第13話_六月灯(お祭り)の金魚すくい
~六月灯(お祭り)の金魚すくい~
晩ご飯を食べ終わった後に台所で片付けをしていると、桜島さんが僕に話しかけてきた。
「ねぇ、鼎~。今週末の土曜日に六月灯(お祭り)があるのだけれど、一緒に行こ?」
可愛く首を傾げる桜島さん。ご機嫌におねだりする時の顔だった。
そんな顔をされてしまったら、僕に拒否権なんて存在しない。
「六月灯、どこであるんですか?」
「荒木田神社だよ。市電で行けるから、浴衣着てデートしよ?」
浴衣デート。密かに僕がずっと憧れていたシチュエーションの一つ。
嬉しさは顔に出すけれど、恥ずかしいからくすぐったさは顔に出さないように気をつけて返事をする。
「楽しそうですね、僕も浴衣を準備しておきます」
僕の精一杯のポーカーフェイス。でも桜島さんは、くすりと笑って満足げに頷いた。
◇
土曜日の夕方。
僕は桜島さんと一緒に六月灯にやってきていた。
七月の第一週だというのに、夜になったからなのか、神社という空間だからなのか、涼しい風が吹いている。とはいえ、お祭りの開かれている境内に近付いた途端に、人ごみの熱気と喧騒に周りが包まれた。お祭りが始まって三〇分と経っていないのに、もの凄い人出だ。
「鼎、金魚すくいの極意って知っている?」
歩きながら桜島さんが僕に聞いてきた。
「何ですか極意って。僕、金魚すくい下手なんですけれど……」
僕の言葉に、若干得意げな顔をして、桜島さんが熱く話し出す。
「まずはポイ――金魚をすくう紙の輪っか――の表と裏をチェックするの。プラスチックのワクに紙が張ってあるから、ワクの凸がある裏側だと、どうしても内側に水がたまって破れやすくなるの」
「表と裏って――結構、僅かな差しかありませんよ? 一ミリ有るか無いかくらいの。それでも違うんですか?」
「そう、破れやすさが大きく違うの。だからワクに水が溜まらない面を上にしてすくうのよ。他にも、ポイを水に入れる時にもお約束があって、水面にポイを入れる時は斜めに入れて、水中を移動させるときは水面に平行にして動かして、水中から出す時にはポイを水中に入れた時のように斜めにして取り出すの」
「あ、それは知っています。基本ですよね。でも、知っていても案外、簡単に破れちゃいますよね?」
「うん。実はポイには紙の強度が違ういくつかの種類があって、水に入れただけで破れるような脆い紙から、水中で真横に振ってもなかなか破れない丈夫なモノまであるのよ。屋台の人もそれを知っていて、子どもにはそれなりに丈夫なポイをあげたり、大人にはそこそこのポイを渡したり、色々と使い分けているらしいの」
「そうなんですか? でも、子どもには優しい方が良いですね」
僕の言葉に、桜島さんがはにかむ。
「大人と子どもの、どちらにも破れやすいポイを渡す悪徳業者もいるみたいだけれどね。その一方でやっちゃいけないけれど、ポイにサラダオイルをこっそり塗ると破れにくくなる裏技とか、ポイ自体を強度の高いモノに自分でこっそりすり替える反則技もあるらしいわ♪」
桜島さんが悪戯っぽく笑う。その瞳はどこか楽しそう。
「流石に、それはやっちゃダメですよ」
「私もそう思う。良い大人がやったら犯罪だからね――って、何よ、その目は。私、小学生以降はやったこと無いわよ?」
「え? 小学生の時にやったことがあるんですか?」
「……うん。六歳だったけれど、ポイに油を塗ったら、おっちゃんにバレてめっちゃ怒られたのを覚えている」
「それは、何と言うのか、アクティブな子どもでしたね」
「若気のいたりよ。で、話を金魚すくいに戻すけれど――水面に呼吸しにやって来た金魚をワクに乗せるイメージですくうと紙に負担をかけずにすくえるの。素人が上手くすくう裏技はそれくらいしかないわ」
「でも、それってなかなか難しいですよね?」
「だから練習するのよ。問屋を兼ねているようなおもちゃ屋さんで三〇〇個入りのポイが一五〇〇円くらいで買えるから、家で納得いくまで練習することができるの。素晴らしいと思わない?」
「……。その予算で気に入った金魚を――」
僕の言葉を、桜島さんが両手で×を作って遮る。
「こ~らっ、それは言わないの。金魚すくいは三〇〇円くらいのお金でいかに多くの金魚をすくえるのかっていうギャンブル性が面白いのだから!」
「ギャンブル性って……」
「そうでしょ? くじ引きも、型抜きも、射的も、縁日の屋台って全部ギャンブル性が高いわよね? 子どもから小金を巻き上げ――」
