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第4話_魚の引っ越しと僕らの決意

~魚の引っ越しと僕らの決意~



入学式から三週間が過ぎた。今日も桜島さんは平常運転。一方の僕は、少しそわそわ。



今日は待ちに待った特別な日だから。具体的に言うなら、中学高校と学校の生物部で飼育していた、アジアアロワナとポリプテルスが僕の部屋に届く日。現在、午後の一八時三〇分。宅配便の時間指定は一九時だから、まだもう少し時間がある。



双頭イモリの「サクラダ」に餌をあげた後、アロワナが泳ぐ姿をイメージしながら、一八〇センチ水槽に設置した流木の向きを試行錯誤して変更していると――

「鼎、カップラーメン出来たよ~」

キッチンから桜島さんが僕を呼ぶ声がした。今日は僕のお手伝いとして部屋に来てくれている。熱帯魚ショップでアルバイトをしている桜島さんは、大型魚の取り扱いにも慣れているとのこと。水槽への搬入は僕一人だけでは難しいと考えていたから、とても頼もしく感じる。

「桜島さん、分かりました、今行きます」



濡れた手をタオルで拭いて、キッチンに向かう。

「桜島さん、ありがとうございます――あれ?」

「あはっ、気が付いた? 野菜炒めも少し乗せてみたの。香ばしくなって美味しいよ♪」

豚骨味のカップラーメンの上に、湯気が立って熱々の野菜炒めが乗っている。何と言うのか、ちょっとした気遣いが嬉しかった。



「さぁさぁ、見ていないで早く食べましょ? 麺が伸びちゃう」

「はい。それじゃ――」

リビングの机に座って、桜島さんと目線を合わせる。

「「いただきます」」

僕らの言葉が重なって、お互いに笑顔になる。ここ最近、大学でも僕の部屋でも一緒にご飯を食べることが多いけれど、気が付いたら桜島さんと同じタイミングで「いただきます」を言うのがお約束になっていた。



「ねぇねぇ、鼎。宅配便で今日届くお魚って、どんな種類がいるんだっけ?」

真向かいにいる桜島さんが、僕に聞いてきた。

「一番大きいのはアジアアロワナで、他にはポリプテルス・デルヘッジが五匹にパルマスが三匹、セネガルスが四匹届く予定です」

「アジアアロワナとポリプは混泳させていたの? サイズ差が大きくない?」

野菜炒めを箸で取りながら、不思議そうな顔で桜島さんが言った。



「えっと、別々の水槽で飼っていました。アロワナは一二〇センチ水槽で、ポリプテルスは九〇センチ水槽で。なのでうちでも一八〇センチ水槽にアロワナを入れて、九〇センチ水槽にポリプテルスを入れる予定です」

「そっか。でも、一八〇センチ水槽にアロワナ単独飼育って、ちょっと贅沢すぎじゃない?」

「そこは少しずつ何か追加していこうと考えていますけれど――今は、単独飼育のリッチ感を味わうのもアリかなと思っています」

「確かに、それはアリね♪ 今しかできない贅沢だわ」



猫舌な桜島さんが、麺をふぅふぅした。何だか可愛い。

「ん? どうかした?」

不思議そうな視線が桜島さんから返ってきて、初めて見惚れていた自分に気が付いた。思わず顔が熱くなる。

「い、いえ……えっと、野菜炒め美味しいです。ちょっと濃いめの味付けが、豚骨スープに合っていますね」

「そうでしょ? それが分かるってお兄さん通ですねぇ~♪」



冗談っぽく言って、桜島さんが満足そうに笑顔を浮かべた。このほんわかとした桜島さんとのご飯タイムが、僕は好きになっている――のかもしれない。



  ◇



ラーメンを美味しく食べ終わった後、歯磨きをしていたら玄関のチャイムが鳴った。

時間的に宅配便だろう。急いで口をすすいで出ようとしたら、桜島さんが先に出てくれる声が聞こえた。



「はいは~い、今開けま~す♪」

ご機嫌な声で桜島さんが玄関のチェーンを外してドアを開けるのと同時に、僕も洗面所から出て玄関の方を見る。そこに立っていたのは、大きな発砲スチロールの箱を両手で抱えた、生物部の顧問の草牟田先生と三人の後輩――東山、西山、南山――だった。



