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アネモネは風に乗って

作者: 文月

 ——わたしね、竜騎士になるの。レンと一緒に、この竜の国を守るのよ。


 いつか、銀の髪の少女はそう言った。絹のように美しく艶やかなそれを風になびかせ、確かに笑っていた。目を細め、将来を見据えるかのように遠くを見るその顔は、未来が早くして途切れることなど疑いもしていなかった。



「こんにちはー、アレスさん」

 雑草を踏む足音と、澄んだ幼い声にアレスは作業していた手を止めた。顔をあげ、見慣れた姿を確認する。

 昼下がりのころ、丘の上の小屋に姿を見せたのは、齢十三になったばかりの少女だった。赤い髪と空色の瞳が印象的な、小柄な女の子だ。一年ほど前にアレスの元を訪れて以来、定期的にやってくるようになった。

「マイア。また来たな」

 アレスの憎まれ口に、マイアは白い歯を見せる。

「せっかくアドニスたちに気を許してもらえたんだもん。竜って気難しいんでしょ?」

 アレスはただ軽く肩をすくめてみせてから、右を指差した。小屋に隣接した、彼の粗末な家がある方向だった。

「ミルクを温めておいたから。勝手に飲むといいよ」

「いつもありがとう! いただきます!」

 弾んだ声で遠慮なしに家に向かった少女に微苦笑をこぼし、青年は作業を再開した。日差しの差し込む小屋の中、乾燥した空気に再び藁とゴミをかき集める音が響き始める。


 アレスは竜専門のトレーナーだ。健康管理をしながら、育成、訓練を行う。一時期、品種改良や故意に繁殖させる試みもあったが、不自然な種を残すことになる、生き物本来の性質を変えてしまう、あるいは生態系の崩壊の可能性などが問題視され、現在ではあらゆる生き物のそのような行為は禁止されている。一部例外として絶滅危惧種の繁殖はされているが、これ以外は発見され次第処罰が課せられる。

 アレスは約二年前に生まれ故郷を離れこの地に越してきた。トレーナーの免許をほぼ同時期に習得し、今は竜の相棒であるダイモンと、その伴侶のレンと共に生活している。現在はダイモンとレンの子どもであるアドニスの育成中だ。生まれてからの約三ヶ月半で気付いたことといえば、アドニスはやんちゃで好奇心と食欲が旺盛だということ。竜特有の警戒心は相応にあるが、一度気を許せばなんでも信じてしまう単純さもある。

 一般的に竜に心を開いてもらえるまで最低でも半年はかかると言われているが、アドニスの場合大体二ヶ月ほどだった。もっとも、両親の存在が大きかったのだろうが。ダイモンとレンの幼少期を知らない分、これからどちらに似るのか気になるところだと、アレスは思う。

 アレスが竜小屋での作業を続けていると、マイアが軽い足取りで再び小屋に入ってきた。一息つけたらしかった。

「アレスさん、ミルクご馳走さま! なにか手伝ってもいい? 一回ゴミ捨ててくる?」

「ああ、そうだな。ついでにあいつらの様子も見てきてくれると助かるよ」

 はーい、と残して、手押し車を押してセミロングの髪を揺らし外へ向かったマイア。明るい表情とは裏腹に、彼女の心にも影が落とす経験があったことを、アレスは知っている。



 初めて彼女がアレスの家へやってきた時、それはひどい顔をしていた。とても暗い色を瞳に宿していて、怯えた表情をしていた。見知らぬ少女の唐突な来訪に困惑しながらも、アレスは彼女を家にあがらせた。

 温めたミルクに蜂蜜を溶かしたものを出した。それから、少女にアレスは用件を問うと、わずかに間を置いてから少女は俯いてぽつりと言った。

 ——竜のウロコが欲しいんです、一枚でいいんです。

「……なにか事情があるみたいだけど、話してくれる気は、ない? 竜にとって、ウロコは身を守る鎧だから……」

 そこまで言って、アレスは後悔した。

 少女の両の瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ始めたのだ。事情を把握していないとはいえ、相手は子どもだ。しかも、ただならぬ理由があるらしい。気遣いが足らなかったと、アレスは頭を抱えそうになった。それもつかの間、少女は続けた。

