表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

 酒田県の一件とは、ワッパ騒動(一揆)と呼ばれ、明治六年から明治十三年の七年にわたって庄内地方のほとんどの村を巻き込んで、一揆から自由民権運動へと発展した民衆運動のことである。

 明治維新後、庄内地方は最上川の北が酒田県、南が大泉県(旧荘内藩)と二分されたが、最上川北方では雑税廃止などを訴えた『天狗騒動』が起きた。酒田県はこれの鎮圧に失敗し、大泉県が川北を含んだ形で酒田県に再編された。

 戊辰戦争に敗れたにもかかわらず、西郷隆盛の口添えで県官は旧荘内藩の士族で占められ、旧荘内藩家老・松平親懐と同じく旧荘内藩中家老・菅実秀が執行する体制が出来上がった。

 彼らが行う酒田県政は、中央政府の改革を無視し、独自の政策をとった。地租については、金納であるはずがそれを農民に知らせず、従来通り物納とし、当時、米価が高かったため、その差額分を商人と結託し、県の上層部が懐に入れた。また、本年貢の他に多くの雑税があり、それを合計すると、収穫の七もしくは八割にも上り、農民たちにとって重い負担となっていた。

 明治六年、県政に批判的な士族たちが県官たちの不正を司法省に訴えた。そして、県の政策に地主・農民・非特権商人たちが反対の声を上げたが、県側はこれを力によって押さえつけようとした。

 明治七年に惣代たちが上京し、内務省に訴える。内務省は役人を遣わして取り調べを行ったが、双方話し合うようにという裁定を下した。この中途半端な決定に農民たちは反発し、雑税の廃止その他を要求して運動を展開していった。これには富農層だけではなく、中農・貧農・職人・日雇いまですべての民衆を含む規模に発展していったが、酒田県は士族を動員して弾圧した。農村の指導者百人余名が逮捕され、圧倒的な武力で鎮圧されてしまった。しかし、川南を中心とした一万数千人が九月、一斉蜂起し、雑税四項目の廃止などを勝ち取ることが出来た。

 逮捕を逃れた人々は官憲の目を逃れて、ぼろぼろの姿になりながら上京し、司法省に訴えた。だが、却下され、酒田県に引き渡されてしまう。

 酒田の豪商・森藤右衛門は明治七年十月十一月に太政官の左院に建白書を提出し、嘆願によらず、建白・訴訟運動を行った。これは明治八年十一月に司法省へ引き継がれ、西南戦争が終わったのちの明治十一年六月三日に、農民側勝訴の判決が下された。

 このことは多くの新聞で報道された。

 地租についても、旧税が十二パーセントも大幅減祖となった。その後も組村費不正問題などについての裁判が続くのだが、明治十二年初めのこの時点において、金兵衛は庄内地方の判決の結果を知っていたのだった。




 七度めの嘆願が却下され、林金兵衛が東京で途方にくれていた頃。

 春日井郡では湯地丈雄の後任として県から第大三区の区長に任命された土器野新田の天野佐兵衛が、明治十二年の一月から、県の意向を受けて動き出していた。

 春日井郡の東部では一揆になるのが確実な情勢だった。もし一揆が勃発すれば、初めから県の側についていた天野をはじめとする議員や惣代の家は打ちこわし・焼き討ちの標的になるだろう。おとなしく県の主張を受け入れている村々でも、内心は不満を持っているのは分かっていた。

 三重県の大一揆のようになるのを恐れ、天野は旧藩主につてのある名古屋を統轄する第一区長の吉田禄在と共に密かに上京し、根回しをした。

 そして二月になってから、天野と吉田は二人の人物を連れて、金兵衛たちの宿舎を訪れた。

 彼らは、間島冬道・小瀬新太郎と名乗り、旧尾張藩主・徳川慶勝に仕える者だという。

「春日井郡の様子をお聞きになり、従一位さまはたいへん御心を痛めておいでになる」

 間島が切り出した。

 そして、この事態の打開策を示す。それは、尾張徳川家からの御下賜金をいただく、というものだった。

「旧藩主である尾張徳川家から、五万円を借りるという形をとる。そのうち三万五千円をそのほうらが受け取り、一万五千円は銀行に預け、それを元本として、利子を返済にあてる――というものだ」

 小瀬が説明した。

 金兵衛は、ざっと頭の中でそろばんをはじく。

 三万五千円あれば、それを改訂までの五年間の四十二か村の地租の不足分にあて、現実に払うのはこれまでの年貢と同じ分だけで良さそうだ。

 これで手を打たねばならんかのう、と彼は思った。

 ここまで計算して話を持って来た天野のしたり顔が脳裏に浮かび、その横っつらを殴ってやりたいほどだった。

 とはいえ、手詰まりの今、根本的な解決にはならなかったが、それを受け入れる他ないようだった。金兵衛たちも、万策尽きていたのだ。また、旧藩主の意向を拒否することなど、できようはずがなかった。

