テナガエンコウの話
「早く寝ないとテナガエンコウが来るよ」
これは祖母が私を寝かしつける時の口癖だった。
「ばあちゃん、テナガエンコウって何?」
初めてその名前を聞いたのは、確か私が2、3歳の頃だったと思う。
手長猿公――今でこそそんな字を当てるのだろうと想像できるが、当時の私には見当がつくはずもない。だが、それが何やらひどく恐ろしいものであろうということは、祖母の口ぶりや表情から感じ取れた。
私に添い寝する祖母は、幼い私の顔をじっと見て、
「黒い毛むくじゃらのお化けだよ。恵理ちゃんみたいにいつまでも起きてる悪い子を連れて行くの。そら、あの廊下の隙間からながーい手が出てきてね…」
私はうつ伏せになって首だけ起こして、座敷から暗い廊下を眺めた。
その板張りの隙間から黒く細い腕が伸び出して、ゆらりゆらりと自分を招くのが見えた気がして、私は悲鳴を上げて祖母にしがみついた。
祖母は笑いながら私に夏用のタオルケットを掛けてくれて、落ち着かせるように肩を叩いた。
蚊取線香の薄い煙と、タオルケットの肌触り、そして座敷の古びた畳の匂いが、幼い私の夏の記憶だ。
私は小学校に上がる歳まで祖母と一緒に寝ていた。
両親が共働きだったため、昼間は同居する父方の祖母が私の面倒を見てくれていた。必然的に私はおばあちゃんっ子に育ち、母親が帰宅した後も祖母にべったりだった。
田舎にあった私の家は古い日本家屋だった。祖母が寝室に使っていたのは最も奥まった部屋で、低い天井とくすんだ壁に囲まれた8畳の座敷だった。隣には仏間があり、早くに亡くなった祖父の位牌が置いてある。
古い家独特の湿り気を帯びた空間であったように思うが、幼い私はそれを別段不気味とも思わず、毎晩そこで眠った。両親が自分たちの寝室へ連れて行こうとすると泣いて拒んだらしい。今考えると、両親、特に母親をずいぶん傷つけてしまったのではないかと思う。
夏になると座敷の襖を開け放すので、仏間を挟んで縁側への廊下までよく見渡せた。祖母に蚊取線香をつけてもらって目を閉じると、昼間に湿気を吸った建具が乾いてぴしぴしと不思議な音を立てるのが聞こえた。それが祖母の座敷の音だと慣れていたから、私が怯えることはなかった。
ただ、テナガエンコウの話を聞いてから、私は時折気味の悪い夢を見るようになった。
明け方に目を覚ますが、隣に寝ているはずの祖母の姿はない。辺りを見回すと、仏間の向こうの廊下から、ひょろりと細長いシルエットが生えている。
ゆらり、ぐにゃり。白々と明け始めた薄闇の中で、水底の海草のように揺れている。それは真っ黒い毛に覆われた、1本の長い腕――5本の指を備えてはいるが、人ではなく獣の腕なのだった。
それに招かれるのが恐ろしくて、でも逃げ出すこともできなくて、私はタオルケットに包まって目を閉じ、必死に朝が来るのを待つ。それがここまで来ないよう祈りながら――。
「恵理ちゃん、朝よ、起きなさい」
そのうち祖母の声で目を覚まし、ああ夢だったのかと気づく。
そんなことが、ひと夏に数回、あった。
祖母の座敷で眠った最後の夏のことだった。
私には2歳年下の妹がいた。
妹が生まれてからも母は勤めに出ていたが、当時すでに私が祖母を独占してしまっていたので、妹は両親の寝室で眠っていた。
その日、両親は私たちを連れて母の実家を訪れた。時期的に考えて、お盆の挨拶だったのだろうと思う。
久々に孫たちの顔を見た母方の祖父母は喜んで、私たち姉妹をデパートに連れて行ってくれた。何でも好きなものを買ってあげると言われ、妹は迷わず犬のぬいぐるみを選んだ。当時流行っていたアニメのキャラクターだ。
私も本当はその犬が欲しかったのだけれど、来年小学生になる自分が妹と同じものとは言い出せず、結局小さなポシェットか何かを買ってもらった。祖父母の手前、嬉しそうな振りは見せたものの、本当は妹が羨ましくて仕方がなかった。
夜になって、またあの夢を見た。
板張りの廊下からゆらりと生えて、ぐにゃぐにゃと揺れるテナガエンコウの黒い腕。いつもより禍々しく見えたそれの傍に、今日は誰かが立っているのが見えた。
妹だ――ピンク色のパジャマを着て、腕にあの犬のぬいぐるみを抱え、不思議そうな表情で黒い腕を眺めている。
そこにいちゃ駄目だよ、早く逃げて! 私はそう叫んだつもりだったが声にならなかった。
テナガエンコウは灰色の掌を大きく広げて、まるでドッジボールでも掴むように、妹の頭を上から鷲掴みにした。妹の手からぬいぐるみが落ちて廊下に転がる。
腕はそのまま妹の小さな身体を人形のように振り回して、勢いよく板張りの床に引っ込んだ。ピンクのパジャマ姿も引き摺られるままに床の隙間に入っていく。
板が裂ける音も、妹の悲鳴も聞こえなかった。ただいつものように建具がぴしぴしと鳴っているだけ。
私は全身に汗を掻いて目覚めた。
家の中の様子が騒がしかった。
両親の寝室からいなくなった妹は、庭で倒れているところを発見された。
ピンクのパジャマを着たまま冷たくなっていた妹は、首の骨と頭蓋骨が折れていた。
すぐに警察が来て、かなり長い間現場を調べていたようだが、外部から何者かが侵入した形跡もなく、また遺体に他殺を示すような痕跡も見つからなかったらしい。