「そ、そのくらいにしておきましょう。あっちにいる、屋台のおじさんが怖い顔してこっちを見ていますから」
「あはっ、そうね♪ 聞こえていたみたい」
桜島さんが悪戯っぽく笑う。と、その目線が何かを捉えた。そこにあったのは「金魚すくい」と書かれた屋台の看板。
金魚すくいの屋台の前には人だかりが出来ていて、何やら歓声が上がっている。桜島さんと近付いてそっと覗いてみると、僕がよく知っている――桜島さんは知らない――人物が輪の中心にいた。
朱色や黒色の金魚が、露草の花のように爽やかな藍色の布地に泳いでいる浴衣。長い髪を後ろでまとめていつもよりも大人っぽく見える彼女は、僕がバイト先の学習塾で勉強を教えている成瀬さんだった。
成瀬さんは洗面器一杯に金魚を捕まえていて、その光景をギャラリーが驚愕の混ざった楽しげな表情で見守っている。金魚をすくう度に小さな歓声が上がり、大きな金魚をすくうと大きな歓声が上がる。屋台のおじさんも、「商売あがったりだよ」と言いながらも、愉快そうに笑っている。
成瀬さん、金魚を家の池でたくさん飼っていると言っていたけれど、金魚すくいが上手なんだなぁ――とか思っていたら、横を向いた成瀬さんとばっちり目が合った。
ばしゃり。
成瀬さんの手から洗面器が水槽に落ちて、中に入っていた金魚が逃げて行く。屋台のおじさんが慌てて洗面器を持ち上げるけれど、半分以上逃げてしまった後だった。
「大明丘先生ぃ……」
目線を僕に固定したまま、凍り付いた表情で成瀬さんが呟いた。
「あ、ごめんね、邪魔しちゃって」
なるべく成瀬さんだけに聞こえるように小さな声で言ったつもりだったけれど、やっぱりというか、何と言うのか……ギャラリーの視線が僕に降り注ぐ。屋台のおじさんも僕に非難がこもった目を向ける。
「そうだよ、お兄ちゃん。この子の記録は――」
「あ、良いんですっ! 全部の金魚を持って帰るのは大変でしたから!」
ぱたぱたと手を振って、屋台のおじさんの声を成瀬さんが遮った。そして屋台のおじさんにゆっくりと頭を下げる。
「おじさん、ありがとうございます。もうお終いにするので、洗面器に入っている分を包んでもらって良いですか?」
「これだけで良いのか? おじょうちゃんのポイはまだ破れていないぞ? 金魚も半分以上、逃げてしまったし……」
「はい。良いんです」
にこりと笑ってポイを返した成瀬さんに、屋台のおじさんが頷く。
「分かった。それじゃ、少しおまけしておくか。さっき取ったコイツはおじょうちゃんの分だったからな」
そう言うと、おじさんは水槽の中にいる一番大きな出目金と、その周りで泳いでいた金魚を手網で一すくいして洗面器に追加した。それを合図にしたように、金魚すくいが終わったことを悟った周りのギャラリーが散っていく。
おじさんが金魚を梱包し始めたのを確認してから視線をこっちに向けて、成瀬さんが可愛い笑顔を作った。いつもの悪戯っぽいキラキラした瞳をしているから、油断できない。
「せ~んせい、もし良かったら一緒にお祭り回りませんか?」
後々面倒になるから嫌です。……とストレートには言えない。成瀬さんを傷つけたらまずいから。それに、成瀬さんはいつも通り僕をからかっているだけなのかもしれないし、どんな返事をしたら良いか難しい。
「あ、冗談じゃなくて本気ですよ?」
考えていたことが顔に出ていたのか、成瀬さんが小さく笑う。でも「お祭りで講師と生徒が一緒にいた」とか噂がたったら、お互いにまずい。角が立たないように断ろう。というか成瀬さんには、僕の隣にいる桜島さんが見えていないのだろうか? いや、視えているけれど、あえて一緒に回りたいと言っているのだろうか?
女の子って分からない。
「え~っとさ――」
桜島さん(彼女)がいるから、ごめんね。
そう言おうとした瞬間、僕の隣から声が聞こえた。
「鼎、一緒に回ってあげたら~? 当然、私も付いてくるけれど♪」
そう言いながら、桜島さんがわざとらしく僕の腕に抱き付いてきた。
僕の左腕が幸せな気分。
成瀬さんの顔が引きつった状態で固まる。……あっ、この反応、桜島さんに気付いていなかったパターンだ。
「桜島さん、僕の生徒の前で変なことをしないで下さい」
やんわりと桜島さんを引きはがす。中学生を相手に、何を嫉妬しているのだろう。いや、桜島さんは僕と成瀬さんをからかっているだけか。
「あ、やっぱり鼎の教え子だったんだ?」
悪びれた様子もなく、桜島さんが笑う。……けれど、目が笑っていなかった。前言撤回。えっと、何というか、何で大人げなく子ども相手に嫉妬しているんですか?
