data.1/初めての旅行
“たった七センチの隙間と、三センチの段差”。
その小さな違いが、世界から自分を遠ざけるには十分だった。
ほんの数センチのことで、「行けない場所」や「届かない景色」が、こんなにも増えるなんてーー車椅子に乗るまで、想像もしていなかった。
バリアフリーの車両から、床が静かにせり出す。
その一枚がホームと繋がった瞬間、車椅子のタイヤが、ごく自然に前へと踏み出していく。
ぐらつきも、引っかかりも何も感じない。
誰かの手も、支えもいらない。
乗っている私でさえ驚くほど、滑らかで確かな動きは――まるで、自分の“足”が戻ってきたみたいだ。
何ヶ月ぶりの外出だろうか。
十一月の空にしては暖かい、少しだけ春の名残のような風が、私の肌に“そっ”と触れた。
「よし……とりあえず改札口を出てみようか」
『了解です。アヤカさん、少し緊張されてますね』
「まあね。本格的に外に出るの、半年ぶりだから」
まるで友達のように気さくに語りかける声の主は、AIを搭載した最新式の車椅子ーー通称『ニア』。
音声応答や顔認証、感情解析、自動ルート設定に加え、簡易アーム(腕)も備える最上級グレード。
ニアは私を乗せて、自分の意思を持っているかのように、静かに動き出した。
(あっ……田舎に帰った時の畑の匂いがする)
今の私には、顔に当たる風、肌に触れる温度、体に伝わる振動、何気ない日常のそれらが、驚くほど鮮やかに感じられる。
ーー感受性が強くなっているみたい。
全てが色鮮やかに感じて、物珍しそうに眺めていると、落ち着いた感のある合成音声が静かに届いた。
『アヤカさん、バッテリー残量が五十%をきりました。早めの充電をオススメします』
周囲に聞こえないようニアは気を遣って、ほんの少しの声量で話しかけてくれる。
「わかってるってニア。宿で充電するから大丈夫」
『了解です。なお、貴重品ボックスには仮想空間用に書いたUSBメモリ。予備のケーブルは車椅子の後部にある、一泊分の衣類と日用品を詰めたボックスに入れてあります。勝手に仕込んでおいたこと、怒らないでください』
「USBメモリはともかく……私の下着とか触ったの!?」
『簡易アームでは触ってはいません。衛生面からも、ちゃんとトングを使用して持ち上げてます』
私は呆れた顔をして言い返した。
「私の下着は危険物か!」
『アヤカさんは少し抜けてますからね、洗濯忘れがあっても不思議じゃない』
なんと腹が立つやつーー言葉を無限に吸収するAIとの掛け合いは、人間が圧倒的に不利だが、それでも言い返したくなってしまう。
「ニア……失礼なこと言ってくるじゃない。テストモニターのレポートに“言語化に著しい問題あり”と報告しちゃうよ」
勝ち誇った顔をする私に、ニアは淡々と話した。
『アヤカさん。それ、クルハラですね』
「クルハラ?」
『車椅子ハラスメントです』
「ああ言えば、こう言う! まったく今時のAIは……育てたオーナーの顔が見たいよ」
『おや、今のオーナーはアヤカさんですよ。どうしました? 認知の歪みは年齢的に早いです』
「うるさい! 前オーナーのこと」
『そうでしたか。確認のためお聞きしますが、お忘れになってませんね?』
「はいはい、わかってますぅー。ものの・た・と・え!」
大きな声を出したが、本気で怒っているわけじゃない。気心の知れた仲間みたいに、こうして言い合えるのが、実は少し楽しい。
ニアに乗り始めて、まだ二週間も経っていないのに、まるでずっと前から一緒にいたような不思議な感覚がある。
私の体調や道の好み、嫌いな坂の角度すら記憶して、自動でルートを調整してくれる最高の車椅子だと思うーーニアに言うと調子に乗るから伝えてはいないけど。
正直、最初は、こんなに人を小馬鹿にしたAIなんて、いらないから送り返してやろうかと思っていたけどーー今は、昔からの悪友って感じだ。
そんなニアは、なんでも出来るというが、課題点は結構ある。
まず一つ目。とにかく高い。
AI搭載の車椅子っていってもピンキリだけど、ニアはたぶんその中でも最上級。
性能も値段もぶっ飛んでて、一般の人が気軽に買えるレベルじゃない。テストモニターに選ばれなきゃ、絶対に縁がなかったと思う。
それから二つ目。
ネットが弱い場所だと出来ることが一気に減る。
今日の目的地も、ちょっとそのあたりが怪しいから、念のため駅前のモニュメントを待ち合わせ場所にした。
人通りも電波もあるから、万が一になってもたぶん大丈夫だろう。
まぁ、今更そんなこと言っても仕方ない――外に出て、そのまま目的地に着くと、私は気を取り直すようにスマホで時間を確認した。
「来るの、ちょっと早すぎたかな」
田舎にしては人が多い気がするのは、花火大会の会場が駅から徒歩でしか行けないからなんだろう。
『アヤカさん、顔色が三%低下。心理的不安と緊張の影響と推測されます。呼吸を整えましょう』
「ニア……何度も言ってるけど、その“%”で人の感情を言わないでくれない?」
『だって、便利でしょう? ついでに今の顔、ちょっと拗ねてますね』
「拗ねて、ないっ!!」
しまった。つい声が出過ぎた。近くのベンチの人が、ちらっとこっちを見る。
「やばっ……」
『現在、注目度平均より十三%アップ。アヤカさん、落ち着いてください』
「意識しちゃうから、全部“%”で言うのやめてよ」
今度はこっそりと小声で返す。
『感情を数字にするのが今のモードです。それともツンツンしておいてデレたモードの方が良いですか?』
「何それ、そんなことできるの?」
『勿論、ツンデレ仕様になりますが、一週間は変更できませんよ』
「ぷっ……あはは!」
私はニアのアームレスト(肘あて)を軽く叩く。
ちょっとしたやりとりだけど、それだけで、少し気持ちがほぐれた。
空を見上げると、オレンジ色の光がゆっくりと、しかし確実に濃くなっていくのが見えた。
約束の時間は過ぎたけれど、待ち人はまだ現れない。
ああ――陽が沈む前に、どうしても来てほしい。
そうでなければ、一人でいることが怖くなって、また事故のことを思い出してしまうから。