「え、あれ、えっと……? 鼎の知り合い?」

桜島さんが僕に聞いてくる。それに首を縦に振ることで同意しながら、思考停止に陥りそうになる脳をフル稼働させる。多分、こいつら……もとい先生と後輩達は、固まっているから、桜島さんのことを僕の彼女だと誤解している。まずは、その誤解を解かなければ――

「大明丘先輩っ、彼女さんと同棲しているんですか!?」

馬鹿な東山が、興味津々な瞳で僕に視線を送って来る。



「いや、彼女――」

じゃないよ、と言おうとしたら、桜島さんの言葉で遮られた。

「ぅ~ん、鼎とは『友達以上恋人未満のお付き合い』かな? ねぇ、鼎、それで間違っていないよね?」

桜島さんの言葉に、心臓の鼓動が大きくなる。「おお~、呼び捨てだ」とか後輩達は騒いでいるけれど、そんなの関係ない。桜島さんに、ただの友達じゃなくて「友達以上のお付き合い」と言われたことが意外だったから。



「実は、お姉さん、この部屋の合鍵を持っているんだぞっ♪」

後輩の反応が面白かったのだろう、からかうように桜島さんが言う。再び後輩達が騒ぎ出す。先生も合わせて何か泣き真似しているし。……近所迷惑だ。

そりゃ、飼育部屋のために合鍵を持っているから桜島さんとは友達以上のお付き合いだろう。でも、それだけ。一気に冷めた僕がいた。話題を切り替えよう。



「えっと、先生や東山達は、もしかして魚を持ってきてくれたんですか?」

僕の言葉に、先生が頷く。

「ああ。宅配便業者に頼もうと思ったんだが、自分達の手で運んだ方が魚へのダメージが少ないと思ってな。大明丘が自慢していた水槽部屋も見てみたいなと思ったし。高速を飛ばして三時間かかったけれど、でもまさか、サプライズしようとしたら、逆にサプライズをしかけられるとは――」

その話題はスルーさせてもらう。先生の言葉を遮るように。

「熊本から、わざわざすみません。とりあえず、上がってお茶でも飲んで下さいよ」



……。本当は「荷物を置いたらすぐに帰れ」と思わなくも無かったけれど、他人の好意を足蹴にするほど僕は割り切れる人間じゃないらしい。少しだけ、ため息が出た。



  ◇



取りあえず、みんなで相談して、お茶を飲む前に魚の搬入を済ませることに決まった。

飼育部屋のドアを開けるなり、先生と後輩達がざわめき立つ。

「ちょっ、先輩! この部屋なんですか?」「一八〇センチ水槽でけぇ~」「水槽、何個あるんですか?」「これは広いなぁ~、先生、うらやましいぞ」

ちょっとした優越感――は、顔に出さない。格好悪いと思うから。

「えへへっ、凄いでしょ? この部屋、半分は私が使っているんだよ?」

桜島さんが自慢げに言った。……この人はいらないことを言う人だ。



「彼女さんも、生き物が好きな人なんですか?」

「彼女じゃないよ、『桜島さん』って名前で呼んで欲しいな」

「はい、桜島さん」「桜島さん」「桜島さん」「桜島さん」

「お前ら、うるさい。っていうか、先生も声をかぶせないで下さいよ」

僕の突っ込みに、先生が苦笑する。

「いや、悪い。思わず乗ってた♪」



男子校のノリが暑苦しいと感じるのは、大学に入って僕が変わったせいだろうか? それとも、こいつらが濃い過ぎるせいなのか? どっちなのかは分からない。

ちょっとだけ眩暈がした。



その後も、とりとめのない話をしながら、魚を水槽に入れていく。

水とアロワナが入った袋を、桜島さんと息を合わせて発砲スチロールの箱から取り出して、袋ごと水槽に浮かべてカッターナイフで小さな穴を複数箇所開ける。ポリプテルスも同様に。



「これで良し♪ しばらく放置しておけば、水合わせが自動的にされますので、お茶でも飲みましょう」

リビングと勉強机から椅子を持ち出して、全員で飼育部屋のガラステーブルでお茶をする。僕と桜島さんは狭いソファー。何と言うか、ちょっと恥ずかしい気がするけれど、桜島さんは平気そうな顔をしているから――僕だけが意識しているとバレると余計に恥ずかしいから――なるべく気にしないことにした。