「あの、大明丘先生。私、一人で回りますから大丈夫です」
桜島さんに威嚇されたことで気を使ったのだろう。成瀬さんが苦笑いを浮かべる。そしてそのまま小さく手を振って離れて行こうとした瞬間、屋台のおじさんが成瀬さんに声をかけた。
「おじょうちゃん、金魚忘れているよ!」
「あっ、そうでした」
笑顔で振り向いた成瀬さんの視線の先、屋台のおじさんの手元には、金魚と酸素の入った大きな袋――六〇センチ×三〇センチ×三六センチの水槽くらいありそうな袋――があった。それを抱えるようにして成瀬さんが受け取る。でも、渡された袋に持ち手が無いからか、その表情はどこか戸惑っている。
その様子に、仕方ないなぁといった表情で桜島さんが小さく噴き出した。
「もう、女の子がそんな大きな荷物を持って、一人でお祭りを回るつもり? まだお祭りは始まったばかりだし、何も買えないし、とっても目立つし、大変よ?」
「それは、あのですね、今日、一緒に回る予定だった友達が夏風邪で動けなくて……なので金魚すくいだけしたら帰るつもりで――」
成瀬さんが困ったように話すのを見て、桜島さんが小さな子どもを見るような優しい視線で――実際、成瀬さんは子どもなのだけれど――笑顔を作る。さっきまでの嫉妬は必要ないと思ったのか、今では微塵も感じない。
「しょうがないわね。せっかくのお祭りを金魚すくいだけで帰るなんて勿体無いし、私達と一緒に回ることにしましょ? 金魚は鼎に持ってもらいなさい」
「い、良いんですか? 私、二人のお邪魔じゃ――」
「良いのよ。でも、鼎は私のモノだから、そこだけは間違えないように♪」
どこか自慢げな桜島さんの言葉に、成瀬さんが頷く。
「はいっ♪」
「私は桜島沙織。貴女の名前を教えてよ?」
「成長の『成』と、信頼の頼にさんずいをつけた『瀬』って書いて、『成瀬』です」
「信頼の頼にさんずい、覚えやすいわね。成瀬ちゃんって呼ばせてもらうわ。私のことは好きに呼んで」
「はい、桜島先生」
桜島さんが苦笑いを浮かべる。
「先生はちょっとアレだから……好きに呼んでって言ったけれど、やっぱり『沙織お姉さん』って呼んでもらって良いかな?」
桜島さんの言葉に、あっという表情を作ってから成瀬さんが頷いた。
「はい、沙織お姉さん」
「よろしい。それじゃ、一緒に行きましょ♪ 金魚は鼎に持たせなさいな」
「大明丘先生、金魚、お願いできますか?」
悪戯っぽい表情で成瀬さんが聞いてきた。桜島さんの手前、断ることは出来ないんだろうな。
「鼎、どうしたの? 早く金魚を持って、屋台をめぐるわよ?」
うん、やっぱり断るという選択肢は無いのだろう。
教え子と一緒にお祭りを回るのは不味いけれど、桜島さんと一緒だから、まぁ、大丈夫かな――と考えることにした。
◇
「そっか~、今どきの中学一年生も大変なのね~」
気が付くと桜島さんと成瀬さんは仲良く二人でおしゃべりをしていた。その手には、屋台で買った袋入りの綿あめ一つと三人分の焼きそば。人ごみのせいもあるのだろうけれど、二人のパーソナルスペースは姉妹のように近くなっている。
「で、鼎は、普段はどんな先生なの?」
僕は二人の後ろを歩いているから表情は見えないのだけれど、興味津々な声で桜島さんが成瀬さんに聞いている。腕を組んで小さく考えるような仕草をした後に、成瀬さんが言葉を発した。
「良い先生です。授業も分かりやすいし、時々面白いし、みんなに優しいし――何よりも、女子に人気があります♪ そうですよね?」
成瀬さんが振り向いた。女子に人気があるのは嘘です――と言おうとした瞬間、ふふんっと自慢げな色を滲ませながら桜島さんが小さく笑って、僕に笑顔を向けた。
「だってさ、鼎。良かったね♪」
「桜島さんも一緒になって僕をからかわないで下さいよ」
「え~、良いじゃん? で、成瀬ちゃんも私の鼎のことが好きなの?」
「えっ? わ、私ですか……?」
成瀬さんが言葉を詰まらせた。……。何と言うか、僕の方としては好かれているつもりだったけれど「無言=そんなに好きじゃない」という意思表示だろうから、ちょっと傷付く。
「鼎、良かったね」
桜島さんが的外れなことを言って笑う。
一瞬生まれた沈黙が気まずいな、と思った瞬間――
「……はい、私、先生のことが大好きですよ」
意外な言葉が成瀬さんから返って来た。頬を赤らめて、潤んだ瞳で、声が震えていた。
もしも僕が初対面だったら、いつもの成瀬さんの行動を知らなかったら、誤解していたかもしれない反応だ。でも、ロリコンじゃないから対象外。ここは異性という意味じゃなくて、一人の人間として返事をしておこう。
