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第5話_ベッコウトンボと藺弁田池

~ベッコウトンボと藺弁田(いむた)池~



今日は四月三〇日。明日からゴールデンウィーク。

とはいえ一日、三日、四日と僕は学習塾&家庭教師のアルバイトが朝から夕方まで入っていて、実質お休みなのは二日と五日と六日のみ。



でも、今年のゴールデンウィークは忘れられない思い出になりそうな予感がしている。というのも、「川釣りは何度も経験していますけれど、渓流釣りは数えるくらいしか行ったことがないです」と僕が言ったら、桜島さんから「んじゃ、五日の早朝から一泊二日で熊本県の人吉市までヤマメ釣りに出掛けましょ♪」と提案してくれたから。



ちなみに、ここ数日、桜島さんは僕の部屋にがっつり泊まりに来ているのだけれど『友達以上恋人未満の関係』はこれからも長く続きそう。二人で旅行に行ったからといって、特に何かに発展するような予感は全然感じていない。まぁ、なんというのか、そういう気軽な関係が、お互いに心地良い。



――なんてことを考えながら、バイト帰りの桜島さんと遅めの晩ご飯を一緒に食べていると、玄関のチャイムが鳴る音が聞こえた。

「二一時過ぎているけれど、お客さんかな?」

「とりあえず、出てみますね」



リビングの机から立ち上がり、玄関に向かう。ドアスコープから外を覗くと……真っ暗。

もう一度インターホンが鳴った。

ちょ、これ、怖いんですけれど? と思った瞬間――

「宅配便で~すぅ♪」

幼い女の子の声。何というのか、聞き覚えのある声にピンときた。



すぐに鍵を開ける――と、同時に女の子が僕に抱き付いてきた。

「おっにぃちゃん♪ あ~そ~び~に~来~た~よ~♪」

うちの妹。小学五年生。抱き付き癖はまだ治っていなかったらしい。

ふわふわのスカートと栗色のポニーテールが揺れて、背負っている迷彩柄の大きなデイパックが僕の腕にぶつかった。



咲希さき、今年は何年生になったんだっけ?」

「咲希は、五年生だよ? 忘れたの?」

「いや、忘れていないけれど、お姉さんになったのだから、お兄ちゃんに抱き付くのはそろそろやめようね?」

「え~、やだっ♪ お兄ちゃんも、女の子に抱きつかれて嬉しいくせにぃ♪」

「そういうのは、悲しくなるから冗談でも止めて。お兄ちゃん、怒るよ?」

「ぶ~、ぶ~。――ところでさ、咲希が来たのにお兄ちゃん、驚かないんだね? 電話もメールもしていないのに」



咲希の言葉で血の気が引いた。いつものノリで話をしていたけれど、ここは鹿児島市。奄美の実家じゃない。しかもリビングでは桜島さんがご飯を食べている。



「お兄ちゃん、もしかして、お父さんとお母さんに鹿児島に来るのを事前に聞いてた?」

僕は何も聞いていない。咲希の言葉に首を横に振る。

さりげなく、桜島さんの靴が咲希の視界に入らないように、抱きつかれながら身体の向きを変える。

「えっと、何も知らないよ。咲希、お父さんとお母さんは?」

「えへっ、いないよ? 咲希、一人で奄美大島から飛行機で来たの♪ すごいでしょ? 褒めて♪ 褒めて♪」



抱き付いている咲希を引きはがして、玄関の外を確認する。本当に誰もいない。

「ちょ、咲希――」

振り向いたら、咲希はもう部屋に上がった後だった。リビングにつながるドアを開けて――

「うぁきゃっ! 誰かいるッ!」「きゃぁっ、女の子っ!?」

驚いたように悲鳴が二つ重なった。



  ◇



「なるほど、良く分かったわ~。鼎の妹さんなのね~」

僕の説明に、安心したような表情で桜島さんが呟いた。「手を出すロリコンは犯罪者なのよ?」だとか「女性恐怖症だからといって、子どもに手を出すのは人間としてどうかと思うの」だとか色々と言われたような気がするけれど、まぁ何と言うか、桜島さんに正しい情報を理解してもらえて助かった。