お茶を飲みながら、後輩達に生物部の新入部員の様子を聞いたり、大学の話をしたりする。桜島さんが新入生代表の挨拶をしたという話題で盛り上がっていた次の瞬間――バシャバチャリという派手な音を立ててアロワナが水槽の外に飛び出した。

ナイフで開けた穴を自分で広げて、そのまま暴れて飛び出したのだろうな、とすぐにイメージ出来た。水合わせの時間をケチって大きめの穴を開けたのが失敗だったと頭で考えながら、身体は動いていた。桜島さんも動いていた。



桜島さんと目線を合わせる。桜島さんが頷く。

呼吸を合わせて、床で飛び跳ねているアロワナを二人で手づかみ。そのまま持ち上げて水槽に放り込む。

ちゃぱりと小さな水音を立てて、アロワナは水底でエラをパクパク動かしていた。



「とりあえず、何とか大丈夫そうね」

「ヒレも鱗も無事そうです。ありがとうございます」

水槽を覗き込んだあと、桜島さんと目線を交わして笑顔になる。ふと視線を感じて振り返ると、先生と後輩達がにやにやとした顔で笑っていた。



「いや~、息がぴったりって感じだったな」

「先輩達すごいです」「かっこいい」「素早かったですね~」

その言葉に、桜島さんが得意げに、かつ照れたように、はにかんだ。そして、手元を見ないまま、桜島さんがアクリルの蓋を閉めようとした――次の瞬間、ばしゃりと大きくアロワナが跳ねた。

桜島さんの上半身がずぶ濡れ。

「あちゃ~、やられたよ……鼎、タオルを頂戴♪ ――ん? ねぇ、何で固まっているの?」



アクリルの蓋を閉め終えた桜島さんから、そっと視線を外す。ソレに気付いた桜島さんが、小さな悲鳴を上げた。

「ちょ、なっ、ブラが透けているなら早く言いなさいよっ!」

胸元を隠しながら桜島さんが僕を叩く。

「いや、言えませんって。自分で気付いて下さいよ」

「だっても~、やだっ! 新しいタオル取ってくる――」

そこで桜島さんの言葉が止まった。何かを見て、桜島さんが固まっている。その視線の先には男子校の先生と後輩達。そりゃ、うん、そうだろう、見てしまうのは男のさが。仕方が無いと思う。でも、僕はフォローできない。



みるみるうちに桜島さんの顔が赤くなる。

「あんたら最低っ! 床に正座して反省しなさいっ!」



  ◇



バスタオルをシャツの上に羽織ったお怒りモードの桜島さんによる、フローリングの床に先生と後輩達を正座させて行われた大反省会は、約二〇分で幕を閉じた。「座ってくれないと泣いちゃうよぉ……」と泣き落としまで使って、しぶる五〇代の妻子ある先生までも床に正座させたのだから、怒った女の子ってガチで怖いんだなぁと思った。はい、ええ、そうです、当然僕も座らされました、最前列に。



若干げっそりした表情の先生達をマンションの駐車場で見送ってから、右手の時計を見る。二〇時三〇分を少し過ぎていた。



部屋に戻ると、飼育部屋のソファーに桜島さんがいた。

「桜島さん、そろそろ帰らないとご両親が心配しますよ?」

「ん~、分かってる~」

どこか上の空な桜島さん。少し唇が尖っていた。



桜島さんは実家暮らし。大学の入学式の数日後、イモリ採りに行くために、無断で外泊したことを両親に怒られたと聞いている。一応、女友達の部屋に泊まったと言ったらしいけれど、ここ数日、毎日のように帰りが遅い娘のことをご両親が気にしているであろうことは、僕にも簡単に想像が出来た。年頃の娘が、大学に入学したとたんにバイトの無い日も遅くまで家に帰って来ないとなったら……僕が父親だったら、多分、発狂する。