「ありがとうございます。僕も異性としてじゃなくて、人間として成瀬さんのことが好きですよ。少し悪戯されるのは困りますが」
「あっ、先生。私、真剣なんだからね? 本当だよ?」
少し焦ったような成瀬さんの反応が面白かったのだろう、桜島さんが小さく噴き出す。
「鼎は愛されているね~。嫉妬しちゃうかも。でも、成瀬ちゃんが可愛いから許すっ!」
にこにこしながら、桜島さんが成瀬さんの頭を撫でた。
「あははっ、ありがとうございます、沙織お姉さん♪」
そう言うと、二人は顔を見合せて笑い合った。この二人、本当に仲が良い。
◇
「鼎、ちょっとお花を摘みに行ってくるから、ここで待っていてくれる?」
「あ、私もいきます」
そう言って桜島さんと成瀬さんがトイレに向かったのは少し前。お祭りのトイレって大抵行列が出来ているから帰ってくるまでにはまだ時間がかかるだろう。
休憩席に座りながら、流れる人混みを眺めていると――
「あれ、大明丘せんせい?」
「せんせぃ~♪」
「先生、金魚の大きな袋を抱えて、一人で何を黄昏ているんですか?」
中学三年生の「かしまし三人娘」が話しかけてきた。名前は、東と西と南。北がいれば完璧だけれど、幸か不幸か北はいない。
三人とも浴衣姿でその手には屋台の戦利品が握られている。「三人とも中学生なのに、子ども向けアニメのお面を後ろ向きとはいえ頭にかぶるのは、止めておいた方がいいんじゃないですか?」とか突っ込む前に話しかけられた。
「先生、一人でお祭りに来たんですか?」
「いや、彼女と一緒に――」
僕の言葉を西が人差し指をビシッと僕に向けて遮る。
「う~そ~だ~ぁ~。うそついちゃ~、いけないんだよぉ~」
「そうそう。大明丘せんせいには彼女なんて出来ないから」
淡々とした声。西と東は失礼なやつだな。なんて思ったけれど、顔には出さない。
「嘘じゃないですよ。今、お花を摘みに行っているから、こうして一人で待っているんです」
「えぇ~」「ふぅ~ん」「そうなんですか?」
「あ、三人ともそんな目をしないで下さい。僕の言うこと、信じていないですよね?」
三人娘が笑いながら頷く。
「うん、信じていないよ」
「先生には彼女なんて無理です。エアー彼女なんですよね?」
「くうきよめ~」
ちょっと傷付いたけれど、ここで「君達が空気読んで下さい」とは言えない。
「ねぇ~、ねぇ~、せんせぃ~♪」
「一人で暇しているなら、せんせいも私達と一緒に回ろ?」
「私達のお財布決定ですけれど♪」
三人娘が獲物を見つけた肉食獣のような瞳で僕を見た。
その瞬間に、タイミング悪く成瀬さんが帰ってくる。
「大明丘先生、お待たせしました♪ ――って、あれ?」
僕のすぐ隣にやって来てから、三人娘に初めて気付いた様子。これは――
「え~、せんせぃの彼女って~、中学生~!?」
「教え子に手を出しちゃダメですよ♪」
「確か、貴女はうちの塾に通う一年生の子ですよね?」
三人娘の反応に、成瀬さんが大きな目をぱちぱちとさせて、両手をぶんぶんと交差させた。
「い、い、いえ、私は大明丘先生の彼女じゃないですっ!」
「そうですよ、僕と成瀬さんは、たまたまお祭りで出会っただけです」
小さな沈黙が僕らを包んだ。成瀬さんは、緊急事態を作ってしまった原因が自分だという表情で、泣きそうな顔になっている。
「ふ~ん、そりゃ~『付き合っている』なんて~、言えないよ~」
「ロリコン、ダメ、絶対!」
「……懲戒免職ですか? 依願退職ですか?」
三人娘の生温かい視線と、からかうような視線と、鋭くて冷たい視線のせいで、なんだか胃が痛い気がする。
「いえ、本当に違うんです!」
成瀬さんが必死な声で言うけれど、三人娘は軽く頷くだけ。
「だから、私と大明丘先生は――」
「「「うんうん」」」
「お付き合いはしていなくて、それに、大明丘先生には沙織お姉さんという美人で優しい彼女さんがいて――」
「そうなんだ?」「そ~なのぉ~?」「そうですか?」
「はい、そうなんです。分かってもらえて――」
「「「エアー彼女が他にいて、今日は偶然、手を握ったり、キスしちゃったりするつもりと?」」」
「ち、違ぅ……ぃます!」
成瀬さんが頑張って否定すればするほど、「分かっているよ」という生暖かい表情で三人娘が頷く。変な噂を流すような子達じゃないと思うけれど、バイト先(貴重な収入源)を懲戒免職や自主退職になることはちょっと避けたい。……さて、どうするか?