結局、事故死として片付けられた。夜中に庭へ出た妹が足を滑らせ、庭石で頭を打ったのだろうと。
私だけが真相を知っていた――妹はテナガエンコウに連れて行かれたのだ。
しかし、妹の名を呼んで泣き崩れたままの母親と、無言で遺体の髪を撫で続ける父親の前で、そんなことは口に出せなかった。
犬のぬいぐるみは、妹の形見として私がもらえることになったが、私はそれを小さな棺の中に収めた。
妹なんかいなくなっちゃえばいいと、ほんの少し望んでしまった。そんな無邪気で残酷で、翌日には忘れてしまうような願いを、どうしてだかあれは叶えてしまったのかもしれない。
こんなもの、本気で欲しかったわけじゃないのに。
葬儀の間中、祖母は私の手を握っていてくれた。
祖母には見透かされているような気がして、私はとても怖かった。
祖母は私が短大を卒業する年の冬に他界した。
あの座敷に寝かされた祖母は、亡くなる数日前から昏睡状態になっていたのだが、しきりに「早く寝ないと…が来るよ」と呟いていた。
「恵理ちゃんが小さい頃の夢を見ているんだね」
集まった親戚たちは寂しそうに笑っていた。
祖母の死後、私は内定をもらっていた東京の商社に就職した。両親の反対を押し切り、生まれ育った古い家から、祖母の座敷から逃げるように、都会での生活を選んだ。
樋口は私の配属された営業2課の課長だった。
社内でも部下の面倒見がよいと評判の課長で、私のように少し出来の悪い社員が彼の元へ集められてしまうようだった。同期入社の女子社員の中でもあまり目立たず、なかなか業務に馴染めなかった私に、根気強く仕事を教えてくれた。
仕事の相談を兼ねて何度か飲みに行ったりするうちに、私たちは付き合うようになっていた。
樋口は私よりひと回りも年上だったから、私の虚勢や愚痴を余裕を持って受け止めてくれて、彼との関係はとても心地よかった。地方から上京したばかりで友人と呼べる人もおらす、孤独だった私は安心して彼に甘えることができた。
でも、樋口には妻がいた。
それは最初から分かっていたし、今の関係以上のことを樋口に求めるつもりもなかった。
樋口は、
「もう長い間家庭内別居状態なんだ。妻のことはいずれちゃんとするから、勝手なようだけど恵理にはそれまで待っていてほしい」
と言ってくれたが、私はあまり本気にしていなかった。今ちゃんとできない人は、いつまで待ってもちゃんとできないはずだ。
まさか自分が不倫なんて面倒臭いものに嵌るとは思ってもみなかったけれど、我ながら意外なほど後ろめたさはなかった。私は今の心地いい関係ができるだけ続けばいいと願い、だらだらと怠惰なぬるま湯に浸かっていたかったのだ。
ただ、ごくたまにではあるが、自分が樋口の妻になる姿を想像することはあった。
誰にも遠慮せず彼の隣を歩く。一緒に買い物に行ったり旅行をしたり、出先で知り合いに会っても堂々と挨拶をする。
そんな想像は毒のように甘く、あとで切なくなることが分かっていながら、しばし私を酔わせるのだった。
夏の明け方、自分の寝汗の不快感で目が覚めた。
8畳のワンルームマンションは、エアコンのタイマーが切れると途端に室温が上がる。私はパジャマがわりのTシャツの胸元に空気を通しながら、薄闇の中でテーブルの上を眺めた。
ビールの空き缶と食器類が出しっ放しだ。数時間前、樋口はここで私の手料理を食べて、自宅へ帰って行った。彼がここに泊まっていくことは決してない。
エアコンのスイッチを入れ直して、シャワーでも浴びようと、私はベッドから降りた。
ぎくり、とした。
冷蔵庫の前あたり、浴室ドアの手前に、ぐにゃりと細長いシルエットがあった。
黒い毛に覆われた獣の腕――フローリングの床から生えたそれは、ゆらりゆらりと音もなく揺れている。
そしてその隣には、見たことのない女性の姿があった。私よりはだいぶ年上の、美人の部類に入るであろう女性。焦点の定まらない視線で、こちらを見詰めている。
恐怖よりも、諦めに似た感情が湧き上がった。力が抜けて身動きが取れない。
ああ、連れてきてしまった。
あれは、たぶん、私の――。
日が昇った頃、樋口から電話がかかってきた。
普段はほとんどメールだけのやり取りなのに、しかもこんなに早い時間に、私は嫌な予感がした。
「昨夜、君のことが妻にバレた」
樋口は早口でまくし立てた。彼の焦りが伝わってきて、私は携帯を耳に当てたまま溜息をつく。
「彼女、逆上してしまって…家を飛び出したんだ。一晩中あちこち探したんだが見つからない。も、もしかして恵理のところへ行ったのかも…」
「奥さん、私の住所なんか知らないでしょ?」
「それはそうなんだけど…」
「落ち着いて。そのうち見つかるよ。絶対大丈夫だから、私たち」
私は何とか樋口をなだめて、電話を切った。
そう、奥さんはそのうち見つかるだろう。たぶん私の妹と同じように。
でも私はそれが本気で欲しかったのだろうか?
耳の奥でぴしぴしと音が鳴る。あれは古い建具が軋む音。蚊取線香の薄い煙。日に焼けた畳の荒い手触り。
私はシャワーを浴びるためにTシャツを脱いだ。
右腕の産毛が、少し濃くなった気がした。
最後まで読んで下さってありがとうございます。
祖母から本当に聞いて、しばらくトラウマになったお化けの話です。
感想など頂けましたら嬉しいです。