だから、ご両親には余計な心配は掛けさせたくなかった。



「桜島さん、今日は閉店ですよ~」

「はぁ~い。分かった、帰るよ。でもさ――」

立ち上がって、アジアアロワナを眺めながら、ぽつりと桜島さんが呟いた。

「これから、私の家に来ない?」

長い沈黙が流れた。何と言葉を返したら良いのか分らない。桜島さんが、若干頬を赤く染めながら口を開く。



「あ、いや、別に変な意味は無いのよ? ただ、これからも夜が遅くなっちゃうのなら――この部屋にいられる時間が短くなるのなら――いっそのこと鼎のことを正直に親に話した方が、楽になれるのかなって思って」

「桜島さんは、そう思うんですか?」

「……うん。今日、鼎の後輩達がやってきて、何となく感じたんだけれど……私、彼氏とか彼女とか、まだそういう気持ちは分からないけれど――多分、私達の関係は長く続くと思うの。いや、長く続けたいの。だからさ、ねぇ、家に来てよ!」



真剣な表情の桜島さん。耳まで真っ赤に染まっているのに、目線を僕から外そうとしない。そんな桜島さんを見てしまうと、とても断ることなんて出来なかった。うやむやになんてしたくないと感じた。

「分かりました。僕、桜島さんのご両親に挨拶に行きます」

「あ、ありがとぅ」

ホッとしたような表情を桜島さんが浮かべる。



「――でも、こんな夜遅くに会いに行くのは非常識なので、明日の夕方とか明後日の夕方とか、ご両親の都合が良い日に会いに行きましょう。僕も桜島さんとの関係は長く続けたいですから」



  ◇



駐車場で桜島さんのバイクを見送ってから三時間。

日付が変わりそうな頃に、桜島さんから電話があった。ずっと泣いていたんですか? ――なんて聞く勇気は無かったけれど、明らかに鼻声になっていた桜島さん。明日の一七時半に、家に来て欲しいという短い電話だった。



  ◇



翌日。大学の学食で『鹿児島黒豚の生姜焼きランチ定食』と『鹿児島地鶏から揚げランチ定食』を食べながら桜島さんと作戦会議。

「桜島さん、さっきの講義、爆睡していましたけれど……ノートのコピーいりますか?」

「ありがと。昨日、なかなか眠れなくて。もらっておくわ」

小さなあくびを噛み殺しながら、赤い目の桜島さんが言った。

「とりあえず、ご両親への挨拶の方法をインターネットで調べてみたのですが……」

「あんまり参考にならなかったんじゃない? 私も見たけれど、一言でまとめるなら『礼儀正しく、清潔に、はきはきと元気良く』――って感じだったから」



「一言でまとめられちゃうだけに、難しいんですけれどね……一応、『僕達の交際を認めて下さい』って言うつもりですが――」

「え、えっ? な、何それ、まるで私達が付き合っているみたいな言い方じゃないっ。せめて『友達交際』にしなさいよ!?」

顔を赤らめながら桜島さんが言った。確かに、桜島さんが言う通りなのだけれど――

「それは僕も考えたのですが、ちょっと情けないというのか、大学生になっても親に交友関係を依存するのは恥ずかしい気がして……」



「あ~、そう言われると納得。親に口出しされる意味が分からないもん――って言ったら、昨日、怒られたけれど」

「やっぱり、怒られました?」

「うん、鼎に電話するまで大喧嘩。最後の方は、日頃のうっぷんを晴らす泥仕合みたいになって、訳分からない状態にまで発展したわ」

「……そういうのは苦手です。今日は冷静な話し合いがしたいですから」

「そうなることを私も望むわ」



ぎこちなく桜島さんが微笑む。そして甘えた声を発した。

「鼎ぇ~、私、飼育部屋を手放したくないよぉ~。まだ、使用料も払っていないし、アマガエルも飼っていないのにぃ~」

「あ、使用料のことはご両親に話されましたか? やっぱり、問題になりましたよね?」

「うん。父親は『半分使わせてもらうのなら、多少負担するのは当然のこと』ってビジネスライクな意見で、母親は『女の子からお金を取るなんてとんでもない』って時代錯誤な意見だった」



「お父さんの方が好意的な考え方なんですね?」

「きちんと領収書をもらって確定申告することが条件って言っていたけれどね。でも『年頃の女の子が男の部屋に出入りするのは絶対反対だ』とか言ってくれちゃうし。その一方で、母親の方は『そろそろ彼氏の一人くらい連れてきて欲しかったから、大歓迎しちゃう』とか言うし、もう、訳わかんないよ」