「ウロコ、を……持って、いけば、もう、いじめられないんです……」

 言葉につかえながらの告白に、アレスは耳を疑った。

「いじめ……」

 ——ということは、恐らくやめるよう願い出たのだろう。すると、相手はその要件を飲むために竜のウロコを持ってこいと、そう指示したのだろう。あるいは、それを持ってくればやめてやると、相手から申し出たか。

 いじめ以外の可能性もあったが、少女からゆっくりと話み聞いて、嘘はついていないと、そう印象を受けた。彼女の話す内容に矛盾点はないように感じ、また両親はどんな人物かというアレスの質問には、不思議そうな表情を見せた。だから、おそらく彼女の話した通りなのだろう。

「わかった……少し待っててくれ」

 アレスは席を立ち、外へ出て相棒を呼んだ。間もなくして、遠くから翼を羽ばたかせる音が響くようになったかと思うと、あたりがふっと陰る。空を仰ぐと、巨大な一対の翼を広げた黒竜——ダイモンの姿がそこにあった。竜はゆっくりと青々とした草原の上へ着陸する。

 ダイモンは屈強な体の、オスの竜だ。そろそろ二百歳になる。散歩を兼ねた見回りの途中だったのだが、青い目を細め、わざわざ中断させるとは何事だとばかりに彼は小さな鳴き声をあげた。

「お客さまが、ウロコを一枚欲しいんだって」

 アレスが告げると、ダイモンは訝しげな表情で家の中を覗き見た。その双眸が小柄な人間の子どもを捕らえたようで、目を細めしばらく見つめていた。が、ふと前足を持ち上げ首元に爪を当てると、掻くような仕草をした。一拍遅れて、一欠片の黒い物がこぼれ落ちる。アレスはそれを拾い上げて掌に収めると、じっくりと確認した。

 それは紛れもなく竜であるダイモンのウロコだった。硬く細かな擦り切れがある。見た目には脆そうなため、いずれは剥がれ落ちてしまう一枚だったのだろう。そろそろと歩み寄ってきて背後に隠れた少女に、アレスはそれを手渡した。

「こいつは俺のパートナーのダイモン。少し愛想は悪いが面倒見のいい奴だよ。ウロコについては、ダイモンも了承済みだ。……だけど、気をつけて。ウロコをどこで見つけたのかと聞かれたら、落ちていたのを偶然見つけたと言うんだよ」

「ありがとうございます……! だけど、どうしてあなたに貰ったって言っちゃダメなんですか?」

「竜から取れるものは高値で売れるのは知ってるだろう? もしかしたらと思って多くの人がくるようになってしまったら、俺たちはここにはいられなくなるんだ」

「はい……あっ、でも、それじゃあこれも貰っちゃいけないんじゃ……」

 胸に抱くように持っていたウロコと青年を交互に見て、不安気な声を上げた少女に、アレスは苦笑した。

「竜は一生の間に一度だけ、ウロコが一切に生え変わるんだ。子どもから、大人になる時にね。ダイモンと……もう一匹レンっていう竜もいるんだけど、二匹ともちょうどその時期なんだ。多分、そのあたりにもいくらか落ちてるんじゃないかな。だから、それを拾ったことにすれば、ね」

 答えると、少女は手の中のそれを見下ろす。それと、とアレスが続けると、少女は顔を上げた。

「それくらい古くて傷の多いウロコだと、売り物としての価値はなくなるんだ。だけど、竜のウロコであることには変わりないから、君はそれを持って行くといいよ」

 その話に少女はさらに大きく仰いでダイモンを見つめると、感嘆の息をもらした。それからアレスに向き直り、胸の前で両手を握りしめ、深々と頭を下げた。慌てて顔を上げるよう言うと、少女は素直にそれに従う。固い表情の中に、うっすらと安堵の色が見えた。