 金兵衛たちは相談し、御下賜金を受け取ることを承諾した。それに加えて、明治十四年度からの地租改訂の確約書を県から出すことを条件につけた。

 それを間島と小瀬に返答し、話がまとまると、天野と吉田が出頭通知書を持って、金兵衛たちのもとへ来た。慶勝公の御前で、反対運動の終結の確約を取りたいらしい。

 二月十七日、天野、吉田に伴われ、金兵衛は飯田重蔵、梶田喜左衛門と共に、尾張徳川家の東京での屋敷を訪れた。

 天野と吉田は別室で待つということで、金兵衛たち三人が座敷へ案内された。

 女中によって襖が開けられ、中へ通されて平伏する。

 上座に尾張徳川家当主の慶勝が坐っており、その両脇に間島と小瀬がいる。

 間島が金兵衛たちの名を告げた。

「一同、楽にせよ」

 慶勝公が言葉をかけた。

「おもてを上げい」

 小瀬が言ったので、金兵衛は身体を起こし、前を向いた。

「金兵衛、一別以来じゃな。互いに白髪が増えたか」

 慶勝公が微笑んでいる。

 明治四年に尾張藩士の帰田のための献金を依頼されてときに拝謁しているので、八年ぶりだろうか。そのとき金兵衛は庭の白洲にいて、ご尊顔を拝見することもなかった。今は座敷に通され、声をかけられている。

 これもご維新の結果というわけか、と感慨深い。

「飯田、梶田と申したな。ご苦労であった」

 慶勝公はあとの二人にも声をかけたが、彼らは恐縮しきっていて顔を上げることもできず、平伏していた。一度面識のある金兵衛はともかく、彼らの中では前の藩公と対面するなど、夢にも思わないことだ。百姓が藩主に間近に会うなどということは、幕藩時代にはありえないことだった。

「みな、おさまらないこともあろうが、これで何とか手を打ってくれ」

 と、慶勝公は彼らの目の前で小切手を書いてくれた。

「確約書もここにある」

 主の言葉で、小瀬が脇にあった文箱から書類を出し、膝行してきて小切手と共に金兵衛の前に置いた。

「たしかに」

 書類を確かめた金兵衛が、それを押しいただく。

「茶でも一服点てたいところだが、そなたら、一刻も早く帰国したいであろう。干菓子でも持ってゆけ」

 と、主の意を受けて間島が手を叩くと、襖が開いて女中たちが高坏に載せた干菓子を持って入って来たので、金兵衛たちはそれをいただき、御前を下がった。

 玄関では、天野と吉田が待っていた。

「殿さまに会ったか」

「良かったのう」

 と二人とも機嫌よく金兵衛たちと一緒に屋敷を出る。

 良かったのは、あんたらじゃろう?

 皮肉っぽい目で、金兵衛は彼らを見た。

 県は信用ならん。約束を違えたならば、今度は確約書を持って司法に訴え出ねばならん。

 と、金兵衛は考えていたのだが、翌年、ことは予想を大きく外れて動いていくことになる。




 帰郷することになった金兵衛たちは、福沢諭吉をはじめとするお世話になった人びとに挨拶をし、また横浜から船に乗った。

 春日井郡に戻り、各自手分けして村々をまわって事の次第を説明し、なんとか一揆を回避することができた。

 この嘆願をしていた金兵衛たち四十二か村の一方で、堀尾茂助たち慎重派の郡議員、惣代たちは反対運動が春日井郡全域に広がって収拾がつかなくなることを恐れ、他の百六か村の人びとに自重を求めていた。その代わり、嘆願の成果があがったときには「郡下全村に平等に実施すること」と県との間で約束していた。

 ところが、旧藩公からの救済金と確約書の中に百六か村は入ることはなく、このことに怒った村民たちに押される形で堀尾茂助たち郡議員の嘆願活動が始まる。

 県令・本局・尾張徳川家に対して嘆願を繰り返したものの、すべて却下され、東京では訴えの内容に問題があるとして、警察の取り調べを受けることもあった。

 結局、地租改正事務局への嘆願は失敗に終わり、一行は帰郷したのだが、家に戻ることもできず、県当局に引き続き嘆願を繰り返した。だが、とうとう警察に勾留されることにまでになってしまった。

