data.12/ 初めての喧嘩
「花火を見る」ーー目標への道が見えた人間は迷わない。
何も見えない、だだっ広い平原に立たされると人は進むことを躊躇うが、道の形さえあれば、後は勝手に歩きだすようになると思い知る。
そう思うほど、凛の回復は順調だった。
簡単な道のりではなかったのは知っている。
どれほどの痛みに耐えて、努力を続けている結果なのか、私はちゃんと見てきたから。
それに比べて、私は少し痛みがあるとすぐにリハビリを休んでしまいーーその差は、日を追うごとに目に見えて開き始めていった。
ーーこのままじゃ、一緒に花火が見られない。
平気なふりをしていても、焦りと不安でいっぱいで、気づいたら誰かれ構わず冷たい態度を取るようになっていた。
「彩夏、もう少し頑張ろう!」
「……いいよ、放っといてくれて」
凛の声に、私は仏頂面のまま、冷たく突き放した。
「なんで? 花火、一緒に見たくないの?」
その一言に、胸が“ぎゅっ”と締めつけられて、私の眉間にシワがよっていく。
「……見たいよ。見たいけど、こんなに痛い思いばっかりして、全然良くならないじゃん!」
周りの空気が、ふっと張りつめた。
視線を向けなくても分かる――スタッフたちがこちらを気にして見ている。
作業療法士の先生も、他の患者さんの対応をしていた手を一瞬止めて、こちらの様子をうかがっていた。
「落ち着いてよ、彩夏」
「落ち着いてるわよ! ちょっと先に歩けるようになったからって、私のこと見下してるんでしょう――!!」
言い終わると同時に、凛の顔がこわばった。
その目に、うっすらと涙がにじんでいるのが見えて、私は
「……何、それ……。そう……わかったわ」
凛は、それきり何も言わず背を向け、扉の向こうへと消えていった。――きっと、私の言葉に傷ついた顔を見せたくなくて、隠したかったからに違いない。
――謝らなきゃ。
そう思って、追いかけようとしたとき、目の前にすっと手のひらを差し出したのはーーベテランの療法士さんだった。
怒っているわけではなく、責めるでもない、静かで優しい目をしている。
言葉はなくとも、表情が語っていた。
「今は、やめておきなさい」と。
「神園さん、少しだけ待ってあげてくれる? 柿椿さんの気持ちも聞いたうえで、ちゃんと落ち着いて話せる場を作ってみせるから」
私は黙って頷くしかなかった。
療法士さんは他のスタッフに指示を出すと凛のもとへ向かわせた。そして何故か、私と共に部屋に向かって歩きだした。
ーーどうしたらいいか分からない……凛に嫌われるかもしれない思いで、頭の中はぐちゃぐちゃになり、何も考えがまとまらない。
思考が空回りするばかりで、ただ、ただ、胸が苦しくて何かに縋りたくなってしまい、私は初めて――悩みを他人に打ち明けることにした。
これまでは、療法士さんのことを、リハビリのときに身体を支えてくれる“補助役”くらいにしか思っていなかったし、それに、なんとなく「大人に頼っちゃいけない」と思い込んでいた。
でも――、誰かを頼って初めて気づいてしまった。
私はただ、心配されるのを一人で怖がっているだけの、どれだけ人に無関心な子どもだったのかということを。
「バカなことを言ったと思ってます……仲直りしたいけど、どうしたらいいのか……」
そう打ち明けると、療法士さんは責めなかった。ただ、私と一緒に考えてくれた。
「神園さんがうまく話せないなら、思っていることを紙に書くのもいいかもしれないわね」
少し前の私なら、そんな提案、聞き流していたと思う。
でも今は違った。
謝りたい気持ち、伝えたい思い、これからどうしたいか――すべてを手紙にして凛に渡してもらうことにした。
療法士さんに手紙を渡し終えるとベッドに横たわった。
白い天井を見上げながら、ふと凛の言葉がよみがえる。
『頑張ろう! 私たちの時間を取り戻さなきゃ!』
時計を見ると、一時間ほど経っていた。
何もしなくても時間は過ぎていく。
その当たり前が、こんなにも惜しく感じたのは、たぶん初めてだった。
そういうことなんだな――と思いながら、ぼんやりしていると、ドアをノックする音がした。
「どうぞ」と声をかけると、凛がいた。
車椅子に乗ったまま、入り口で静かに私を見つめている。
何を言えばいいのかも分からないまま、まとまっていない言葉が口から飛び出した。
「凛……ごめん。励まそうとしてくれてたのに……傷つけることばかり言って……でも、あれも私なの。臆病で、無知で、人の心を考えないで、後から後悔してばかりで……みんなに合わせるのも苦手で、我儘で……もう、何言ってるのか分からないけど……ごめん……本当に、ごめんなさい」
ぐちゃぐちゃで情けない言葉だった。
こんなの、聞くだけでも嫌になるはずなのに、凛は黙って最後まで聞いてくれた。
「……だめ。許さない」
その言葉に、私は思わずベッドに倒れ込みそうになった。けれど、手をついてなんとかこらえる。
「……だよね。たくさん傷つけたもんね」
「そうだね。でもね、彩夏――それは、私も一緒」
凛は、少しだけ車椅子を前に進めて言った。
「手紙、読ませてもらったよ。私のペースに無理して合わせてくれてたのに気づかなかった。焦らせるようなことばかり言って……“頑張れ”って、軽く口にしてた。でも今思えば、あれは――自分のほうが上だって思いたかっただけかもしれない。……だから私こそ、ごめん」
凛の目は、まっすぐだった。
「だから、彩夏にも――私をすぐに許さないでほしい」
「……それって、どういう意味?」
問い返すと、凛は慎重に言葉を選びながら答えた。
「彩夏の“好き”なことは、たくさん知ってた。でも、“嫌い”なことはちゃんと知らなかった。だから……今回のことも、忘れたくない。わたしたち、ちゃんと覚えておこう。二度と、同じことを繰り返さないために」
「それって……“罪を憎んで人を憎まず”、みたいな?」
凛は微笑んで、優しく言った。
「そうだね。彩夏が犯した罪は憎んでる。でも、彩夏自身を嫌いにはならない。私は、ずっと彩夏といたいからーー」
気づけば、凛はベッドの横まで来ていた。
そして、私の手をそっと握る。
「だから――この話はもう、おしまい。明日からまた、よろしくね、彩夏」
ブワッと、涙があふれた。
私は顔を布団で隠しながら、どうにか泣き顔を見せないようにした。
その上から、凛の手が優しく撫でると、そっと抱きしめてくれた。
――私だけよければいい、そんな考えはもうやめよう。
泣き止むまで寄り添ってくれる凛。
見守ってくれる療法士さんや両親、たくさんの人に支えられて、私は今ここにいる。
絶対、忘れないでいよう――私は“そっ”と、そう誓った。