 ふと少女は思い至ったことがあるようで、辺りを見回した。「その……レン、はどこにいるんですか?」

「その辺りを探索してるよ。少し好奇心の強いやつだからさ。もし、赤い竜を見かけたら、それがレン。——そうだ、ところで君の名前は?」

「マイア。お兄さんは?」

「アレスだ。じゃあ、マイア。そろそろ日が暮れるから、帰った方がいい」

「はっ、はい。本当に……お世話になりました」

「気が向いたら、またおいで。俺には大したことできないけど、話を聞くくらいならできるから」

 その日、そうして少女は帰っていった。時々振り返っては手を振るマイアの顔は、わずかに柔らかくなっていた。

 乾燥した、晴れた日のことだった。


 再び泣きはらした目をしてアレスの家にやってきたのはそれから一週間後のことで、事情を聞けば、嘘をついて別の生き物のウロコを見せたとして、いじめが終わらないのだという。

 わざわざ貰ったのにごめんなさいと、声をあげてマイアは泣いた。謝ることはない、自分も気が利かなかったと謝罪すれば、少女はますます泣いた。

 その一件以来彼女は少しずつ学校へ通わないようになり、やがて不登校になった。その代わり、アレスの家へ頻繁に訪れるようになっている。

 アレスの家にいる間、マイアはよく親族の話をした。父は有名な作家で今も原稿に追われているとか、母は近所の宿屋で仕事の手伝いをしており、料理が得意でよく妹と奪い合いになる、離れて暮らす従姉妹が定期的に手紙を寄越してくれる、その従姉妹の友人が今度結婚するらしいなど、例のことが嘘かと思えるほど明るい内容だった。学校にも友人はいたようだが、マイアはあまり話そうとはしなかった。


 ある日、部屋に飾ってあるいくつもの絵を見て、マイアは聞いた。

「この家にある絵って、全部アレスさんが描いたんですか?」

「はは、まさか。残念ながら俺には絵の才能がなくてさ。……昔、俺の大切な人が描いてくれたんだ」

「へえ、どれも綺麗なのばっかりですね! アレスさんの大切な人って誰だろー」

 マイアは感心したように部屋の絵を見て回り、ふと一枚の絵に目を留めた。額縁に入れ、窓際の壁に飾った物だ。

「これ、レンですか?」

「ああ、そうだよ」

「へー! あっ、でも今と少し姿が違うんですね……」

 その絵はレンの飛翔しあ姿を描いた物だ。立派な翼を広げたその姿は竜特有の猛々しさを感じさせる一枚で、レンの少しくすんだ赤い体は、澄んだ空の青によく映えた。太陽の位置の関係で後光が差しているようにも見えて、描いた本人も気に入っていた。

「……レンが飛んでるところって見たことないけど、飛べるんですね!? 角が折れてるのも、たくさん生きてるから? あたし、いつか乗ってみたいなあ」

 無邪気にはしゃぐマイアに、曖昧に笑い返すアレス。少女は青年の示す動作に首を傾げたが、なにも聞かず窓際のチェストに寄りかかった。マイアの視線を追うとそこにはレンの姿があって、純粋な少女はしばらく窓から見える風景を眺めていた。

 右の角が折れ、少しいびつな形の翼を持つ、メスの竜。平和はこのあたりでは、竜を故意に傷つける者はいない。

 開け放たれた窓から入る風は、少し冷たかった。



 小屋の掃除を終えたのは午後三時を迎えるころで、マイアはダイモンたちと共に遊び呆けていた。

 アレスが後片付けを終えて小屋の前で空を仰ぐと、ダイモンは青を背景に旋回していた。レンは小屋のすぐ隣でくつろいでいる。そこにマイアがもたれかかっていて、ぼんやりとダイモンを眺めていた。アドニスは時々思い出したように空を飛ぶ練習をしては、すぐに飽きてレンやマイアにじゃれついていた。

 日が傾いてきた頃にようやく戻ってきたが、少女の第一声が「喉渇いちゃった!」だった。アレスは呆れながらも水を入れたコップを差し出し、竜たちにも水を汲んでやった。そうして一息をついた後、家の前で腰を下ろし竜たちの様子を眺めていたマイアが、ずっと感じていたであろう疑問を口にした。

