三
奇しくも、金兵衛が荒木たちと会談したその二日前の十一月二十七日、茨城県真壁郡吉間村で、地租改正に対する強訴事件が起き、三十日には民衆が蜂起。のちに真壁一揆と呼ばれるこの事件は百六十四名の逮捕者を出した。これは県北にも波及し、十二月八日から十日にかけて小瀬一揆が勃発し、死刑三名を含む一千九十一名の処罰者を出した。
続いて、春日井郡で鎌止めの解かれた翌日の十二月十八日、伊勢暴動、東海大一揆とも呼ばれる地租改正一揆が三重県で発生する。
これは、魚見村(松阪市)の農民が租税取り立ての延期を申し入れるために櫛田川の河原に集まって来たことから始まる。
そこへ同じ要求の他の村の農民も集まり、組頭・戸長・区長・巡査が説得にあたっているうち、一千人の大集団となった。これに対して、巡査が挑発したため、多くは北上して松阪へ、一部は南下して三重県支庁のあった度会郡山田(伊勢市)へ集団で移動。松阪の市街に入った集団は銀行を焼き討ちし、戸長宅を破壊する。
この夕方に一志郡に集まった農民集団が県庁所在地の津市に向かっていった。津では県令・岩村定高が内務卿・陸軍卿や各鎮台に打電して出兵要請をした。軍が防衛したため、一揆の集団は津に入ることが出来ず、県庁が派遣した士族と戦い、敗走した。
他へ向かった農民の集団はふくれあがり、伊賀、鈴鹿、亀山、四日市、桑名、員弁郡、山田、鳥羽で銀行・学校・役所など政府に関係する施設を襲って焼き討ち、打ちこわしを行った。この集団は、桑名から長島を越えて愛知県の前ヶ須(弥富市)に上陸し、愛知県の農民を巻き込んで津島に向かった。明治九年の十二月二十日の夜から、二十一日にかけて、尾張地区の海東郡や海西郡で暴動が起こった。
荒木利定は、この地域の近くが担当で、ましてや春日井郡では不穏な動きがある。暴動の報を受けた荒木は、金兵衛たちを追いつめる手をゆるめず、一方で巡査を集めて警戒したのだった。
三重の一揆勢は揖斐川を越えて岐阜県にも入り、各地で焼き討ちをしながら現在の海津市で警官隊の攻撃を受け、崩壊した。
岐阜県の一揆は四郡五十一村に被害をもたらし、十二月二十三日に鎮静化して、百四十八名の逮捕者を出した。
三重県については、二十四日に終結し、死者三十五人、負傷者四十八人、指揮をした大塚源吉が絞首刑、終身の懲役刑三人を含む処分者五万七百七十三人という損害を出し、政府軍が勝利した。
大久保利通は地租改正が早期に進まなかったことで焦っており、茨城県の一揆が起きたときに減祖することを決めていたが、茨城の一揆がすぐに鎮圧されたことで撤回。ところが、三重県の一揆を受けて、十二月三十一日の朝に閣議を招集し、年が明けた明治十年(一八七七)一月四日に、地租を二・五パーセントに引き下げた。
地租が下がっても、金兵衛たちの闘いは終わらなかった。
明治十年三月十七日、県は見込みの村位に基づいた収穫高の確定を命じた。
郡議員代表の金兵衛はこれを拒否する。
村位も不公平だが、田畑の等級も他郡の二十五等から三十五等の幅に対して、春日井郡には田十三等、畑十五等の幅しか認めず、これも根拠がなく、不平等だった。また、春日井郡の西部はおおむね平坦で水にも恵まれ、交通の便も良かったが、金兵衛たちの住む東部は山がある丘陵地で、水に乏しく交通の便も悪かった。
室町時代の応永年間に、金兵衛の先祖・重之が私財を投じて灌漑用水路を開削し、それは上条用水と呼ばれて、のちに周囲の村々も参加して改修して以来、用水は近隣の田畑を潤していた。他にも用水路が作られ、その水によって、東部の住人は作物を作っていた。
この春日井郡東西の地域差を無視して、収穫米代を同じ米価で計算されると東部は圧倒的に不利だった。
代表の金兵衛が断固拒否を続けるので、荒木は二十一日、金兵衛が病で郡会議を欠席したすきをついて、他の出席者に対して捕縄をちらつかせて脅し、郡議員に各村の収穫予定書を出させようとした。怯えた議員の中には、言うなりに提出した者もいた。
