data.8/ 初めての呼び捨て
夏のリハビリはエアコンが効いていても、じっとりと汗ばむ。
そのせいか、いつもより早く体が重く感じて、そろそろ帰ろうとしたときだった。
「おつかれさま。はい、これどうぞ」
背後から声がして振り向くと、凛がペットボトルを二本抱えて立っていた。
一本を差し出され、お礼を言いながら受け取ったお茶が、よく冷えていて火照った掌にじんわりと心地よい。
「神園さん、このあと時間ある? ちょっとだけ話さない?」
拒む理由なんてどこにも見つからず、私は自然と頷いた。
「別に、深い話じゃないよ。ただ、誰かと喋りたくなるときって、あるじゃん?」
(もちろん、いいんだけど……一体何だろう……)
少し体が重く感じたこともあって、私は「ここじゃなんだし」と凛を自分の病室へと誘うことにした。
病室に入り車椅子を隣同士に並べてると、私たちは他愛ない話ばかり始めた。
小説の話、病院のご飯の話、リハビリ担当の理学療法士の口癖のこと。
ーー何かいつもの態度とは違う。
どこか不自然なぐらいに凛の指がペットボトルの上を無意識に撫でていて、視線は窓の外に向いたまま。
あのまっすぐな瞳が――今日は少しだけ揺れて見えるのだ。
「最近、ちょっとね……ううん、なんでもない」
凛がそう言ったとき、一瞬だけ声がかすれた気がした。
ときどき会話の途中で、ほんの一瞬だけ視線を泳がせる。明るさの下に何かを隠しているような、その“間”は何だろう。
凛が、ふいに私を見た。
まっすぐな視線に思わず目をそらす。
「ねえ、神園さんって……呼ぶの、やめていい?」
「へっ?」
思わぬ不意打ちに変な声がでた。
「……うん。……彩夏でいいよ」
自分の名前を自分で口にすると、なんだかこそばゆい。
「ふふ、じゃあ、わたしは凛って呼んでね。よろしく、彩夏、また明日も話そう!」
自分の部屋に戻っていく凛の声は、いつもの軽さのなかに、ほんの少しだけ熱を帯びて聞こえた。私は、なんだか恥ずかしくて顔を伏せると、車椅子の絆創膏越しから、強い光が出ているのに気づいた。
(動いていないのにずっと光っている……やっぱり気持ちに対応してるんだ)
顔を上げ、自分の名前を凛の声で呼ばれたことを思い出す。
ーー彩夏か。
まるで、背中にずっと貼りついていた「神園さん」の札を、そっと剥がされたような、そんな感覚。
誰かにちゃんと「名前」で呼ばれるのは、いつぶりだっただろう。
親にも、クラスメイトにも、先生にも。私という人間をひとつの輪郭で見てくれる人なんて、どこにもいなかった気がする。
でも凛は、私との境界線をやわらかく撫でてくる。
車椅子に乗った身体ごとじゃなくて、その奥にいる“私”のことを。
ーーああ……好きかも……。
「彩夏」って呼ばれたその日――、私の中の抑えていた気持ちが、ゆっくりと目を覚ました。