――って思ったけれど、すぐに簡単な解決方法を思い付いた。
顔を真っ赤にして涙目になっている成瀬さんの頭をポンポンと軽く叩いてなぐさめてから、驚いたような表情をした三人娘に向けて言葉を発する。僕と成瀬さんがスキンシップを取ることが予想外だったっぽい。
「えっと、三人とも聞いてくれますか? あともう少ししたら本当の彼女が――桜島さんというのですけれど――戻って来るので、それで成瀬さんの話が本当だってことを分かってもらえると思うんです」
「……良いの? 先生」「い~んですか~?」「大丈夫ですか?」
三人娘に不思議そうな顔をされてしまった。どういう意味だろう?
「待ってもらえると嬉しいですけれど……どうかしましたか?」
「いや~、だって~」
「ここで私達が待っていたら」
「本当の彼女さんが来ないと、先生はロリコン確定ですよ? 妄想彼女とか、空気彼女じゃ無いんですか?」
思わずため息が出る。
「……大丈夫ですから。少しだけ待っていて下さい」
何と言うのか、三人娘の妄想のせいで、頭も痛くなってきた。
◇
桜島さんを待っている三人が手持ちぶさたな様子だったから、リクエストを聞いて南と西に近くの屋台にりんご飴と焼きイカを買わせに行く。二人が仲良く帰って来てから、受験に向けた話を三人娘と成瀬さんがしているのを隣で聞いていると――
「鼎~、ハーレム状態じゃない? 教え子さんかしら?」
声がした方を向くと、桜島さんが若干唇を尖らせながら帰って来ていた。でも、これは怒っている顔じゃない。僕をからかっている時の顔だった。
「桜島さん、お帰りなさい」「沙織お姉さん、遅いです」
僕と成瀬さんの言葉が重なる。
三人娘が静かだ。横を見ると、三人娘は固まっていた。
「ん? そっちの三人はどうかしたの?」
桜島さんが、三人娘の隠そうとしない視線に、苦笑いを浮かべながら聞く。
あ、三人娘が動きだした。
「え~っと、本当に~、せんせぃの~、彼女さんなんですか~?」
西の言葉に桜島さんが頷く。
「そうだけれど?」
「嘘だとか、夢だとか、幻覚を共有しているとか、一日だけのレンタル彼女だとか、本当は姉妹さんだとか、しませんよね?」
珍しく早口な南の言葉に、桜島さんが不思議そうな顔をしてはにかむ。
「あはは……残念ながら、鼎の本物の彼女だよ?」
くるりっと三人娘が僕の方を見て、非難がましい視線を送ってくる。
「先生、彼女さんが綺麗過ぎます! どこでこんな人を見つけて来たんですか!」
「反則! 反則! 反則ですっ!」
「せんせぃの~、くせに~、生意気~っ!」
「くせに、とか言うのは止めて下さいよ」
僕の言葉に、桜島さんが苦笑する。
「鼎、教え子さんに愛されているのね」
「舐められている、とも言えますが」
「南さん、そう言うことは言わないでね?」
僕の言葉に、三人娘が反応する。
「舐められているのは、事実ですよ?」
「舐められるの、嬉しいんでしょ?」
「なめ~、なめ~、なめ~」
桜島さんが噴き出した。でも、僕が女の子と仲良くじゃれているのが少し不満なのか、目だけが微妙な視線で僕を見ている。とりあえず、この話はここで終わりにしておこう。
「嫌われるよりかは嬉しいですけれど、あんまりひどいと僕でも怒りますよ?」
三人娘の表情が変わる。
「うぇぇ、先生には怒られたくない」
「私も~、私も~」
「彼女さん、綺麗です……」
中学生はやっぱりというか、まだ子どもっぽいところがある。こういう素直なところが嫌いじゃ無い。それは桜島さんも同じだったらしい。桜島さんは、くすりっと小さく笑うと口を開いた。
「ねぇ、良かったら貴女達三人も一緒にお祭りまわらない? 先生をしている鼎って、どんな感じか知りたいのだけれど」
「良いんですか!?」「い~んですか~?」「本当ですか?」
「もち」
「屋台は先生のおごり?」
好奇心に満ちた瞳で東が僕に聞いてきた。全力で否定しようとしたところに、桜島さんが言葉をはさむ。
「当たり前よ♪」
「ちょ、桜島さん――」
「鼎、一人一〇〇〇円までなら、おごりで良いでしょ? 三人とも、それで良い?」
「や~り~ぃ~♪」「OKです」「お願いします」
三人娘の言葉が重なると同時に、桜島さんが笑顔になる。
「それじゃ、屋台めぐりをしましょうか♪」
……ちょっと桜島さん。僕の非難の視線は無視ですか。
◇
成瀬さんが年上の三人娘(先輩)相手に最初少し緊張しているみたいだったけれど、フレンドリーな三人娘にすぐになじんだ様子だった。塾や学校のことを話しつつ屋台を一通り歩きまわった後に、三人娘の提案で花火が良く見えるという場所に移動することになった。
歩くたびに祭りの喧騒が遠ざかって行き――たどり着いたのは、高級そうな高層マンションの前。
僕の右手の腕時計の針は午後一九時四五分を指していた。花火が上がるのは午後二〇時から。
「着きました。ここの屋上が穴場なんです」
南がにこっと微笑む。
「屋上って――勝手に入って良いんですか?」
僕の言葉に、西が笑う。
「良い~、良い~。だってここ~、私の家があるマンションだから~」
「私と東と西の三人で一緒にここで見るつもりでしたので、先生や沙織お姉さんや成瀬さんが増えても大丈夫です」