僕の隣で大人しくしていた咲希が桜島さんに頭を下げる。本気で怒った桜島さんを見たせいか、若干、緊張した面持ち。

「お、お邪魔しています。だ、大明丘咲希です。よ、よろしくお願いします、お兄ちゃんの彼女さんの、さっ、沙織お姉さん……」



ぎこちない表情の咲希に、桜島さんがやり過ぎたと言った表情を浮かべる。

「あ、ごめん、怖がらせちゃったみたいね……こちらこそよろしくね、咲希ちゃん」

桜島さんが優しい笑顔を作って、咲希の頭を撫でる。

「あ、はいっ♪」

「緊張しなくても良いわよ。楽にして良いから、ねっ?」

桜島さんがはにかむ。その柔らかい表情に、咲希の空気も若干和らいだ。



とりあえず、聞かないといけないことを聞いておこう。

「――で、咲希は何しに鹿児島に来たの?」

僕の言葉に咲希が口を尖らせる。

「あ、その言い方、ひどいよ、お兄ちゃん。咲希はお兄ちゃんに会いに来たの!」



「そういう『ベタなお約束』は置いておいてさ。目的をちゃんと言ってくれないと、咲希をどこに連れて行ったら良いのか分らないよ?」

僕の言葉に、咲希が可愛い笑顔を作る。

「えっと、鹿児島観光とかショッピングとか色々したいのだけど、一番の目的は、咲希、藺弁田池にベッコウトンボを見に行きたいっ♪」



「ベッコウトンボ? 種の保存法で保護されているやつ? 渋いわね」

桜島さんの言葉に咲希が嬉しそうに反応する。

「はいっ、咲希はトンボが好きなんです。特にオキナワベッコウチョウトンボが一番好きなんですけれど、鹿児島のベッコウトンボも見てみたくて。それに――一度、鹿児島県本土のトンボ観察がしてみたくて鹿児島市に来ましたっ!」



「県本土のトンボと言ったら、オニヤンマとかハグロトンボとか? あるいはシオカラとかギンヤンマ?」

「はい、えっと、奄美にはいない種類も多いので、まずは色々な水辺を見に行きたいです」

「なら藺弁田池に行くついでに、他のフィールドで昆虫採集する? ベッコウトンボは法律で触ることすら禁止されているけれど、他のトンボなら大丈夫だから。私、良いポイント知っているわよ?」

「沙織お姉さん、本当ですか!? いつ行けますか! 明日? 明後日? お兄ちゃんも暇だよね?」



咲希の言葉に、桜島さんが困ったような表情を浮かべた。

「えっと、ゴメン、私は一日、三日、四日とアルバイトが入っているんだ。んで、鼎もアルバイトが一日、三日、四日に入っていて――」

「えっ? 沙織お姉ちゃん達、アルバイトしているんですか? っていうか、それじゃ、一緒にお出掛け出来るのは二日と五日と六日だけ――ううん、六日はお家に帰らないといけないから、二日と五日だけしか一緒にお出かけ出来ない……ですよね?」



「ごめんね、そうなるわ」

そう言いながら、桜島さんが目線で僕に合図を送って来た。小学生の妹を放って、二人でお泊り旅行に行くのはよろしくない。無言でそれに頷く。



咲希が戸惑うような顔をして、弱々しく俯いた。

「どうしよう……保護者同伴じゃないとお買い物に行ったらダメって先生に言われていて――折角鹿児島市まで出てきたのに、一日、三日、四日はお部屋でお留守番だなんて嫌だよぉ……」



頭の中で考える。塾講師と家庭教師のバイトはこれ以上休めない。

二日、五日、六日も少し無理を言ってお休みにさせてもらったのだから。桜島さんも、ゴールデンウィークはお店の稼ぎ時だからそれは同じ。

ゆっくりと咲希の頭を撫でる。

「咲希、仕方ないよ。お兄ちゃんは一八時にはアルバイトから帰って来るから、一緒に美味しい晩ごはんを食べに行こう? それまで、飼育部屋で遊んでいて良いからさ?」

「うぇっ、ふえぇぇっ、こんなことなら、お兄ちゃんを驚かそうとか考えずに……事前に、ちゃんと、電話して、おくんだった……」

咲希が弱々しく泣き出した。桜島さんも咲希の頭に優しく手を置く。

「咲希ちゃん、私は一六時にはアルバイト終われるから、少しなら遊べるよ?」

「ぅっ、ひぐっ、えぐっ……」



気まずい雰囲気が僕らを包む。

自業自得とはいえ、小学生の咲希にはちょっと可愛そう。――と、桜島さんがあることに気付いたような表情を浮かべた。

「咲希ちゃん、熱帯魚って好き?」

「――っはぃ。お父さんが好きだから、私も少し飼っています。グッピーだけですけれど」

「良かった。実は私、ペットショップでアルバイトしているのだけれど、良かったら一緒について来ない? 水槽を見ているだけでも時間が潰せるし、美味しいカフェも隣にあるから、そこで色々な本を読むこともできるわ。そして一六時まで我慢出来たら、お姉さんと一緒に『大人の夕方ショッピング』に行きましょ? ねぇ、どう思う?」