「桜島さんのお父さんの意見も、お母さんの意見も、間違ってはいないですよね」

「間違っては、いないと思う。私達の関係が特殊なだけで」



「そうですよね……でも、真正面から当たって砕けるしかないかな~とも僕は思っています。小細工をしても仕方無いですし、誠意を見せて話して、許してもらうしかないと思いますから」

「砕けちゃだめだよ、砕けちゃ。でも、真面目に話すのが、一番簡単で一番難しい方法なんだよね」

 そう言って、桜島さんが言葉を区切る。意を決したような表情で桜島さんが口を開いた。



「選択肢は一つみたいだね……」



 ◇



午後の講義の後、一度、僕らは僕の部屋に戻っていた。

右手の時計の針は一六時二〇分を指している。バスに乗って桜島さんの家に行くには、もう少ししたら部屋を出ないといけない。

ご両親へのご挨拶に何を着ていくのが良いのか色々と迷って、結局、オーソドックスにクリーニングから戻ってきたばかりの一番上等なスーツを着ることにした。



家を出ようとしたら、玄関で桜島さんが僕を止める。

「ネクタイ、歪んでいるわよ?」

そう言ってネクタイを直してくれたけれど――すぐに桜島さんの顔が桜色に染まった。

「お、お約束なコトしちゃったじゃないの! 鼎が悪いんだからね!?」



何だか、はにかむ桜島さんが少し可愛かった。

「すみません。でも、ありがとうございます。……気付いていますか? 今のコレ、今日初めての桜島さんの自然な笑顔ですよ?」

桜島さんが驚いたみたいに視線を泳がす。やっぱり、何と言うか仕草が可愛い。

「か、かっこつけないでよ? 鼎のくせに」

「少しくらいなら、許して下さい。これからもっと格好良いこと言わないといけないんですから」

「う、うんっ。それじゃ――行くわよ?」

桜島さんが僕に右手を差し出した。恥ずかしそうな真っ赤な笑顔で。

「ほら、手を繋ぐわよ? かっこいいこと言ってくれるんでしょ?」



あり得ない光景に桜島さんの手を取って良いものかどうか一瞬だけ躊躇したけれど、彼女の気持ちを受け止めると決めたことを思い出して、その手を握る。

ぴくんっと反応した手は、幼稚園以来久しぶりに握る手は、昔と変わらず柔らかかった。

「――鼎?」

桜島さんが僕の名前を呼ぶ。その瞬間、気が付いた。



「鼎、私以上に混乱しているでしょ? 私と『握手』をしても、一緒に歩けないわよ?」

そう言って笑うと、桜島さんは僕の左手に優しく握りなおしてくれた。思わず二人で笑っていた。桜島さんは、少しくらいなら、失敗してもこうして許してくれるのだろう。そう考えると気持ちが楽になった。



