五
県は再調査を申し出た金兵衛たちに対して、「全体の分賦は不変」と回答し、「それぞれの村の分賦の変更に留める」とした。そこで十月、勝川で郡議会が開かれたのだが、自分たちの地租が増えるのを嫌った減祖村の西部の議員は欠席し、ついには全員が辞職してしまった。
結局、人びとを分裂させようという、県の思惑に乗ってしまったことになった。このことにより、のちの明治十三年二月五日、春日井郡は東西二郡に分かれることになる。
明治十月十七日、この状況を打開するために、金兵衛は天皇行幸に随行する地租改正事務局総裁・大隈重信に嘆願するため、京都へ向かった。
ところがそこで、警視庁の警視補・中川祐順が金兵衛に会いに来て、「春日井郡の四十三か村に不穏な動きがある。すぐに戻ってはどうか」と言う。
このとき大蔵省奏任御用掛として随行していた慶応義塾門下生の小泉信吉にも、「今は、直訴を中止させるほうが先決だ」と説得され、金兵衛は天皇に近侍している大隈重信と右大臣の岩倉具視宛ての書簡を小泉に託して、急ぎ名古屋へ戻ることにした。
天皇の行幸は北陸と東海地方を回る予定だった。
十月二十五日に美濃路から名古屋へ入り、愛知県の県庁・鎮台・師範学校などをご視察、熱田神宮を拝され、三十日に愛知を発たれると人びとに知らされていた。
人力車を乗り継いで帰ってき、暗くなってから名古屋・大曽根村の定宿に着いた金兵衛は、そこで待っていた郡議員たちから、「明日の二十五日、皆が天朝さまに直訴するつもりだ。集合場所は、三階橋」と聞いた。
「止めねばならん」
と、身体を休める間もなく、金兵衛はそこに急いだ。
幕藩時代なら、直訴すなわち越訴は死罪だ。
金兵衛のあとを、郡議員たちも追った。
三階橋は、名古屋と犬山を結ぶ街道の矢田川にかかる橋で、現在の名古屋市北区にある。
夜半過ぎの星空の下、金兵衛たちが待ちかまえていると、各地から松明や提灯を持った村人たちが集まってくるのが見えた。午前三時頃には村単位で集まり、それが動き出すと、蟻の群れが動くようだ。その数、およそ五千人。
金兵衛と郡議員たちは、橋の上で彼らの前に立ちはだかった。
「みなの衆!」
と、金兵衛は大声を張り上げた。
「直訴すると聞いた。それは、していかんことじゃ。はよう、村へ帰らっしゃい!」
すると、どよめきが返ってきた。
「惣代さんら、東京へ行ってもだめだったがや!」
「そうじゃ、もうこうなっては、天朝さまに直訴するほか、ねえ!」
「高い地租を押しつけられて、わしらにこのまま死ね、いうんか。そんなら、直訴して死んだほうがましじゃ!」
口々に人々が叫ぶ。
「みな、聞いてくれ!」
金兵衛は再び、大声を出して人びとを制した。
「すまんかった。すまんかったのう」
涙声になっている。
人々が静まった。
「みんな、わしらを信じてくれたのに、力が足りんかった。だが、まだ道半ばじゃ。このとき直訴なぞしては、今までのすべてがだめになる。どうか、頭を冷やしてくれ。そして、もう一度、わしらを信じてくれ。わしは再び上京し、本局に嘆願する。ことが遅々として進まんでも、必ず初志貫徹する」
と、そこで金兵衛はさらに声を大きくした。
「もし、わしがこの約束を違えるようだったら、わしの命と財産を取ってくれ! それでも足りんゆうなら、わしを今ここで斬り殺して直訴するが、ええ!」
金兵衛の泣きながらの悲痛な訴えに、誰も声を発することがなかった。
すると突然、金兵衛が欄干によじ登り、川へ身を投げようとする。
「ああっ!」
「いかん、林さま!」
「やめんか!」
どよめきが起こり、近くにいた郡議員と村人たちが金兵衛に飛びつき、そこから引きずり降ろした。