桜島さんの言葉に咲希の表情が明るくなる。

「大人の夕方ショッピング、興味有ります。それに、沙織お姉さんはペットショップでアルバイトしているんですか? すごいです」

興味津々な咲希の様子に桜島さんが微笑む。



とりあえず、明日は桜島さんに任せて大丈夫そうだ。

「それじゃ、明日は私と一緒にペットショップに行こうか。んで、二日は私も鼎もアルバイトがお休みだから一緒にトンボの観察&採集に行こうよ。その後の三日以降は、また後で考えるということにしてさ?」

「はい、沙織お姉さんありがとうございます」

笑顔で咲希が頭を下げた。



部屋の空気が軽くなった。

「んじゃ、明日は九時からバイトだから、それに間に合うように待ち合わせをしよう。咲希ちゃんはどこのホテルに泊まるの?」

「お兄ちゃんの部屋です」

「そっか、お兄ちゃんの部屋――って、ここに泊まるの!?」

桜島さんの驚いた声が部屋に響いた。咲希が当然といった表情で頷く。



「はい。だって、宿泊費がもったい無いですから。今日から六日まで六泊することを考えたら、三万円くらい違ってきますし。――良いよね? お兄ちゃん?」

「それは……」

頭の中で色々なことが駆け巡る。最近、ただでさえ飼育部屋で眠ることが多かったのに、ゴールデンウィーク中、全て寝袋で寝ることになるのは少し辛い。



「咲希、もう来ちゃったもん♪ それとも、ネットカフェ? だっけ? そういう所に泊まって来た方が良い?」

「女の子がネットカフェは危ないから、絶対に止めなさい」

僕の言葉に咲希が笑う。

「知ってる♪」

「知っているなら、言わないで。お兄ちゃん、心配しちゃうから」

「だって、お兄ちゃんが部屋に泊めてくれないって言うんだもん!」

「言ってはいない。……分かったよ、泊めてあげるよ。僕は飼育部屋で寝袋で寝るから、ベッドは咲希に使わせてあげる。――桜島さん、すみませんが今日からしばらく、夜は実家に帰っていてもらえますか?」



そこで咲希の表情が固まった。

僕の部屋にベッドが一つしか無いことに初めて気付いたみたいだった。ばばっと視線を巡らせて、咲希が真っ赤な顔で桜島さんの顔を見て目を伏せた。あ、こいつ、今、余計な想像を絶対している。

「さ、咲希が飼育部屋で、寝袋使って寝ますっ。みっ、耳栓して眠りますから、お兄ちゃんと沙織お姉さんは、い、いつも通り一緒のベッドで寝て大丈夫ですっ!」



やっぱり、盛大な勘違いをしている。それに気付いた桜島さんが、小さく噴き出した。

「鼎~、今日から私、家に帰るわ。ベッドは咲希ちゃんに使わせてあげて♪」

「沙織お姉さん、咲希が寝袋で寝ますから――」

「寝袋で寝るのは鼎よ。咲希ちゃんはベッドで寝なさいな♪」

桜島さんに頭を撫でられて、咲希が顔を上げた。

「あのっ、それじゃ沙織お姉さん。今夜は帰らずに、わっ、私と一緒に寝てくれませんか?」

「はぇ? 一緒に寝るの?」

桜島さんが驚いたような表情を浮かべる。



咲希が俯きながら、恥ずかしそうに言葉を発した。

「……はい。何だか沙織お姉さん素敵な人だし、隣に寝て色々なお話をしてみたいんです。……ダメですか?」

「ダメじゃないけれど――ううん、言葉が違ったわ。大歓迎よ♪」

「あ、ありがとうございます」



  ◇



奄美の空港を出てから何も食べていないという咲希に、桜島さんが冷蔵庫の中のモノを使って即席のチャーハンを作ってくれた。野菜たっぷりだけれど、咲希は嬉しそうな顔をして食べている。