 それでも、茂助の執念の結果、明治十二年の末に、「明治十四年に地租を改訂する」という約束をとりつけた。これのみで、嘆願活動は収束せざるを得ず、茂助たちは村々を回って人びとの怒りをおさめるよう説得したのだった。

 金兵衛たちが嘆願したのは田畑の地租についてだったのだが、山林原野の地租改正について、愛知県では三河が明治十二年十二月、尾張も春日井郡をのぞいて十月に終結していた。

 山林原野が六十パーセントにも及ぶ坂下、高蔵寺地区では、田畑同様にこちらの地租も重要だった。

 山林、特に村人たちが共同で使用する入会地は所有者が明確でないという理由で官有地に区分されたが、春日井郡では農民騒動の影響で明治十三年十一月になってやっと終結した。その際、山林の多い春日井郡東部についてはほとんどが民有地とされ、これは県側が配慮した結果だという。




 明治十二年三月、愛知県では第一回県会議員選挙が行われ、林金兵衛は最高得点で当選した。嘆願運動で苦労を共にした飯田重蔵と梶田喜左衛門も県会議員となった。

 金兵衛を中心とした彼らは、地租改正問題で疲弊した村々を立て直すために倹約と農業技術の改良をおし進めた。

 倹約といっても、村人たちは贅沢をしているわけではなく、村の生活に入って来た舶来物、洋服・コウモリ傘・靴・石鹸などの品物を特に必要とする以外は質が良くて安い物、つまりお得な品物を選ぼうという勧めである。

 農業技術については、老いた農民の経験を聞く会や種子の交換会を催したりした。この勧農政策には政府と県も協力的だった。

 この年の九月に、私事では娘の嬢子が兄・藤三郎の次男の小参に嫁いだ。嬢子、満十七歳である。

 娘を嫁にやったことで気が抜けたのか、それまでの心労がたたり、金兵衛は床につくことが多くなった。




 住民側の強い要望から、明治十三年(一八七九)二月五日、春日井郡は東西に分けられた。郡役所は、勝川村の太清寺に置かれた。

 このとき、初代東春日井郡長に林金兵衛を推す声が上がった。

 金兵衛は病身であることと、地租改正の問題がまだ片付いていないことを理由に辞退したのだが、県令から「東春日井郡の長となるのは他にはいない」と直々に言われ、やむなく承知したのだった。

 その後、安場県令は更迭され、新県令には国貞廉平が昇格した。

 そしてこの年、政府は「明治十八年まで地価は据え置く」という太政官の布告を出し、地価改訂の約束を反故にした。

 やはりな。

 失望より、そんな気持ちの方が金兵衛には強かった。

 明治十三年十月、東春日井郡長・林金兵衛は、西春日井郡長・櫛田利真と連名で『十年から十三年に至る地税未納金徴収延期願』を租税局長に提出している。

 これより前の六月、東春日井郡では天皇の巡幸を迎えることになり、郡長以下、その準備に忙殺されることになった。

 行幸に先立ち、宮内大書記官・山岡鉄太郎の検分があり、さまざまに気を使うことがあった。

 東春日井郡には、名古屋から信州に通じる下街道が通っている。ご巡幸は六月三十日の早朝、岐阜県の多治見を発して峠を越え、下街道の宿場である内津村・長谷川定七の家で小休止、坂下村の万寿寺で昼食、下原新田の飯田重蔵の家で小休止、勝川村を経て午後には名古屋に到着というものだった。

 この巡幸は、地租の問題で一揆が起きそうになった東春日井郡の住民たちに、天皇の御威光を見せるためであったのかもしれない。




 このようなことがあり、金兵衛の病はさらに重くなった。

 翌、明治十四年(一八八〇)三月一日、余命三か月と言われた息子の国太郎のことを案じながら、「婿の小参を養子にして家を継がせるように」と遺言して、午後十時、永眠した。行年、五十七。


 時代に翻弄されながらも、自らの意志を貫き通した生涯だったといえる。







【参考文献】

『春日井市史』春日井市発行

『林金兵衛翁追憶略記』津田應助著、発行




林金兵衛が庄屋をしていた地域の西の方に、八幡社という氏神様があります。そこの県道側の敷地の端には、錆びた半鐘が今でも釣り下がっており、慶応年間に奉納された石灯籠の台座には、「五穀成就」「天下泰平」と刻まれています。当時の人びとにとって、これが切実な願いであったのが分かります。

幕末・明治維新というと、坂本龍馬・西郷隆盛・高杉晋作など有名な人物が多いですが、土を耕し、地道に生きた庶民にとって、時代の荒波に翻弄されるがままであったことが、それでもなんとかしようとしたことが察せられます。


お読みくださり、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