金兵衛は、「このような不順序の無茶苦茶な議事に責任はとれない」と言って、三月二十八日に辞表を提出した。
後任の議長には荒木の指示で、関田村の堀尾茂助が選任された。
茂助は文政十二年(一八二九)二月十八日生まれで、金兵衛の四歳年下。春日井郡関田村の豪農・堀尾家の長男で、初代松江藩主・堀尾茂助吉晴の弟・治郎助吉勝の子孫にあたる。子どものころに疱瘡(天然痘)を患い、右目を失明した。あばたの顔で隻眼となった自分をはじて、引き籠るようになった息子を両親は心配し、武芸を柿沼義春、学問を小林宣泰に学ばせた。この二人は金兵衛と共通の師である。父・吉重が十二歳のとき亡くなると、悲嘆にくれる茂助に師の小林は『日本外史』の著者として有名な頼山陽の漢詩を引用して、彼を励ました。のち、弘化元年(一八四四)、十六歳で里正[村長]となり、嘉永年間には、春日井郡の惣代や総庄屋を勤めた。元治元年の長州征討の際には、徳川慶勝の軍勢に従い、百三十余か村の役夫五百人を率いて武器弾薬・兵糧などを広島まで運搬した。戦後、地域の人びとの暮らしの安定に力を尽くすと共に、弟・義秀と一緒に邸内に演武場を設けて若者たちを訓練し、藩主に願い出て『忠烈隊』という義勇隊を編成。その隊長に任じられた。
経歴は金兵衛に似ているが、茂助は慎重な性格で、長いものに巻かれて後に禍根を残すよりは今、問題を正すべきだという金兵衛の姿勢に対し、茂助は在る程度苦いものを飲み込んでも、今の平穏を乱すべきではないという態度であった。そのため、この時点では県側に近い立場にいた。
二人とも、一揆で犠牲者を出したくないという点では同じだったが、合法的に自分たちの正しさを貫こうという金兵衛と、お上には逆らえないとあきらめていた茂助との違いが数年後、彼らの地租改正嘆願の結果の違いとして現れてくる。
金兵衛の後任となった茂助は、郡議員たちと懸命に収穫予定書を作成した。
だが、荒木は郡議員が提出した収穫予定書を破棄し、県側で作成した収穫分賦書の調印を各議員に要求した。これは、予定の総地租を確保するために、村位等級に応じて各村に割り振ることをあらかじめ決めていたのだった。
六月二十一日、村議員を集め、荒木は、
「このうえ不満を申し立て、これを請けないのなら、朝敵ゆえ、皇国の地には置かず、家族老若男女、村中残らず外国へ追い払う」
と脅し、一室に閉じ込めて帰宅させず、食事もさせなかった。この脅迫に屈して従った村議員は、十のうち七、八人にものぼった。
これによって、不服のある村も泣く泣く調印したのだが、最後まで金兵衛の和尓良村だけが拒否したのだった。
七月二十二日、いまだ服従しない和尓村の村議員三十六人を荒木は名古屋改租調所に召喚し、請書の承諾を迫って返さなかった。ここに及んで、村議員たちのほとんどの気力がつきた。
夜、荒木の従者の監視の目を盗んで、一人の村議員が連れて来ていた下男を呼び寄せ、金兵衛を呼んでくるよう、使いに出した。
男が夜道を二時間かけて名古屋から村へ戻り、金兵衛の家に着くと、そのとき彼は、危篤状態の息子・国太郎の枕元にいた。
このとき国太郎は満十九歳、生来病弱な息子が生きるか死ぬかのときである。
金兵衛は、動かなかった。
急を聞いて、村人が松明を持って集まってきた。留め置かれている村議員たちの家族と親類縁者を中心に四百人ばかりがいた。
「林さま。あれらをどうか、助けてやってください」
「お願いします」
人びとの哀願を聞いて、金兵衛は立ち上がった。
国太郎も苦しい息をしながら、うなずいている。
玄関を出るところで、妻が火打石を打ち、火花が散った。
「あとのことは、お気になさらず」
思えば、戊辰戦争の頃も各地を転戦している金兵衛の留守を、この妻は護っていてくれた。
彼はうなずき、家を出た。
このとき、金兵衛は数え年五十三歳、六尺(百八十センチ)近い体躯をし、眉は秀で眼光は人を射るよう。鼻は高く、口元は引き締まっていて、髭をたくわえ、威が備わっていた。
