data.15/ 初めてのAI
外泊許可を得るのを誓った翌日。
診察を終えた私は、ベッド脇のスイッチを押して間仕切りのカーテンを開けるとーー、いつの間にか部屋の片隅に見覚えのある車椅子が置かれていた。
光沢のあるブラックボディに流線型のシルエット。入院中、私が使っていた電動車椅子とほとんど同じ形なのに――何かが違う。
見た目はほとんど変わらないはずなのに、まるで意思を持った生き物のような存在感を放っている。
思わず眉をひそめたそのとき、車椅子が小さな機械音を響かせながら動き出し、私の数メートル手前でぴたりと止まると側面のパネルが淡く光りはじめた。
『はじめまして、神園彩夏さん。──私は、ニア。あなた専属のアシスタントモビリティユニットです』
人間のような落ち着いた合成音声の声に驚く。
「ええっ! 話せるようになったってこと!?」
『そうですとも。昨日まで使用していた電動車椅子の超進化バージョンに魔改造されました。嬉し泣きしてもいいんですよ?』
「長身化バージョン? 大きくなったの?」
『長身ではありません。超、進化です。生物が世代を経るにつれて環境に適した形質に変化していくことです』
「ははは……あっ、そっちの方ね」
『見た目はあの頃と大差ないですが、中身は別物。アタッチメントも追加されましてね。階段は登れるわ、砂浜は走れるわ……正直、私にできないことを探すほうが難しいです』
堂々と言い放つその様子に、私は思わず後ずさった。
(なんて自信過剰なんだ……)
戸惑いながらも、じっと車椅子──ニアを見つめる。
『これから二週間、あなたのリハビリ、そしてその後の凛さんとの旅行計画に向け、最適なサポートを提供します』
「え、ちょっと待って。旅行って……なんで知ってるの」
『私の中には、前の車椅子でのアヤカさんに関する前データが残っています。回復目標に設定しました。ログデータにも明記されていますよ』
「……な、何ですって!?」
言われてみれば、凛と旅行に行こうって話した時も、車椅子が頻繁に光っていた。
少し息を整える――まさかそれが、こんな形で記録されてるとは。
『まあ、ちゃんとリハビリをこなせるとは思っていますが……いや、期待しすぎないで見守ります』
「ぷっ! 何それ、もしかして……“ツン”ってる?」
思わず吹き出してしまう。
『“ツン”、とはなんですか? まったく手がかかりそうなオーナーですね。でもまあ、壊れない程度には面倒見てあげます。――困っているときは……手伝いますけど』
「いやいや、それが“ツン”。絶対そうだよ!」
軽口をたたいて、どこかぎこちないニアに、私はほんの少しだけ警戒を緩めた。
ふと、車椅子のサイドに、剥がし跡のようなものを見つける。
「あれ……これって……?」
指先でなぞると、ニアがわずかに沈黙した後、淡々と告げた。
『以前、あなたが私に貼り付けた絆創膏の痕跡です』
「うわ、ごめん。ライトが眩しかったから」
『理解しています。視覚的ストレス軽減のための措置……しかし、せめて貼り方はもう少し、統一感を持たせるべきでしたね』
微妙に刺さる皮肉に、私はもう一度吹き出した。
「ふふ、そんな細かいとこ気にするんだ」
『当然です。私は見た目も重要なユニットですから』
自信満々に言うその調子が、なんとも可笑しい。ニアがわずかに音を立ててセンサーを動かす。
『ところで……、先ほど凛さんの名前を出した際、あなたの心拍数が平常時の一.四倍に上昇しました』
「えっ?」
『体温も上昇傾向。これは生理学的には恋愛感情に該当する現象です。確認ですが──これは“恋”ですか?』
真面目な声で淡々と問われ、私は一気に顔が熱くなるのを感じた。
「い、いや、そのっ……!」
しどろもどろになって、何とか話題を逸らそうとする。
(やばっ! 完全に動揺してる……!)
『解析不能。……今後も継続してモニタリングします』
どこか得意げなニアの声に、私は顔を覆ってしまった。(なによこいつ……なんなのほんと……)
急な会話に話し疲れて、ベッドにもたれたそのとき。
ナースコールの子機から「荷物のお届けです」と声がした。
受け取ったのは、何の飾り気もない白い封筒。
差出人に“柿椿凛”の文字を見つけた瞬間、胸の奥がふっと熱くなるのを感じた。
何が書かれているのかはわからない。でも、それを知るのが少しだけ怖く――同時に、早く知りたくてたまらなかった。
震える指で封を開けると中には、たった一枚の便箋が出てきた。
『彩夏へ。ニアっちは試験運用してる特別モデルなんだ。クセがありだけど、きっと彩夏の役に立つ。まずはリハビリに集中して、しっかり体を整えてね。二週間後、旅行で会えるのを楽しみにしてる。――凛より』
読み終えた私は、便箋を抱きしめると小さく笑った。
「確かにクセありだね……よし。ニア、これからよろしくね」
そう声をかけると、ニアは“カチリ”と静かに駆動音を立てた。
『――こちらこそ宜しくお願いします。……まあ、私を使いこなせたらの話ですが』
“ツン”をだしながらも、どこか優しいその声に私は自然と頬を緩める――これからは、にぎやかな毎日になりそうだ。