四
結局、春日井郡の東部では、旧祖にくらべて新祖が五割以上高くなった村が三分の一以上あり、二倍以上という村も十六か村を数えたのだった。
それでも、県の承諾書請求を拒否し続けたのは、金兵衛のいる和尓良村だけだった。
脅し、反目させ、分断し、孤立させる。これは、強権的な為政者の使う常とう手段なのだが、どうやら成功した。金兵衛が中心になって、反対しなかったら、尾張の地租改正はこれですべて終わりになるはずだった。
もともと年貢の重かった三河では、減祖となったので、明治十年五月に田畑宅地における地租改正は終了した。
尾張では、一度は承諾書を提出した田楽、牛山、上条新田の三か村が金兵衛たちの反対に力を得て、再び拒否に転じた。そのため、この四か村をのぞいて、明治十年九月に一応、終結となったのだった。
荒木は春日井郡改租不成立の責任を取って免官となり、高知県へ転勤していった。
しかし、それで問題が解決したわけではなかった。
『正しい手順で改租の手続きをやり直してほしい』
それが金兵衛の主張だった。この嘆願を、金兵衛は荒木の上役、尾張国地租改正総理・岡田孤鹿、さらに上の野村一等属大書記官、国貞廉平大参事に面会を申し込み、再三にわたって嘆願を繰り返したが、みな一様に「考え直すことは何もない。早く承知すべきことである」との回答を得るだけだった。
大参事の国貞は、安場と共に地租改正を進めるために愛知県へ赴任してきた。彼は山口県士族だったため、長州閥に属し、中央の事情をいささか知っている。
元薩摩藩士の松方正義は、「地租改正事業は、農民の反対があっても推し進めねばならない」と主張したが、桂小五郎こと木戸孝允は、天保二年(一八三一)に萩藩全域と支藩徳山藩領に起こった防長一揆、または長州藩大一揆の惨状を聞き知っており、地租改正のやり方そのものを危惧していた。
米価が下落し、茨城県と三重県に地租改正反対一揆が起きると衝撃を受け、地租を減ずるよう大臣たちを説得した。松方正義も米の買い入れによる米価の買い支えだけでは乗り切れないと判断し、大久保利通に地租の軽減を行うよう提言していた。
そして地祖が引き下げられたのだが、国家収入の八割以上が地租によってまかなわれている現状では、こちらもこれ以上、譲歩するわけにはいかない。
植民地にならず、欧米列強と互角に対していくために、地租改正は絶対に後戻りさせてはいけないというのが政治行政に関わる者の想いだった。
それでなくとも、明治七年に佐賀、九年に熊本、福岡、山口と士族の反乱が相次ぎ、今年の二月から鹿児島で戦(西南戦争)が始まり、この九月二十四日にやっと終結したばかりだった。
政治的にも経済的にも、国内はまだ不安定で、不安の芽は早めに摘み取っておかねばなるまい、と国貞は思っていた。
荒木の後任となった横田太一郎係官がなだめたり、すかしたりたが、金兵衛は決して承諾せず、そのため、四か村の代表者たちが県庁へ呼び出されることになった。
明治十年十二月十日の十時、彼らは地租を担当する第三課に出頭した。そこには県令の安場保和、国貞廉平大参事、野村賀真一一等属大書記官、岡田孤鹿地租改正総理、湯池丈雄区長、堀尾茂助郡銓評議長など、関係者が集まっていた。
そこで横田係官から、請書の提出を迫られ、県令の安場直々に「地価帳を差し出すように」と叱責された。
幕藩時代なら藩主に等しい県令から言葉をかけられ、金兵衛以外の代表者たちは、委縮してしまった。
恐縮の態をとりながら、金兵衛は他県から来た安場たちを「どこの馬の骨かわからんもの」だと思っていたし、国学を学んだのだが、新しい時代に失望し、天朝さまに対する畏敬の念も薄れてしまっていた。今では声を掛けられて恐れ入るのは、旧尾張藩の藩主くらいだった。
だが、この会見で上条新田の者たちは恐れをなし、心変わりをして再び脱落してしまい、拒否し続けるのは三か村となった。
明治九年三月十日に出された諭達に、『利害に関するものあらば、いささかも忌憚なく速に陳述すべし』とあり、本省・本局へ具申すること、とあったので、県ではらちがあかないため、金兵衛は東京の地租改正事務局へ直接、訴えることにした。
嘆願書を書くために経緯をまとめたり、資料をあつめ、写しを取ったりと考え得るかぎりの参考資料を整えた。しかし、東京へ出て、どういう形で地租改正局に嘆願すれば良いのか、分からない。