「このチャーハン、美味しいです。うちのお母さんの作るのと違って、野菜のシャキシャキ感が美味しいです」

「ありがと。愛情込めて作っていますから♪ これ食べたら、明日が早いからお風呂に入って寝る準備をするのよ?」

「はい。分かりました」



「鼎、私は咲希ちゃんと話をしておくから、先にお風呂に入って来て」

桜島さんが笑顔で僕に言った。咲希を任せておいても大丈夫そう。

「ありがとうございます。咲希をお願いします」

二人に見送られて洗面所のある脱衣所に向かう。最初は、桜島さんも咲希もぎこちない感じだったのに、打ち解けてくれたみたいで何だか良かった。



  ◇



僕がお風呂から上がると、咲希と桜島さんはスマホのゲームの対戦をしていた。僕はあまりゲームに興味ないから知らないけれど、協力プレイで強敵を倒したみたいで、軽い興奮状態の二人がいた。



「それじゃ、お風呂入ろうっか♪」

「ついて行きます、沙織お姉ちゃん」

「うんうん、一緒に入ろう♪」

「え? 二人で入るの?」

僕の言葉に二人が同時に口を開く。



「仲良くなりましたから~」「ましたから♪」

桜島さんにじゃれつきながら、咲希が笑う。桜島さんが咲希の頭をもしゃもしゃゃと撫でる。

「いや、別に良いけれど、はしゃいで、すべったりしないでね?」

僕の言葉に片手を振って、桜島さんと咲希が廊下に消えて行った。



  ◇



部屋の時計の針は二二時三〇分。それを見た瞬間、ふと気が付いた。

急いで携帯を手に持って実家に電話をかける。親父はまだ起きていたのか、すぐに電話に出た。

「親父、起きていた?」

「起きてたよ。――思ったよりも電話がかかって来るのが遅かったな。咲希は部屋に付いたってきちんとメールくれたぞ?」

電話の向こうの声が笑っていた。

「そんなことより、今度からは事前に来ることを教えてよ。そうじゃないと、僕はバイトもあるし、予定もあるし、今回みたいに最悪、咲希を放置してバイトに行かないといけないことになってしまうから」



「ん? でも、咲希に聞いたぞ? 彼女さんがとても良い人で、明日も明後日も一緒に遊んでくれるって。――それにしても可愛い彼女を見つけたんだな♪ 咲希と写っている画像をメールで咲希が送ってくれたんだよ。今、プリントアウトして仏壇に飾ってある」

「ちょ、仏壇って――」

「ひい祖父ちゃんとひい祖母ちゃんに報告しておかないとなぁ♪」

「……オーバー過ぎるよ、親父」



「優しい彼女さんみたいだな。今度、帰省するときには連れてきなさい」

「……分かったよ。桜島さんがOKしたら、連れてくる。それじゃ、電話切るね」

「ああ。元気でな」

「親父もな」

耳を離して三秒数える。そして携帯の通話終了ボタンを押す。……なんというのか、変な汗が出そうになった。桜島さんのことが、こんなにも早くうちの親にバレるなんて。



  ◇



翌朝六時四〇分。若干寝不足の表情の桜島さんと、目をキラキラと輝かせている咲希。

見るからに昨日の夜は二人で話をしまくっていたのだろうなと分かったけれど、睡眠時間は同じなのに、外見に差が出てしまうのは――年齢のせいじゃなくて、咲希のテンションが無駄に高いせいだろう。



一緒にご飯を食べて、出かける準備をする。八時三〇分から学習塾の講義が始まる僕は、七時四〇分には家を出ないといけない。

沙織さんと咲希に玄関で見送られて、電停へと歩いて行く。さて、頭を切り替えて塾講師、頑張りましょうか♪



  ◇



僕が部屋の前に帰って来たのは、一八時を少し過ぎた時間。

部屋の鍵を取り出しながら考える。外灯が点いていないから桜島さんと咲希はまだ出先なのだろう。――と駐輪場の方から、桜島さんのバイクの排気音が聞こえてきた。250ccだから結構良い音させている。

