一
幕末から明治にかけて生きた、ある男の話をしよう。
男の名は、林金兵衛。文政八年(一八二五)一月に尾張地方、濃尾平野を流れる庄内川に近い上条村で、庄屋の次男として生まれた。
ときの将軍は第十一代徳川家斉で、江戸では読本・歌舞伎・浮世絵など享楽的な化政文化が花開き、ロシア・イギリス・アメリカの船が薪や水などの補給を求めて、たびたび来航していたため、徳川幕府は沿岸の諸大名に接近外国船の即時撃退を命じる異国船打払令を出した年でもある。
そんな騒ぎも片田舎には影響なく、生まれた子は亀千代と名づけられた。長じては通称・太助、または仙右衛門とも名乗った。
林家は、木曽義仲の乳兄弟で最後まで付き従った今井兼平の末裔、かつてあった上条城の城主・小坂氏の子孫と伝わる。改姓して、林となったという。
戦国の頃、天正十二年(一五八四)の小牧・長久手の戦いの際、先祖の林重登は、秀吉方で亡き織田信長の乳兄弟・池田恒興の要請を受けて古い砦などの修理をし、道案内をした。その二年後の天正十四年(一五八六)、豊臣秀吉は上条城や吉田城、小牧にある多くの城を取り壊すことを条件に戦いを終結させたので、上条城の天守閣をはじめとする建物はほとんどが壊され、その跡地に重登は屋敷を建てた。戦のあと、豊臣秀吉が自ら兵を率いて少しの間、この地に滞在したことがあり、そのときの礼として、秀吉は林重登を春日井郡五十七か村の総代庄屋に指名した。春日井郡とは、現在の愛知県名古屋市の一部、瀬戸市、春日井市、小牧市、尾張旭市、北名古屋市、清洲市、西春日井郡豊山町を含む区域である。
のち、林家は徳川の世になっても代々、庄屋を勤めていた。
戦国までの村といえば、それ自体、一つの自治組織で運命共同体でもあった。
乙名や沙汰人などを指導層として若者が武器を持って村の警護を行い、寄合の衆議によって掟が定められ、裁判も行われた。
合戦ともなれば、各陣営の足軽たちは自分たちの取り分として、村の田の稲を勝手に刈り、家財を略奪し、女性や少年少女を強姦して、村の老若男女を売りとばした。合戦に巻き込まれて、一つの村が消滅することもたびたびあった。身代金を払える者は帰ることができたが、そうでなかった場合、下人つまり奴隷として売り買いされ、遠くは東南アジアまで売られていく者もいた。
そのため、村は武装し、村の指導者たちは合戦する武士たちの動向を見極め、味方になるか、あるいは金を払って戦場にならないよう交渉した。
他にも、領主の非法を訴えたり、年貢減免を求めての交渉をしたりする一方、水や境界の争いで村同士が合戦することもあった。
天正十三年(一五八五)の七月に関白になった豊臣秀吉は、十月の初め、九州に惣無事令の先駆けとして、領地争いの戦闘をしていた大友氏と島津氏に対して、「国郡境目の相論は自分が裁く。敵味方ともに戦闘をやめよ」と告げ、秀吉の裁定を拒否した島津氏に対し、大軍を送って裁定の強制執行をした。同様のことを関東・奥州へと広げ、全国の合戦を停止していった。
惣無事令とは、戦国大名たちの合戦の本質は領土紛争であるから、「もし領土争いならば、裁判によって平和裏に決着がつけられる。戦は放棄できる。裁判は自分が引き受けよう。もし提案を無視すれば成敗する」というものである。
秀吉は刀狩と並行して、海賊停止令によって倭寇・海賊行為を禁止。村においては、喧嘩停止令によって、合戦によらず、裁判で問題を解決するよう求めた。
この喧嘩停止令は徳川の世にも引き継がれ、寛永十二年(一六三五)の徳川家光の出した法令は、村の法を村ごとに集成した『五人組帳前書』にも収録されている。
徳川幕府は村の組織として、中世の惣村を解体することなく、ゆるやかに取り込んだ。
村の構成員は土地を持って年貢を納める本百姓(惣百姓)、土地を持たずに耕作に従事する一方、他に本業を持つ水呑百姓、土地を借りて年貢代込みの借地料を払う小作人。徳川幕府は本百姓を五人組制度によって統制し、その上に村役人を置いた。
村役人は、代官などの地方役人の下で村政にあたり、東国では名主・組頭・百姓代、西国では庄屋・年寄・百姓代と呼ばれる村方三役のことである。