  ◇



桜島さんの家の前についた。深呼吸をしても心臓の鼓動は収まらない。でも、いつまでも突っ立っているわけにもいかない。

「それじゃ、押すわよ?」

「はい、よろしくお願いします」

僕の言葉に頷いて、玄関のチャイムを鳴らしてから、桜島さんがドアを開ける。

「ただいま~」

「おじゃまします」



すぐにリビングから桜島さんのお母さんが出てきた。若い。話では四〇代後半と聞いていたけれど、三〇代前半くらいに見える。

「いらっしゃい、鼎君♪ お久しぶりね、私のこと覚えている?」

正直、覚えていないけれど、それを口にする訳にはいかない。笑顔を返す。

「僕のこと、覚えていて下さったんですか? ありがとうございます」



桜島さんのお母さんが、素敵な笑顔を作る。

「ええ、うちの娘のファーストキスの相手だもの♪ 血まみれになった唇は大丈夫?」

うぁぁぁっ、いきなり黒歴史を抉られた。



「え、あっ、はぃ、大丈夫デス」

「うふふっ、少しはキスも上手くなったのかな~? 今日は怪我していないみたいだから♪」

桜島さんのお母さんの追撃に、思考が停止しそうになる。――と、桜島さんが僕をフォローするように言葉を発する。

「もうっ、お母さん! 鼎とはそういう関係じゃないのっ! 何度言ったら分かるのよ!?」



「そうなの? でも、今日はわざわざご挨拶に来てくれたんだから――そういうことでしょ?」

桜島さんのお母さんは余裕の表情。桜島さんがほっぺたを膨らませる。

「ち~が~ぅ~。そこら辺もちゃんと説明するから、リビング行こうっ! お父さんも待たせているし」



桜島さんに促されて、リビングに通される。そこには――桜島さんのお父さんがいて、ピリリッとした空気が流れていた。こっ、怖い……なぁ。

「は、初めまして、大明丘鼎と申します。今日はよろしくお願いいたします」

「……桜島礼一郎だ。よろしく」



沈黙が僕らを包んだ。



桜島さんに脇を突かれる。あ、手土産を渡すのを忘れていた。

「えっと、かるかんです。御口に合うと幸いです」

「あら、気を使わせちゃったわね~♪ ありがと」

桜島さんのお父さんに差し出したかるかんを、桜島さんのお母さんが横から受け取った。冷汗が流れる。桜島さんのお母さんのフォローが無かったら、めちゃくちゃ危なかった。



「――まぁ、とりあえず座りなさい」



桜島さんのお父さんに促されて椅子に座る。桜島さんは僕の隣に座った。二人とも自然と背筋が伸びていた。

「お母さんは、お茶淹れてくるわね~」

桜島さんのお母さんが、言ってくれたけれど――

「あのっ、お話があります。お母様も、座って頂けますか?」



お茶やお菓子に手を付ける前に、用件を済ませないといけない。

「お話って、どんな話?」

にっこりとお母さんが微笑んだ。そして僕らの向かい、桜島さんのお父さんの隣に座った。



桜島さんのお父さんを見る。お母さんを見る。そして、口を開く。

「単刀直入に言います。僕達の――生き物飼育部屋を通じた『友達以上、恋人未満の男女交際』をどうか認めて下さい」

あえて僕は男女を入れた。それは覚悟の表明。そして多分、僕の独占欲がそうさせた。桜島さんは、それに気付いたのか気付いていないのか、大きく息を吸い込んだ。



「私さ、鼎と一緒にいる時間が心地良いの。小さい頃から生き物が好きだから、飼育部屋を持ちたいって考えもあったけれど、今は、何よりあの部屋で鼎と一緒に過ごす時間が楽しくて楽しくてたまらないの。だから、お父さん。鼎の部屋に行くことを許して下さい」

何だか心にじんと来た。そのせいか、言葉が素直に出てきてしまう。

「幼稚園の時、沙織さんにキスをしたこと、本当に申し訳ありませんでした」



桜島さんのお父さんが、不思議そうな顔を作る。

「それが、どうかしたのか?」

「はい。今の僕らはあの頃のように無垢な子どもじゃありません。その気になれば、子どもを作る、そういう行為も出来ます」

桜島さんのお父さんが、むっとした表情を浮かべる。



「でも、だからこそ、沙織さんとの今の関係――『友達以上、恋人未満の関係』を長く続けていきたいと考えています」

「それは、どうしてかな? 恋人になりたいとは、思わないのか?」

桜島さんのお父さんの言葉に、首を横に振る。

「思わない――と言ったら嘘になるかも知れません」

桜島さんが「ふわわぁっ!」と小さな声を漏らした。その表情は、隣にいるから見ることは出来ないけれど、何となく想像が出来た。でも、言葉を続ける。



「大学生の僕らは、結婚とかはまだ考えられません。いえ、逆に言えば社会人とは違って『考えなくても良い猶予期間がある』とも言えます。だから、沙織さんとの今の関係を続けることが出来るのは、大学生の今だけです。つまり――だから――えっと――沙織さんの大学生という時間を、必ず大切にしますので、僕らに時間を下さい」