「お覚悟のほど、よう、わかりました」
金兵衛を引き止めた農民が言った。首謀者の一人のようだ。
そして振り返り、群衆に向かって叫んだ。
「みんな、林さまの顔を立てて、解散じゃ! せっかく集まってもろうて悪いがの。家へ帰ろうぞ!」
呼び掛けに答え、集団が散ってゆく。
「ありがとう……ありがとう……」
地面に尻餅をついた金兵衛が繰り返す。
「良かったのう」
仲間の郡議員たちが両脇から支えて、金兵衛を立たせた。
夜明け前の一番暗い時刻。寒々とした秋の風が吹き始めていた。
この騒動をお聞きになったとかで、後日、金兵衛に大隈重信を通じ、天皇陛下から白羽二重のお召し物一領が下された。
「ご褒美より、地租を下げてくれれば良いものを」
使者から、それをありがたく押し頂きながら、金兵衛は思った。
三階橋での顛末は、新聞によって全国に報道された。
その記事では直訴を止めたということと、地租のことよりも、聖上陛下の御威光が喧伝された。
国学を学んだ者ならば、天皇が尊い存在だと理解している。しかし、庶民はそうではない。お偉方といえば、将軍、その下の諸大名の殿様、身近では代官――そんな意識だったのを、この各地への行幸で天皇の聖性を知らしめようと明治政府の中央にいる者たちは画策したのだった。この事件は、それに利用されてしまった観がある。
十一月七日、金兵衛たちは再び上京し、三河屋与右衛門と福沢諭吉、その門下生たちの助力を得ながら、地租改正事務局に嘆願書を出した。しかし、却下。
四度出したが、いずれも却下される。
この間、県はいちいち不採用であったことを地元の人びとに知らせた。
たわけの上役は、たわけじゃの。気を折らせるためじゃろうが、みなを動揺させて一揆でも起こされたらどうする。
金兵衛は思い、嘆願の結果を電報で報せ、風聞に惑わされないよう、戒めた。
しかし、地元ではなかなか進まない事態に、うっぷんがたまっていた。
十一月二十四日、村人のうち、四百人が農車数両に米俵を積み載せ、大勢で長綱を引いて東京へ出発し、浜松で巡査たちに阻止されて解散を命じられるという事件が起きる。
十二月九日、金兵衛は地租改正事務局総裁・大隈重信と副総裁・前島密の屋敷を訪れ、面会を求めた。会ってくれるまで帰るつもりはなかった。
けれども意外なことに、会ってくれた。だが、話を聞いてくれただけで、諾とは言わない。
その頃、春日井郡東部の村々には不穏な空気が漂い始めていた。
農民たちが竹槍を用意し、早鐘をつき鳴らして集まったところを、取り鎮められるという事件が起きた。
政府は愛知県に東京警視庁から警部補を特別に派遣し、県は和尓良村・田楽村・牛山村・坂下村などの六か所に臨時の交番を設置し、大勢の巡査を配置して村々を威嚇した。
村人たちは寺や氏神に集まり、夜は鐘・太鼓を叩いて気勢を上げた。
農民たちの動向を探ろうとして、村に潜入した私服警官が泥棒と間違えられ、村人に捕縛されたこともあった。
嘆願は手詰まり、地元の様子を知るにつけても、金兵衛は進退窮まり、絶望した。
明けて明治十二年(一八七九)二月二日には、県の圧迫に屈して高蔵寺村が離脱し、反対運動をするのは、四十二か村となった。
このような状況の中、金兵衛は現在の山形県庄内地方、酒田県の農民たちが司法省に雑税の不正事件を訴えた結果、地租も減祖されたことを参考に、上級裁判所へ訴えることも視野に入れ始めた。
けれども、これまでに使った諸経費は約九千円、当時この金額で米を購入すると約一千八百五十石にもなり、村人たちにとって莫大な費用だった。裁判となれば、これ以上の金と時間がかかることは確実で、なかなか踏み切れるものではなかった。