「ねえ、レンはどうして飛ばないの?」

 そう聞いたマイアの視線は、赤くしなやかな竜へ向いていた。

 マイアの質問に、必然的にアレスの胸に痛みが走る。アレスの沈黙に疑問を抱いたらしい少女は、不思議そうに首を傾げた。彼女はちらりとレンを見やるものの、少女を一瞥しただけで我関せずとばかりに家の前で寝そべってしまう。

 この一年間、マイアはレンが空へ羽ばたいて行ったところは一度も見ていない。ダイモンやアドニスの空飛ぶ姿は幾度となく見ているのだから、疑問に感じるのは当然だろう。

 しばらくの沈黙のあと、アレスは小さくこぼした。

「あいつはもう……二度と飛べないよ。飛ばないんじゃない」

「え……っ」

 テーブルの上で手を組み、それをほどいて再び組む。視線を下げ、いつになく暗い表情の姿に、マイアは困惑する。

「どうして? だって、あの絵だって……あれもレンなんでしょ?」

「昔大怪我をしたことがあって、その時の傷跡が、今でも残ってる。それが原因なんだ。あれ以来、飛べてない」

 少女はアレスと窓の向こうを交互に見て、それから胸の前で手を握り、表情を引き締める。

「なにが……あったの……?」

「知りたいかい? 笑って聞き流せるような内容じゃ、ないんだよ」

 それはマイアにとって初めて耳にする、低い声だった。それに怯んで、刹那に息が詰まる。いつも穏やかな彼が苛立ったのは確かなことで、だからこそ、踏み込んではいけないところへ足を踏み入れてしまったと少女は自覚した。

「だ、だって……、でも、あたし、ここに来るようになって、結構経つんだよ」

 それでも思わず口にした自身の言葉の意味を、マイアは少し遅れて理解する。本当に自分はなにも知らず、竜やアレスと関わる時間に甘えていただけなのだ。なに一つ、彼らを知らない。それを自覚すると、マイアは思わず目を伏せた。口にした言葉は取り消すことはできない。それを知っているから、マイアはただ黙っていた。

 レンはきっと、自分に飛ぶ姿を見せたくないのだろうと、マイアはそう考えていた。犬猫が人を見下すケースがあるように、竜にもそういった行動をするだろうとは容易に想像できた。しかし、それは違った。予想を外していたのだ。それに気付くと、マイアは両肩にずっしりと石が乗ったような感覚に陥った。

「……そっか、そうだよな」

 アレスは顔をあげないまま一言言って、一拍間を空けると、静かに語り始めた。


「俺には昔、アテナっていう恋人がいて、レンはその人のドラゴンだったんだ」

 アレスとアテナは同じ街の生まれで、知り合ってからというもの竜が好きな者同士すぐに意気投合し、なにかと競い合っていた。

 竜の飼育や騎乗には免許が必要で、それを習得するころには二人が付き合い始めて二年ほど経っていた。

 免許を取ると研修期間として、一年の間二人一組で一匹の竜を育てることが義務付けられている。それが終了すると、二人はダイモンとレンと共に出かけることにした。竜の背中に乗ってどこかへ行こうと、予定を立てたのだ。結局息抜きに海を見に行こうという話に落ち着いた。

 目的地へ向かうその途中で、密猟者に目をつけられたのだ。長年の夢が叶って、二人は浮かれていた。

 海へ行くには、森を通る必要がある。時々、それこそ数年に一度という割合で、そこで密猟者を見かけるという噂を二人は失念していた。


 野生の竜よりも人間に育てられた竜の方が穏やかではるかに質がいいため、彼らに狙われやすい。ウロコは艶があり、それでいて厚みがあって非常に頑丈。角は大理石のように滑らかで美しく、牙はどんな物でも噛み砕く。そして爪は象牙のようでありながら、しかし物を綺麗に引き裂くことができる。また、その血肉を口にすれば、病気に見舞われなくなり千年の命となるという迷信があり、それを信じる者もいるそうだ。