そこで昨年の九月まで愛知県庁に勤めていて、内務省に転勤していった江原詮請という人物に手紙を書いた。
江原は県庁で他の部署に務めていたのだが、金兵衛たちに同情的で、名古屋を発つ前、「何かあるときは力になるので、遠慮せずに言ってほしい」と言い置いて行ったのだった。
社交辞令だとは思ったが、細い糸でも頼ってみようと書いた手紙に返事がきた。
江原は、金兵衛たちを受け入れてくれることになった。
このことは金兵衛にとって、先に一条の光が射したような思いがしたのだった。
明治十一年(一八七八)一月二十三日、和尓良村・田楽村・牛山村の三か村の代表で金兵衛をはじめとする八名は上京することになった。
村でも大勢に見送られて発ち、歩いて三時間ほどかけて熱田の港に着き、そこから船に乗るときも、村からついてきた人びとの見送りを受けた。船で桑名、そして四日市へ渡り、四日市から発する船で横浜の港に着いた。
金兵衛たちの一行は、横浜のにぎわいに目をみはりながら、陸蒸気と呼ばれた汽車に初めて乗って驚き、新橋に着くとまた、東京の風景に驚いた。洋館が建ち並び、行き交う人の服装も粋で雅だ。まるで別世界のようだった。
しかし物見遊山に来たのではないと互いに戒め合った。彼らは村人たちが苦しい生活の中から工面したお金を持って、上京してきていたのだ。
宿で旅の疲れを癒した翌日、金兵衛は手紙で教えてもらった江原の家を探し、そこを訪れた。
家人に帰宅の時間を教えてもらって出直し、再び訪れると、江原はそこで金兵衛たちを機嫌よく迎えてくれた。
彼らがこれまでの経緯を説明すると、江原は代書屋で旅館も営んでいる三河屋与右衛門に紹介状を書いてくれた。
金兵衛たちはそこに宿泊しながら、地租改正事務局に出す嘆願書やその他の書類を作成した。
そうしているうちに、一度は威圧に屈して調印した下原新田の飯田重蔵たち三名も中切・下津尾・下条原新田の委任状を持って金兵衛たちに合流した。
しかし、金兵衛たちが提出した嘆願書類は三月二十八日に却下される。
そこで三河屋与右衛門は、自分の旅館を定宿としていた慶応義塾生・桐原捨三のもとに代表の林金兵衛と下原新田の飯田重蔵・田楽村の梶田喜左衛門を伴って訪ね、民権家として当時知られていた福沢諭吉への紹介を頼んだ。
桐原は快諾し、師の福沢へ彼らのことを伝えた。その結果、金兵衛たちは福沢諭吉の助言や援助を受け、あきらめずに提訴を続けることになる。
後年、この縁で和尓良村の林金兵衛・安藤新右衛門、田楽村の梶田喜左衛門・河田友三郎、下原新田の飯田重蔵、小牧村の江崎寛など八名が、福沢が設立した交詢社に入っている。これはのちに慶応義塾長、日本銀行取締役などを歴任した小泉信吉が発起人となり、政財界の人びとを中心とした社交クラブで、明治十四年に私擬憲法案を出すなど、自由民権運動の策源地になる組織である。
この金兵衛たちの活動を読売新聞が取り上げたことから、他の新聞も記事にするようになり、帝都の人びとは歌舞伎で演じられる伝説の義民・佐倉惣五郎を、愁訴を続ける彼らに重ね合せた。また、宅地も新税で納めていることから、都会の人びとにも地租は関心のあることだった。
その間にも、春日井郡では同調する村が増え、小牧原新田の江崎孫左衛門たち六名の郡議員が三十か村の代表として上京してき、全部で四十三か村が金兵衛たちと歩調をあわせることとなった。
この四十三か村というのは、西部の五か村以外、すべて春日井郡東部の村々で、みな増祖となる村だった。減祖の村は一村も参加していない。
五月に再願するが、却下。しかしこの月の十四日、大久保利通が暗殺され、地租改正事務局の総裁が大隈重信に代わった。
代表たちが皆で話し合った結果、戦術を後退させ、「郡内の租額を公平にしてほしい」という嘆願書を六月に出した。
それに対して、地租改正事務局も譲歩し、「県庁にて再調査し、本局に再提出するなら、本局においても再調査あり得る」という回答を得た。
少なくとも事態は前進した。金兵衛たちはお世話になった人びとにお礼の挨拶に回ったのち、七月に横浜から船に乗り、帰路についた。
熱田の港に代表一行が着くと、そこには出迎えのため、およそ二万人もの村人が出迎えたのだった。