮かべる。
「感性――えっと……感性……だよね? ねぇ、お兄ちゃん。感性ってどういう意味?」
小学五年生の純粋な視線。
学習塾の教師としては間違えられない質問。
「辞書的回答だと『感覚的刺激や印象を受け入れて反応する能力』のことを感性というよ。でも、もっと簡単に言えば『物事を感じる心』って意味になる」
「……何だか、哲学的な響きだよぉ……」
難しそうな表情を作る咲希をフォローする。
「咲希がこうしたい、と思うようなレイアウトを作ったら良いと思うよ? 最初は好きに作る――それが咲希の感性だとお兄ちゃんは思うから」
◇
四分の三くらい水を張ってある六〇センチ水槽に、咲希が水草を植えていく。でも――
「うぅっ……何で、植えているそばから浮き上がっちゃうの? これじゃ、いつまで経っても進まないよぉ~!」
ロタラインディカを咲希が植えているのだけれど、さっきからピンセットを入れる度に、何度も水草が浮いてしまう。
「咲希、もう少し深めに植えてごらん。ソイルは軽い底砂だし、多少深くなっても水草が自分で伸びて来るから大丈夫」
「う、うん。分かった。茎を潰さないように、ピンセットの先で茎をガードしながら植えるんだよね? ――でも、ピンセット使うの、案外、難しい」
顔は水槽に向けたまま、咲希が言った。
「何度か練習していたら、咲希も慣れるよ。指宿店長は上手だったんじゃない?」
「うん、すごかったよ。ぱぱぱって切ったり、抜いたり、植えたりしていたから。魔法みたいだった」
桜島さんが頷く。
「確かに。店長は上手だからね。鼎も、一見の価値があると思うよ?」
「ああいうの『テクニシャンな大人の女性』って言うんですよね?」
咲希の言葉に、桜島さんが僕から目線を逸らした。若干、顔が赤くなっている。っていうか、その不意打ちの反応が可愛くて、僕もちょっと顔が熱くなりかけている。
「さ、咲希……その言葉、指宿店長に言ったの?」
「うん、大爆笑してた。嬉しかったみたいだよ?」
咲希に悪気は無いらしい。たまに、こういうミスをするから小学生はちょっとハラハラする。
「そっか、咲希。あまり丁寧な言葉じゃないから、もう使わないとお兄ちゃんと約束してくれる?」
「ぅぇぅ、また咲希、間違えちゃったの?」
咲希の言葉にピンときた。
「また? 他にも指宿店長に何かしたの?」
「……言えないっ。お兄ちゃんには内緒っ!」
桜島さんの顔を見ると、何かを知っているようで、思い出し笑いをしていた。
「ん? 鼎、知りたそうな顔しているけれど咲希ちゃんの名誉にかかわるから、言えないわよ?」
可笑しそうに桜島さんが微笑んだ。
◇
時計を見ると午後二一時四〇分。初めてだから時間がかかったものの、無事に咲希の水草レイアウト水槽が完成した。
水槽の左に大きめの枝付き流木を置いて、その後景にロタラインディカ。流木にはミクロソリウムナローリーフ、アヌビアスバルテリー、南米ウイローモスを巻きつけてある。水槽の右側には、ロタラインディカにするかハイグロフィラロザネエルビスにするか迷った結果、ハイグロフィラを植えることにして――中央にはヘアーグラスをなるべく密になるように植え込んである。
水草の向きが不揃いなのは、明日ライトを一日当てておけばある程度揃うだろう。
「やっと出来たぁ~♪」
水槽を眺めながら、満面の笑顔で咲希が言った。と、桜島さんが咲希の頭に優しく手を置いた。
「咲希ちゃん、まだお仕事が残っているわよ? あの子達を忘れていない?」
「あっ、ビーシュリンプ! 水合わせしないと。――えっと、沙織お姉ちゃん。水槽の上にプラケースごと浮かべて水温を合わせて、何度かに分けて水合わせすれば良いですか?」
「ううん、今回はもっと丁寧な方法を使いましょう。エビの仲間は水質に敏感だから、『点滴方式』って言われる方法を使った方が良いの」
「点滴? 点滴って、病院とかの点滴ですか? どうやってお家でするんです?」
「まずはエアホースを適当な長さ用意して、金属製の分岐コックに接続。コックの片方は閉じて、もう片方に短く切ったエアホースを付けてから、ゆっくり吸うの」
「吸う?」
「サイホンの原理っていう法則があって、水が高いところから低いところに落ちて来るから――って、実際にやってみた方が分かりやすいわね。咲希ちゃん、このエアホース、軽く吸ってみて。飼育水を飲み込まないように注意して、ゆっくり吸ってね?」
「はい。水槽の水を飲むのは嫌ですから」
苦笑いを浮かべながら咲希がエアホースを吸う。水槽から水が引き寄せられて――
「はい、そこで吸うのを止める。エアホースを折り曲げて、私に貸して頂戴な」
「はい。エアホースを折り曲げて……どうぞ♪」
「この状態で、水面よりもホースを下にしたら水が出て来るわ。こんな感じで」
桜島さんが水草の入っていたステンレスのバッドにエアホースを向ける。勢いよく水が出てきた。
「んで、このままだと水の量が多すぎるから、水がエアホースからゆっくり出てくるように分岐コックで調整するの。合わせる水の量にもよるけれど、エビの水合わせの場合、水が一滴ずつ、ぽた、ぽた、ぽた、と落ちてくるくらいの早さに調整すると良いわ」
「分かりました」
「それじゃ、咲希ちゃん。エアホースをビーシュリンプのプラケースに入れて頂戴な♪」
「はいっ!」
咲希がエアホースをビーシュリンプの入ったプラケースに入れる。それを確認してから、桜島さんが口を開いた。
「んじゃ、水合わせをしている間に、ピンセットとかの道具を洗って片付けましょ?」
◇
翌朝の午前九時四〇分。今日は子どもの日。
「ビーシュリンプ、三匹ともつまつましている♪」
「この様子なら、大丈夫そうね」
水槽の中で動く白と黒のビーシュリンプを眺めながら、咲希と桜島さんが微笑み合った。
「それじゃ、みんなでお買い物行きましょうか?」
僕の提案に二人が笑顔で振り向く。
「うんっ、お兄ちゃん♪」
咲希が僕の右手をとる。咲希とは昨日の夜に打ち合わせ済み。
「鼎~、今日は全部おごってくれるって本当?」
桜島さんが少し悪戯っぽい表情を浮かべる。
「はい。桜島さんには、このゴールデンウィーク、お世話になりっぱなしですから」
「今日の私は、高いわよ♪ それじゃ、行こうか♪」
笑いながら桜島さんが僕の左手を握った。若干、咲希の手に力が入ったような気がしたけれど、まぁ、なんというのか、これを機に『お兄ちゃんっ娘』は卒業してもらえると嬉しい。
「鼎? どうしたの?」
桜島さんが僕に聞く。
「ん、何だかちょっと嬉しいなって思っただけです。行きましょうか」
僕と咲希が考えたプレゼントを――咲希と桜島さんと僕の三人でお揃いになるプレゼントを――桜島さんは喜んでくれるだろうか?
(第7話_初めての鯉ベタの繁殖へつづく)