夜道を駆け抜け、改租調所に着いた金兵衛は門番に荒木係長がいるか問い、荒木がいると知ると、面会を申し出た。許可され、一室で荒木と対峙する。
その間、追ってきた村人が到着したのか、外が騒がしくなった。
通された執務室に入ると、荒木は事務机を前に座っていた。
「うちの村のもんを、返してもらいにきました」
挨拶も抜きで、金兵衛はいきなり用件を述べた。
「返さんとは言っておらん。やるべきことをしたら、返してやる」
荒木は尊大に言葉をかえした。
「押し込め、承諾者に爪印を押さんと解放せんとは、県の役所はいつからあこぎな金貸しにならァした。それとも、あんたさん、前は高利貸しの用心棒でもやってござったか」
「百姓の分際で無礼な!」
少し挑発しただけで、荒木は激高し、椅子を倒す勢いで、立ち上がった。
「百姓といいなさるがね」
と、金兵衛は、ずいと前へ出て、荒木と顔を突き合わせた。
「『農は国の基本である』と、学問所で習わんかったんかね?」
足軽身分では、ろくな教養はなかろうと、さらに金兵衛は挑発した。
「その、あんたらが馬鹿にする百姓が徳川三百年、あんたら、さむらいを食わしとったんじゃ」
ぎろりと睨むと、荒木は怒りのあまり、唇を震わせた。
「あんたさんは、この無茶苦茶な土地の評価を承諾せんと、『朝敵だ』と言われたが、わしは鳥羽伏見のいくさのとき、御所の門を護っておった。あんたさんは、そのとき、どこにおらしたかね?」
「きさまァ!」
怒鳴った荒木に言葉を被せて金兵衛は言う。
「わしは、そのときのご褒美で倭絹をいただいておる。そのわしを、朝敵というは、誰じゃ!」
金兵衛が一喝すると、荒木はすとんと腰を下ろした。方針について言い争うことはあっても、これほどの怒気を発した金兵衛を見るのは初めてだった。
「あんたは百姓をなめくさりすぎておる。脅して取った承諾書やその他の書類なんぞ、焼き討ちをかければ、一瞬で灰じゃ。わしら惣代は皆が一揆を起こさんよう腐心してきた。一揆になれば、こちらも被害が出るが、そっちも同様だということは、三重のことで知っておろう。『窮鼠猫を噛む』という言葉通り、お上をおそれておとなしい百姓たちも、我慢できんようになったら、自分らの命をかけて一揆を起こす。こんな非法をして、あんたさんは、そのきっかけをつくりたいんかのう」
しばらくの沈黙のあと、うつむいたまま、荒木が答えた。
「……わかった。連れ帰るがいい」
そのとき、ノックのあと、ドアが勢いよく開いた。
「申し訳ありません、荒木さま。外で松明を持った農民たちが騒いでおります。どうしたら……」
「全員、返してやれ」
ぼそりと言った荒木とその前にいる金兵衛を交互に見た職員は、すぐさま引っ込んだ。
金兵衛もそこを出た。
脅しには脅しじゃ、と腹をくくった戦法が功を奏したようだった。
村議員たちが次々と建物の中から出て来て、外にいた家族や知り合いと喜び合っている。
彼らは金兵衛の姿を見ると、口々に礼を言った。
「よう、がんばったのう。みなの衆、さあ、帰ろう」
答えた金兵衛は歩き出した。
田宮さまが生きておらしたら、もっと違ったことになっておっただろうか。
金兵衛は思った。
新しい世がきたら、もっと暮らしが楽になると思っていた。しかし今は、それ以上に悪い。
あんな、やくざモンをはびこらすために、わしらは戦ったんじゃない。
虚しかった。悔しかった。
それでも、生きていかねばならない。これまでも、これからも。
皆で矢田川にかかる橋をわたり、庄内川近くまで来たとき、東の空が白み始めた。
そのとき、屋敷のある方角から男が走って来るのが見えた。
「国太郎さまが……」
息を切らせてきたその男は、金兵衛の家の使用人だった。
「……峠を越したと、鳥居さま……お医者さまが……」
「そうか、助かったか」
その報せだけで、心が軽くなった。
「良かったのう」と、村人たちが我がことのように喜んでくれ、彼らはそれぞれの家へ帰って行ったのだった。