「ってことだから、行こ行こ♪」
東に背中を押されてエントランスを抜けて、エレベーターで屋上に上がる。芝生が植わっていて、ちょっとした屋上庭園が広がっていた。暗いから良く見えないけれど、マンションに住んでいる人達だろう、いくつかの人影がぽつりぽつりと闇の中に浮かんでいる。
「ここから~、良く見えるんだよ~?」
「そうですよ、神社の木が邪魔しないですし」
西と南が得意げな表情で言った。その隣で東もどこか自慢げな顔をしている。
「花火の開始時間まで、あと一〇分くらい有るよ?」
東の言葉に、西が反応する。
「買って来た~、たこ焼きでも食べて~、待っていよ~?」
◇
屋上のテーブル付きベンチに腰掛けて、六人分のたこ焼きを広げる。
綿あめ、焼きそば、お好み焼き、フランクフルト、焼きイカ、りんご飴、とうもろこし……成瀬さんも桜島さんも散々屋台で食べていたはずなのに、たこ焼きを美味しそうに食べ始めた。
どこか幸せな温かい時間。桜島さんが、優しいお姉さんをしている光景は結構レアだ。
「ねぇ~、せんせぃ~? 今~、良いかなぁ~?」
あったかい目で桜島さんを見ていたせいだろうと思う。唐突に横から西に聞かれてしまった。多分、お祖父ちゃんみたいな目をしていたとか言われて、からかわれるのだろう。覚悟しよう。
「良いですけれど、どうかしました?」
なるべく、自然になるように声を調整した。
にこりっと西が笑う。
「ぶっちゃけると~、私~、せんせぃのことが大好きだったんだ~♪」
「え? 西さん?」
「そもそも~、こんな美人の彼女さんがいるなんて知らなかったし~、彼女がいるっていう噂も冗談だと思っていたし~、高校生になって塾をやめたら~、せんせぃに告白しようと思っていたし~、あははは~、大失恋しちゃった~♪」
いつもの調子で冗談っぽく言って笑っているけれど、その瞳だけは真剣だった。
戸惑いが大きくて何も言葉を返せない。僕以外の人間も、突然の西の告白に困惑している雰囲気だ。
しめっぽい空気と沈黙が僕らを包みそうになった瞬間、西が口を開く。
「――ってことで~、この中でせんせぃのことが好きな人は~、正直に白状してふっ切りなさい~♪」
すちゃりと桜島さんが手を伸ばす。……えっ、ふっ切っちゃうのですか?
「私は鼎のこと好きよ? ふっ切るつもりはないけれど♪」
僕の表情が面白かったのか、笑いながら桜島さんが言った。他のみんなも笑って、格段に空気が柔らかくなるのを感じた。
「でもねぇ~、これだけなはず無いでしょ~? 私~、知っているんだからね~?」
そう言って西がぐるりとまわりを見回す。
「東と南は~、せんせぃのこと~、好きじゃ無いの~?」
「ちょ、今、それを言う? 内緒にしていてって言ったじゃない!」「私は、別に? です」
「あはは~、東も南もせんせぃのこと好きなんだから~、気持ちを伝えて~、ふっ切っちゃった方がいいよ~?」
西の言葉に、東が上目使いで僕を睨む。
「う~、せんせい、大好きです」
「あ、ありがとう」
いつの間にかの告白大会。年下の対象外とはいえ、正面から女の子に好きと言われるのはくすぐったい。何と返事を返したら良いのか困ってしまう。僕が言葉を選んでいる間に、西が南に話しかけた。
「南は~? せんせぃのこと~、好きじゃなかったっけ~?」
「……。私は嫌いです」
じとっとした冷たい視線で南に睨まれてしまった。南が口を開く。
「だって、女の子の気持ちに全然気付かない鈍感ですから。それに、ライバルが多い人を、私は元々狙わないのです。事実、友情に生きてきたでしょう?」
南の言葉に西が笑う。
「あ~、南は歪んでるぅ~」
「歪んでないです。だから、先生のこと嫌いなのは、正当なことなのです」
じろりと南が僕を睨みながら言った。でも、今にも泣きそうな視線は、その言葉が嘘だと隠し切れていない。何と言ったらいいのか迷うけれど、目線だけは逸らしちゃ駄目だと思った。
「……嫌わないでいてもらえると、少し嬉しいです」
僕の言葉に、じっとこちらを見つめたままの南が、ゆっくりと口を開く。
「分かりました。嫌わないでおきますので、何も聞かなかったことにして、これからも同じように接して下さい」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
僕と南のやりとりが終わったのを確認して、西が口を開いた。
「成瀬さんは~、聞かなくても~、分かるか~♪」
「分かる」「分かります」
三人娘の言葉に、成瀬さんの顔が薄暗い闇の中で赤く染まったような気がした。
「ちょ、先輩、それは……」
「今回は~、残念だったね~、でも~、残念な者同士で慰め合おうね~」
◇
五分くらい経ったと思う。「女子だけで話をするから、鼎はあっちに行っていて」と桜島さんに言われたから、四人が座っているテーブルから離れて一人で屋上のフェンス越しにお祭りの人ごみを眺めていたのだけれど――桜島さんが、スキップをするようなうきうきした雰囲気で僕に近付いてきた。その後ろには、期待に満ちた表情の三人娘と成瀬さん。
僕はそんなに鋭い人間じゃないけれど、何と言うのか、嫌な予感しかしない。女の子だけで何の悪だくみを考えてきたのだろうか?