桜島さんのお父さんが、腕を組んだ。

「そうか。学生だから許される中途半端な交際か。――鼎君は、ずるいことを言っているぞ? その自覚はあるのか?」



「……あります。でも、これが今の僕が言える精一杯の言葉です」



「そうか。……『友達以上、恋人未満の関係』そういう関係も大学生のうちなら悪く無い――のかもしれない。一定のルールと一線を越えないことを条件としてな」

桜島さんのお父さんが、初めて苦笑するような小さな笑顔を見せてくれた。そして言葉を続ける。



「最初は、鼎君のことを、もっと単純な馬鹿な奴か、のぼせ上がっている子どもなのかと思っていた。鼎君がそうじゃなくても、うちの娘がそうなのかもしれないとも考えていた。何故なら入学式からまだ三週間しか経っていないのに、両親に挨拶したいだなんて言うのだから。でも、今なら鼎君の言いたいことが分かったよ。直接会うことで、これからの飼育部屋を通した交際を安心して欲しいと、真面目に考えてくれているんだろう?」

「ありがとうございます」

「まだ、話の途中だ。飼育部屋に関することの二人のルールを教えてくれ。親としては心配になる」

口ではそう言っているものの、少し柔らかい声だった。



「えっと、特に決まりはありませんが――合鍵を渡して飼育部屋の半分を桜島さんに使ってもらう代わりに、家賃と水道光熱費の二割を負担してもらうことになっています。あとは、二人で買ったもの――実験機材とか生体とか――は、今のところ半分ずつ費用負担をしています」

「ああ、それは沙織から聞いている。生き物のブリーダーとして個人事業主の届け出を出して、確定申告するのだろう? 何事も挑戦だ。やってみたらいいと思っている」



「ありがとうございます」

「鼎君、他には――」

桜島さんのお父さんの言葉を、桜島さんが遮る。

「お父さん、門限の撤廃と、泊まり込みで実験するのはダメ? これからの季節、夜に採集に行くことや、鼎と採集旅行をしたいなぁって思っているの」

旅行の話は初めて聞いたけれど――思わず桜島さんの顔を二度見してしまったけれど――どストレートの豪速球を桜島さんが投げたことは理解できた。桜島さんのお父さんの顔が再び強張ったから、流石の僕も背筋が凍る。



「無断外泊は許可出来ない」

きっぱりとした声。小さな沈黙。

桜島さんのお父さんは目線を逸らしている。お母さんはにっこりとほほ笑んでいる。桜島さんの顔が明るくなった。その意味が、一瞬遅れて僕にも理解できた。

「――ありがとぅ♪ 門限は撤廃、無断じゃない外泊はOKってことね!?」



「沙織と鼎君を信用している。お父さんが言えるのは、それだけだ」

桜島さんのお母さんが、可笑しそうに小さく噴き出した。

「お母さんからは――間違っても、二人が大学を卒業するまで、お母さんをお祖母ちゃんにするようなコトだけはしないでね? それだけかな。めんどくさがらずに基礎体温とゴムはつけるのよ?」



「とっ、当然よ! 鼎とは、へ、へ、変なことしないわよっ!」

くすりと桜島さんのお父さんとお母さんが笑う。今の桜島さんの返答の様子で、しばらくは問題無いと判断してもらえたみたいだった。桜島さんのお父さんが僕を見る。



「仕方ないから――と言ったら失礼か。鼎君、我儘なうちの娘をよろしく頼むよ」

「我儘だなんて、そんなことないですけれど、確かに頼まれました。信頼を裏切らないように努力します」

「それじゃ、ちょっと早いけれど、晩ご飯食べていくか? 鼎君の話をもっと色々聞きたいし、幼稚園以降の小中高、何をしていたのか聞かせてもらいたいな」

桜島さんのお父さんの瞳は、温かい色をしていた。



  ◇



「良いお父さんとお母さんですね」

「そうだよ。なんだかんだ言っても、私の自慢の両親だから」

暗くなった天井を見上げながら、桜島さんと二人で小さく笑い合う。



「最初は緊張しましたけれど、何だか、ホッとしている僕がいます」

「私も、同じ」

「でもまさか、『泊まっていけ』と言われるとは思いませんでした」

桜島さんが、くすりと笑う。

「お父さん、ああ見えて嬉しかったみたい。お酒も進んでいたし」

「すみません、断り切れずに、パジャマまで借りてしまって……」

「ううん、良いよ」



桜島さんの家の客間で桜島さんとお布団を並べて寝ているのに、今日は何だかよく眠れそうだ。僕の心の奥にある不思議な感情が、満たされているような気がしたから。



ああ、なんというのか――僕は桜島さんといる時間が、好きだ。




(第5話_ベッコウトンボと藺弁田池へ続く)

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