と軽い足音がパタパタと聞こえて、片手に紙袋を下げた咲希がやってきた。



「お兄ちゃんただいま~♪」

「お帰り。その様子だと楽しめたみたいだね」

「うんっ! バイクすごいんだよ、本当すごいの! それに大人の夕方の買い物も楽しかったし、ペットショップでお手伝いもしたの!」

「そうなんだ、良かったね」

「うん、楽しかった!」



「鼎~、ただいま♪」

「あ、桜島さん、お疲れさまです。今日は色々とありがとうございました」

「沙織お姉ちゃん、ありがとうございました」

僕と同時に咲希が頭を下げた。桜島さんが笑う。

「うふふっ、私の方こそ楽しかったから良かったわ。それよりも、部屋の中に入りましょ♪ 鼎にお土産を買ってきたからさ?」



  ◇



朝の六時半。僕らは鹿児島県薩摩川内市の藺弁田池にやって来ていた。

レンタカーを借りるつもりだったけれど、桜島さんのお父さんが好意で車を貸してくれた。駐車場に止めて、みんなで車を降りる。

「あ~、空気が美味しいかもっ♪ ――あっ、白鳥がいるっ!」

「咲希、走ると危ないよ! ちょっと待って」

「だって白鳥だよ? 白鳥!」

咲希の後を追いかけて水辺に近寄る。



泥と珪藻で濁っている不透明の水の上に、大量のカモに混ざって白鳥が数羽泳いでいた。

「餌あげて良い?」

「時間がかかりそうだから、帰りにしたら?」

「そうだね。それが良いかも。気温が上がってきたら、ベッコウトンボ、羽化しちゃうし――」



そこまで口にして、咲希が若干、つまらなさそうな表情を浮かべる。

「――でも、この場所、トンボがいるような環境に見えないよ? もっとこう、草むらがあって、湿地っぽい感じをイメージしていたのに……池が広過ぎるし護岸整備もされちゃっているし」



そこに桜島さんがやって来た。

咲希を後ろから抱き締めて、ゆっくりと口を開く。

「目的地はこの池の向こう側。国の天然記念物になっている『泥炭形成植物群落』って呼ばれる場所の近くに、観察ポイントがあるんだよ♪ レンタル自転車屋さんは、この時間帯はまだ開いていないから、お散歩がてら歩いて行くわよ?」

「え、そうなんですか? 分かりました、歩きますっ!」



  ◇



紅色のつつじが植わっている池沿いをぐるりと歩いて約二〇分。ベッコウトンボの観察池と立て看板があるビオトープの前にやって来ていた。飛び石の上を咲希が歩く。



「オタマジャクシが大量にいるねぇ~。お兄ちゃん、これ、何のオタマ?」

「えっと、多分、ヤマアカガエルかトノサマガエルだと思う。桜島さんはどう思う?」

「私は、以前、ここのフィールド調査会に参加したことがあるから知っているけれど、ヤマアカガエルの割合が高いらしいわよ。あと、シュレーゲルアオガエルもごく少数だけれどいるみたい」

「シュレーゲルがいるんですか!? あれ、瞳が格好良いですよね♪」



「そうね。アマガエルよりも大きいから、格好良いわね。――さて、羽化したてのベッコウトンボがいないか池の周りを廻ってみましょ? あと、もう少し先に行ったところに用水路が二本と湿地があるから、そこも一緒に見てみると良いわ♪」

「はいっ、分かりました!」



それから十五分。時期的に当たりだったのかすぐに数匹のベッコウトンボを確認することが出来た。咲希もデジカメで上手く写真が撮れたと言って喜んでいる。

「ねぇねぇ、シオカラトンボと、それのメス、ムギワラトンボも写真撮れたよ♪」

咲希がデジカメを見せてくる。綺麗なシオカラトンボだった。



「咲希、ベッコウトンボの方が珍しいんだぞ?」

「うん、知っている。でも、奄美にいるタイプと頭の色が違うんだよ? 奄美の方がサイズが大きくて、頭が黒いの♪」

興奮するように咲希に言われてしまったけれど、正直、頭の色が違うと言われてもピンと来ない。でも僕の反応はお構いなしに咲希が言葉を続ける。

「ねぇねぇ、ヤゴ、見れないのかな? ヤゴ」

「う~ん、水の中を覗いても、泥と同化しているから難しいね。ガサガサ出来れば見つかるのかもしれないけれど、この場所ではやっちゃいけないし」

「……残念。ヤゴの違いも見てみたかったんだけれどな~」



「咲希ちゃ~ん、こっちおいで♪ 良いモノ見つけたよ~」

桜島さんが咲希を呼ぶ。

「は~い、沙織お姉ちゃん、そっちに行きま~す。――お兄ちゃん、沙織お姉ちゃんが何か見つけたみたい。一緒に行こう?」



咲希と一緒に桜島さんの隣に行くと、桜島さんが水路の壁のコンクリートを指さした。そこには――

「わぁっ、ヤゴの抜けがらだっ♪ 写真♪ 写真♪ 写真撮影っ♪」

写真を撮る咲希の後ろで桜島さんが微笑む。

「以前、同じような場所で見たことがあったから、今回も抜けがら無いかな~って探してみたの。咲希ちゃん、一応、法律で決められているから触っちゃダメよ? 抜けがらでも自然の一部なのだから」