「ねぇ鼎、私のこと好き?」
ほら、やっぱり。うるうるした瞳でわざとらしく桜島さんが聞いて来た。周りの少女達も期待の眼差しをこちらに向けている。
面白がっているという表現がぴったりくる。この流れは多分、誤魔化せない。
「私のことが好きなら、ここでいつもみたいにキスして♪」
……。僕の予想の斜め上の言葉に、思考が一瞬止まってしまった。
「いや、いやいや、ダメですよ。生徒の前ですし、そもそも――」
それ以上は言葉に出来ない。「僕達、幼稚園の卒業式以来、キスしたこと有りませんよね?」とか、他人の前じゃ恥ずかしくて口にしたくない。
でも、桜島さんは引かない。
「ねぇ、鼎?」
首をかしげておねだりしてくる艶っぽい表情の桜島さん。可愛かった。いや、可愛過ぎた。……でも、周りを見てみると三人娘と成瀬さんの四人が興味津々な顔でこっちを凝視している。成瀬さんは両手を顔に当てて――お約束通り、指の隙間からガン見しているけれど。
そんな周りの状況を把握しながらも、なんとなく、引けないなぁと思った。
覚悟を決める。いつか、桜島さんとキスすることは分かっていたから。でも、こういうシュチエーションは少し不本意。
桜島さんの後頭部にそっと手を回す。柔らかくてしなやかな髪。手櫛を通すと満足げに桜島さんの口元がほころんだ。ゆっくりと目を閉じる桜島さんに、影を重ねるように顔を近づける。そして――
◇
目を開けて桜島さんから顔を離す。
「鼎~、なんで『おでこ』なの? 私は唇が良かったのに!」
不満そうな声を上げた桜島さんと目線がぶつかった。軽く拗ねた口元が可愛い。
「桜島さん、大人なんですから自重しましょうよ。中学生の前では、これが限界です」
「ぶ~、いくじなし」
そう言いながらも桜島さんが笑う。そして言葉を続ける。
「今日のところはコレで許してあげるわ♪」
桜島さんが僕に抱き付いて、ほっぺたにキスをした。
「ねぇ、四人とも。分かっているよね? 私がここまでしてあげた理由」
桜島さんが、三人娘と成瀬さんに問いかける。
「分かっていますって。私達、先生のことが好きだから――少し嫉妬しちゃったけれど、おかげさまで完全に吹っ切れたし――今日のことは誰にも話しません」
「そうそう~、ふっ切れた~。良いモノ見せてもらったし~♪」
「私もです。先生の特別講習は、私達だけの秘密です♪」
「私からも、鼎にありがとうと言わせてもらうわ」
にっこりと桜島さんが笑って、三人娘も成瀬さんも笑顔になった。
「それじゃ、花火を楽しみましょ?」
桜島さんが優しく微笑んだ瞬間、ドガンと大きな音を立てて一発目の花火が打ちあがった。
◇
「金魚すくいの金魚って、すぐ死んじゃうイメージあるじゃん?」
「長生きは~、しないよねぇ~」
「でも、一匹だけ変に生き残って巨大化したりするの」
花火を見ながら東と西がそんな会話をしていた。
「そぅ~、そぅ~。でも~、どうせなら何匹か一緒に生きてくれたらいいのに~。――ねぇ~、金魚すくいの金魚を長生きさせるコツとかってあるの~?」
西の言葉と同時に、東と南の視線が僕に集まる。でも、質問に応じたのは成瀬さんだった。
「先輩、ありますよ? 水合わせを慎重にすることと、最初は餌をかなり少なめにすることがコツです。他には、最初だけでも、なるべく大きな水槽やたらいで飼ってあげると水質が悪化しないので生存率がアップします。あと、基本的に屋台ですくう時点で弱っている個体もいるから、ふらふらしている金魚は、いくらすくいやすそうでも止めておく勇気が大切です」
すらすらと言葉を紡いだ成瀬さんに少し驚いた表情の三人娘。でも、好奇心が勝ったのか、西が口を開く。
「そうなんだ~。で~、『水合わせ』って何~?」
「水合わせって言うのは、『魚を水槽の水にゆっくり慣れさせる作業』のことです。人間だって、暑い部屋からいきなりエアコンの効いた寒い部屋に入ると風邪をひきそうになりますし、温度差が極端な場合、冬場のお風呂みたいにショック死してしまうことすらありますよね? 金魚も一緒なんです。ゆっくりと水温やPHを合わせてあげないと、弱ったり死んだりしてしまうんです」
