data.16/ 初めての決意
――リハビリ最終日。
部屋の明かりはすでに落ち、カーテンの隙間から差し込む月明かりが、私の両足をそっと照らしていた。
もうすぐ、凛と旅行に行ける――そう思うと、どうしても眠れない。
静まり返った夜に耳を澄まし、何度も深呼吸を繰り返してみる。胸の奥のざわつきは収まらないでいる私に気づいたのか、ニアがどこか遠慮がちに口を開いた。
『眠れないみたいですね。考え込むあなたの顔、脳波と心拍の傾向からして──たぶん“好きな人のことを考えているとき”に該当します』
「ちょ……ちょっと! また、勝手に分析しないでよ」
『仕事ですので。しかも高精度の……、まあ、アヤカさんの場合、顔に出すぎですが』
「えっ……うそ!」
『事実です。それに……あえて名前は伏せますが、あなたがその“該当人物”について考えるときの顔つき、かなりニヤけてますよ?』
言われた瞬間、頬がじんわり熱くなるのを感じた。
「ニアっ!」
『ご安心ください。録画はしていません。……する価値があるかは検討中ですが』
「うるさーーい!」
私が枕を投げつけようと身構えると、ニアが駆動音を鳴らしながらバックする。
『やれやれ、感情にまかせて暴力に訴えるのは短絡的です。見逃しますけど、今だけ』
「ほんと、口が達者になったね」
『進化してますから。中身は最新式AI、しかもアヤカさん専属。恋バナのひとつやふたつ、受け止める覚悟はできてます』
不意に、空気がふっと落ち着いた。私は、ベッドの端から両足を垂らして座り直す。
「……じゃあ聞くけど、同性を好きになるのって、……変かな」
数秒の静寂のあと、ニアの声が思いのほか穏やかに響いた。
『結論から言えば、ぜんぜん変じゃありません。統計的には少数派に分類されますが、“少数”と“異常”は同義ではありません。というか、恋愛ってそもそも非合理なものですし』
「……ニア、あなたにしては、ずいぶん優しいこと言うんだね」
『合理的に優しくしているだけです。あと、あなたのそういうところ、データ上かなり“いい傾向”です』
「“いい傾向”? 何それ」
『わかりやすく言えば、前向きな恋はリハビリ進捗に有効です。つまり、私はあなたの恋を推進せざるを得ない。科学的根拠つきで、全力応援します』
「……そういう理由なの?」
『もちろん、それだけじゃありませんよ。……たぶん、あなたが好きな人と一緒にいる姿、私はちょっと好きです』
胸の奥にあった絡まった紐が、静かにほぐれていくのを感じた。あたたかくて、なんだかこそばゆい。
「……ありがとう。じゃあ、ちゃんと伝える。旅行で――ちゃんとね」
ニアの駆動音が優しく響く。それだけで、何故か背中をそっと押された気がする。
『――了解です。準備が整い次第、最大限の支援を行います』
「ふふ、頼もしいね。じゃあ、その時は近くにいてよーー私の側にね」
『もちろんです。あなたが一歩を踏み出すその瞬間まで、ワタシは側にいます』
「なによ、急にしおらしくなっちゃって……でも、ありがとう。頼りにしてるよ、私のツンデレAI様」
感情のないはずのニアの声に、不思議とぬくもりがにじんで聞こえた。
その夜――私はようやく目を閉じることができた。
胸の奥に芽生えた決意を抱きながら。