 密猟者は竜を決めるとまず騎乗者を撃ち落とす。騎乗者が絶命すれば報告されなくなるし、なにより竜を狙いやすくなる。大抵竜は撃ち落とされた主を追いかけて、密猟者にとって都合のいい場所まで近づく。だから、アテナはそれで命を落としたのだ。彼女を追ったレンも散々に傷付けられ、その時片方の角と爪を数本失い、翼には穴が空き、また骨折もした。竜の翼は一枚が巨大なため、現在の医学では治療は難しかった。以来、レンは二度と空を飛ぶことはなくなった。


「……これが、四年前にあった話。何度か飛ぶ練習はしたけど、ダメだったよ。けれどレンもダイモンも一緒にいたいというし、それからずっと俺たちと暮らしてる」

 想像以上に重い話だった、とマイアは俯く。安易に聞いていい内容ではなかったのだ。

「……それで、その……密猟者は、どうなったんですか……?」

 ふと思い至って、重い口を開く。問いに返ってきた返事は、「レンが殺した」。興奮した彼女が、密猟者たちを皆殺しにして、アテナの亡骸に寄り添い離れようとしなかったと、アレスは話す。

「……アテナは、俺の初恋だった。幼いころから生き物が好きだったそうで、特に竜への憧れが強かったらしいよ。俺ですら吃驚するくらい、情熱を注いでたな。絵と歌も好きな、活発で優しい人だよ。竜に乗って、この国を守るのが夢なんだったそうだ。彼女のご両親は反対してたけどね」

「……そう、なの。じゃあ、飾ってある絵もアテナさんの……」

「そう。勇ましいところもあったけど、女らしい人だったな。過去のことだけど、なにもなかったことにはできないから、忘れないようにしながら自分の道を歩くのが、せめての弔いだと思ったんだ。あの時も、助けてやれなかったから」

 本当に、いつも一緒にいて飽きない人だったよと、そう続けてアレスは薄く笑う。哀愁の色をたたえていた。

 それからもマイアはほとんどなにも話さず、夕暮れ時にとぼとぼと帰って行った。それきり、少女がアレスのところへやってくることはなくなった。


「アレスさん、いらっしゃいますか?」

 マイアがアレスの家へ向かうことがなくなって五年が経ったある日、彼の元へ来訪者があった。晴れた日のことで、午後三時を迎えるころだった。

 声とともにドアを叩く音に応えて、アレスは扉を開ける。そこにあった姿に、青年は目を見開いた。見覚えのある赤い髪に、空色の瞳。

「マイア! 久しぶりだなあ」

 この五年の間にも丘の麓の街で何度か見かけた、例の少女だった。最後にこの家へやってきた時よりも、少し大人びている。

「えへへ、お久しぶりです、アレスさん。見てくださいこれ!」

 挨拶もそこそこにマイアが懐から取り出した物は、一枚の羊皮紙だった。そこに文章が書き留められ、サインと押印もされた物だ。受け取ったそれの文に目を通し、アレスは瞠目する。

「竜騎乗免許証……取ったのか!」

 思わず声をあげると、マイアは照れくさそうにこっくりと頷いた。

「あの時……アレスさんの話を聞いて、逃げたままじゃいけないなと思ったの。アレスさんは、つらいこともちゃんと受け入れて前を向いてたでしょ? だから、あたしも頑張らなくちゃって思って」

 アレスさんの驚く顔が見たくて、あたしすごい頑張ったのよ、とそうマイアは笑った。それから、ずっと黙っていてごめんなさいとごく短く謝る。

「それにしても、本当によく……頑張ったな」

「でしょ? 本当はこの家でアレスさんたちとゆっくり話したかったんだけど、そうしたら勉強が疎かになっちゃいそうな気がしたから。我慢してたのよ」

「はは……俺も事情がある気がしたけど、間違ってなかったんだな」

「うん、察してくれて本当に助かったよ。それにても面白かったな、アレスさん。街で会った時にどうしようか迷ってるような顔して。街中で少しだけ話した時もほっとした顔したから、あたしも安心しちゃった」