「あ~、思い当たるよ~。今まで金魚すくいをやってきたら~、そのまま水道水に~、ぽちゃんと入れていたから~。んで~、翌日には~、ぷかりと浮いているの~」
西が大きく頷くのと同時に、東も口を開く。
「私も。入れた瞬間は、ガンガン壁にぶつかるくらい元気に金魚は泳ぎ回るんだけれど……次の日には、ダメになっちゃうのよね」
「東先輩、それ、ショック状態で暴れているだけですよ?」
「え?」「マジで~?」
東と西の驚いた声に、成瀬さんが頷く。
「はい。……っていうか、先輩達は生き物を飼う時に、図鑑やインターネットで調べたりしないんですか?」
「あはは~、適当だったよ~」
「私も」
「めっ、です。金魚は、手間をかければかけただけ、応えてくれるんですよ♪」
「本当に~? 冗談じゃ~、なくて~?」
「はい。水換えをしっかりしたら発色が良くなりますし、良い餌を使ったら色が濃くなりますし、他にも――」
「ちょ、ちょっと待った。成瀬さんが金魚が好きなのは分かったけれど、一度に言われても私達は分からないよ。簡単にまとめるとどういうこと?」
苦笑いを浮かべながら東が成瀬さんの言葉を遮った。夢中になっていた自分に気付いて恥ずかしくなったのだろう、ほんのりと成瀬さんの顔が赤く染まっている。
「す、すみません。まとめるなら、『基本を押さえた上で金魚を飼うのはとても楽しいです』ってことを言いたかったんだと思います」
「ふぅ~ん。それじゃぁさ、折角今日は成瀬ちゃんと仲良くなれたのだし、金魚の飼育も面白そうだし、私達も金魚すくいをして帰ろうっか♪」
◇
「……む、難しかった」
「何か~、反則っ~。絶対~、何か裏で仕掛けてあるぅ~」
「不覚です」
三回チャレンジしたにもかかわらず、一匹も金魚をすくえなかった三人娘がさっきからぶつぶつ文句を呟いている。
「おまけとして全員、好きな金魚を貰えたじゃないですか。それで良しとしましょうよ?」
僕の言葉に、三人娘がしぶしぶ頷く。とはいえ、手に持っている金魚達はお気に入りになれたみたいで、三人ともなるべく揺らさないよう大事そうに持っていた。
◇
三人娘や成瀬さんと神社の鳥居で別れて、家に帰りついたのは午後九時半過ぎ。混雑していて二本電車に乗れなかったせいで、思ったよりも時間がかかってしまった。とはいえ、お祭りを満喫した心地よい疲労感がまだ残っていて、どこか嬉しい僕がいる。
そんなことを考えながら、三人娘と一緒にチャレンジして金魚すくいの屋台のおじさんにもらった金魚――黒出目金二匹と朱文金三匹の計五匹――を水槽に入れる準備をする。
バケツに入れた塩水で薬浴をさせるには、水三リットルに対して荒塩三〇グラム程度が適当。三〇分くらい薬浴に時間がかけるから、その間に水槽の用意をする。どの水槽にするか迷ったけれど、金魚が小さいから四五センチ水槽で飼うことにした。
水槽には大磯砂と水草が入って水回しがしてあるから、アナカリスだけを残して他の水草を別の水槽に移動させる。ウォータースプライトは残しても良いかなと思ったけれど、金魚に食い散らかされると管理が面倒になりそうだったから、全て取り出すことにした。
◇
お風呂上がり。金魚の薬浴を終えてから、水槽に放す。網から自由になった金魚はすいすいと水槽の中を泳いでいる。
「うん、大丈夫そうかな」「元気そうね♪」
かがんでいる僕を上から見下ろすような桜島さんと目線が合った。次の瞬間――
「鼎、今日はありがと」
桜島さんがふわりと僕を抱きしめて、そっと額にキスをしてきた。
心臓がバクバクする。桜島さんの胸が当たっている――のは、気合いで気付かなかったことにしよう。
すぐに桜島さんは離れて、小さく「えへへっ」と可愛く笑った後に、背中を向けた。
「おやすみっ♪ 先にお布団に入っているね!」
固まっていた僕の耳に、桜島さんの声が聞こえた。
「おやすみなさい、桜島さん」
何とか言葉を返して――今日も桜島さんに振り回されてしまったなと、少し身体の力が抜けるのを感じる。水槽部屋のソファーに座って、ちょっぴり幸せな気分を一人で噛みしめる。
額に残った唇の感触は、とても熱く残っていて当分消えそうに無かった。
(SS_成瀬さん編_金魚と帰宅へ続く)