「分かりました♪ 観察&写真撮影だけにしておきます!」

目線を抜けがらに固定したままで、咲希が興奮した声で言った。



桜島さんが笑顔になる。

「今日、連れて来た甲斐があったかな♪」

「そうですね、ありがとうございます」

「鼎は、何か気になる発見は有ったかな?」



「えっと、ヤマカガシとニホンイシガメを見つけたことくらいでしょうか。個体差かもしれませんが、ヤマカガシ、綺麗な色をしていましたよ。黒地に黄色味の強い個体でした。写真、見ますか?」

「見る見る♪」

携帯を取り出して、桜島さんに見せる。桜島さんの目が大きくなった。

「これは、また綺麗な色ね。毒蛇だから気をつけないといけないけれど、触ってみたくなっちゃうわ♪」

「桜島さん、へび、触れる人なんですか?」

「ん? 平気よ? ペットショップでも扱っているし、小さい頃からフィールドで捕まえているし。あ、でも、流石に毒蛇に手を出すようなお馬鹿さんじゃないわよ? 鼎はどうなの?」



「僕は一度、ハブに噛まれたことがあって、それ以来、触るのはダメになりました」

「あ~、奄美大島はハブがいるからね。噛まれたって大丈夫だったの?」

「ええ、すぐに病院で血清を打ってもらいましたから。でもあの時は、これで死ぬのかな、って走馬灯が見えましたよ。かなり痛くて」

「あははっ、走馬灯は見たくないなぁ~♪」



桜島さんが笑って、思わず僕も笑顔になる。と、桜島さんの視線が動く。

「咲希ちゃんは、良い子ね。私、一人っ子だったから、こんな妹が欲しかったの」

「仲良くしてくれて、本当にありがとうございます」

「そりゃ、仲良くしないといけないよ。だって――未来の義妹なんだから♪」

さらりと言って、桜島さんは咲希の隣に逃げて行った。桜島さんの横顔が、ちょっと赤くなっていたのに気付いたけれど、それは口にしちゃいけないことだと感じた。



  ◇



「咲希ちゃん、寝ちゃったねぇ~」

車を運転しながら桜島さんが小さく呟いた。夕方のラッシュで道が混んでいる。

「今日は、ありがとうございます。おかげで咲希も楽しんでいました」

「無事に咲希ちゃんのトンボコレクションに貢献出来て良かったわ。時期的に早いから採れるか心配だったけれど、咲希ちゃんの好きなチョウトンボも捕まえることが出来たし」

「本当にありがとうございます。ポイントをいくつも回ってもらって」

「ううん、私も楽しかったから良いのよ。それに、私の知っている好きな景色を、鼎と共有出来たことが嬉しかったし」

前を向きながら、桜島さんが優しい笑顔で微笑んだ。



小さな沈黙が流れる。でも、その沈黙は、心地良いリズムを刻んでいた。

「桜島さん――」

赤信号で車が止まる。



「なぁに?」

桜島さんが僕を見た。

「――いつか、僕と一緒に奄美大島にも来て下さい。その、桜島さんに見せたい景色が沢山ありますし、紹介したい人も沢山いますから」



桜島さんが小さく噴き出す。

「『いつか』――じゃ、遠過ぎるわよ。今年の夏休みじゃダメ?」

「い、いえ、大丈夫です! 夏休みに来て頂けますか!?」

桜島さんが優しく笑う。

「もちろんよ。咲希ちゃんとも遊びたいし、鼎の知っている景色を共有したいし――何より、鼎の大切な人に会ってみたいよ」

そう言うと、桜島さんは前を向いた。ゆっくりと車が走り出す。



静かで穏やかな雰囲気が、僕らを包んだ。

夕方の太陽が、ちょっと眩しい。



(第6話_二酸化炭素の添加が不要な水草へ続く)

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