 面白そうに話すマイアに、アレスは年上をからかうなよ、と苦笑すると、彼女はただ笑う。そこでようやく彼女のまとう雰囲気が柔らかくなっていることに気付いて、アレスも頬を緩めた。それから、扉を大きく開くとマイアの表情が花開くようにぱっと綻んだ。数歩下がりながら「竜と研修期間のパートナーは決まったのか?」とアレスは問いかける。が、マイアからの返答はない。疑問に思ってマイアの顔をうかがうと、彼女は足元に目線を落としていた。

「あたし……実はそのことで、お願いしに来たの。失礼なのは分かってるんだけど」

 髪に隠れて表情は窺えないが、その声は静かで真面目なものだった。アレスはなにも言わず続きを待っていると、マイアはぱっと顔をあげた。彼を真っ直ぐに見ると、こう言い放った。

「アドニスをあたしにください!」

 わずかの間、辺りを静寂が包み込んだ。

 先にその静寂を破ったのは、アレスの笑い声だった。初めはくつくつと抑えていたそれは、間もなく大きな笑い声となる。それにマイアは耳まで赤くなった。

「な……なんで笑うのよ! 勇気出して言ったのに!」

 笑いを堪えきれぬまま謝罪の言葉を口にする。ひとしきり笑っている間、マイアは「ひどい、怒られるつもりで来たのに笑われるなんて思ってなかった、ひどい!」と繰り返し怒りの声をあげていた。

「ふ……っ、だけどマイア、その頼み方じゃ、まるで親御さんのところに結婚の許可を取りにきたみたいだ」

 言うと、マイアはっとしたように口をつぐんだ。頬はさらに赤みを増して、さながら熟したトマトのようだと、アレスは思う。

 頬を隠すように手を当て「違う、そんなんじゃないの!」とマイア。率直な性格は変わっていないのだと、その様に苦笑してから、アレスはドアの枠に体を預け家の脇の小屋を指差す。

「まあ、そういうことなら、アドニスたちに聞いてきてごらん。俺は、マイアになら安心して譲れるよ。マイアのご両親はもう許してくれてるんだろう?」

 アレスは自身の意思を伝えると、明らかにマイアの緊張が解れたのが見てとれた。頬に赤みを残したまま、彼女は頷いて竜小屋へ駆け出していく。

 突然来訪をやめ、連絡もなしに再びやってきて、ぶしつけに竜を引き取りたいと申し出れば、怒りを買っても当然だと考えていながらもマイアはここまで来たのだ。

 けれど、とアレスは思う。例の話をきっかけに、彼女なりに悩んで決意をしたのだ。今のマイアに竜が必要なら、できる限り協力はするべきだろう。

 なにも、悪いことばかりじゃないと、アレスは遅れて小屋へ向かった。


 黄昏時の空を背景に、赤い竜が舞っている。竜は何度も大きく旋回していたが、やがて丘の下の街へと向かっていった。

 日暮れの寂し気な色が残留して、胸に刃を向ける。

 ——あたしの初恋は、アレスさんでした。

 さして重要なことでもなさそうに放たれた言葉に、アレスの反応は遅れた。表情やその言い方は、世間話をするそれとなんら変わりはなかったように、アレスには感じられた。

 アレスがなにか答えようと口を開きかけた時には、すでにマイアを乗せたアドニスは翼を大きくはためかせており、間もなくぐんと空高く舞い上がっていた。

「またね、アレスさん!」

 そう大きく手を振った少女は、いつになく大人びた表情をしていた。「時々会いにくるから! アレスさんたちにちゃんと報告しにくるからね!」

 背後でアドニスの小さな旅立ちを見送った竜の夫婦は、とっぷりと日が暮れるまで、小屋に戻ることなく静かに寄り添っていた。

【5月18日追記】

続きのようなものができました:http://privatter.net/p/271725



最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます!


これは某SNSで回ってきたお題を元に書き上げた物です。


この作品を書くにあたって、男女と竜が関わっているのは最初から決まっていたんですが、今の形に落ち着くまで時間がかかった気がします。文章にするのも大変でした。何年やってても創作って難しいなって心底思いました……。


なにか感想いただけると嬉しいですー。

今後もちょくちょく投稿すると思いますので、よろしくお願いします。

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