名主・庄屋は今でいう村長で、江戸時代の初めには、戦国大名の家臣だった上層の百姓や惣村の指導者・乙名百姓の末裔などが任じられた。のちには、一代かぎりで年番や入札(選挙)で選ばれることもあった。彼らは村を統轄し、法の伝達や年貢・諸役の割付・徴収にあたった。藩などから、名主・庄屋給として、給米を高引と称した年貢の減米という形で受け取っていた。名主・庄屋の上にあって、数村から数十カ村を統轄する大庄屋が置かれることも多かった。
名主・庄屋の補佐をする組頭・年寄は村内の有力百姓から複数人選ばれた。一代限りではあったが、名主・庄屋に準じ、給米の支給や高役減免の特典があった。
尾張藩において頭百姓という百姓代は、村役人の不正を追及する村方騒動が頻発した田沼時代・江戸中期以降に置かれ、名主・庄屋の目付役として年貢割付や村人用出納の監視にあたり、その役目から、読み書きや算術のできる中農層から選ばれた。
一般的に名主・庄屋は二十石以上、本百姓は十石以上の石高を持つ者と定められていた。幕府の同心が三十俵二人扶持。地方藩で最下級の武士・足軽が年棒三両一人扶持か十五俵二人扶持で、妻を持てるか持てないか、という薄給だったのにくらべ、一石は十斗、四斗で一俵の計算でいくと、庄屋は五十俵、本百姓は二十五俵となって、単純に比較すれば、下級武士よりは収入が多いといえる。
また、名主・庄屋の屋敷は上客を迎える玄関、武士や庄屋仲間の応対のための奥座敷があり、軽い裁判権も与えられていたので、白洲も備え、多くの使用人が屋敷で働いていた。百姓身分でありながら、代官所並みの規模といっていい。
金兵衛こと太助少年は八歳になると、富田主水の寺子屋に入り、国学や漢字・書道などを学んだ。
国学とは、『古事記』や『日本書紀』の研究を中心に日本固有の精神を明らかにしようとするもので、伊勢松坂の人・本居宣長によって大成された。平田篤胤によって神道的要素がもりこまれてからは、幕末の尊王攘夷運動の思想的源流の一つとなるものだった。
さらに天保十年(一八四九)、父の重郷が屋敷地内に『三餘私邸』と称する武道場を建てた。そこに、剣については尾張藩士の近藤勝右衛門、柿沼義春、弓術は星野勘左衛門などを招いて近在の若者と共に教えを受け、ときには国学者の小林宣泰の講義を聞いた。太助少年、数え年十五歳のときのことである。
武道場を建てたことは藩主の耳にも入り、父の重郷は大刀一口を賜った。百姓身分は、小刀の脇差は持てても、大刀は持つことは許されず、名誉なことであった。侍身分に準ずるという意味もあったのかもしれない。この前年に長兄の藤三郎重行が同じく庄屋の小原家を継ぐために養子となったので、総領は太助となる。
それに先立つ天保四年(一八三三)から、この天保十年まで世にいう天保の飢饉が起こり、全国の各地で打ちこわしや一揆が頻発していた。また、天保八年(一八三七)には、大塩平八郎の乱、生田万の乱が起こっている。
この地方は天保の飢饉の際、草の根を食べるほどのひどい状況にはならなかった。それでも、作物が育たなかったのは同様で、苦しい時期を過ごした。また、文化・文政の頃には、娯楽本はともかく、手習いや儒学に関する書物は日本全国どこでも手に入る本のネットワークがすでに成立しており、村の読書人階層である庄屋の林重郷にも他国の飢饉の悲惨な有様や各地で起こった一揆の情報は届いていたと思われる。武道場を建てて、息子と村の若者に武術を習わせたのは、その危機感の現れかもしれなかった。
太助が二十二歳のとき、弘化三年(一八四六)に尾張藩からの命で父・重郷が里の若者を率いて鳥羽に従軍することになった。
庄屋が手勢を率いて藩の武士たちと行動を共にするなど、それまでなかったことだ。外国船が数多来航していることが、身近に迫ってきたことを知る出来事だった。
重郷は無事に帰ってきたが、嘉永二年(一八四九)、太助が二十五歳のとき、病を得ていた父が亡くなり、家と名を継いで、彼は金兵衛と名乗ることになった。字名は重勝。
この四年後の嘉永六年(一八五三)にアメリカ東インド艦隊司令官ペリーが軍艦四隻を率い、浦賀に来航し、日本中が大騒ぎとなった。
庄屋となっていた金兵衛は、時代が変わりつつあるのをその目で見、肌で感じることになる。
しかし、私事としては、安政元年(一八五四)、三十歳のとき、丹羽郡犬山村の岩田しやうを妻に迎えた。当時としては、晩婚である。のちに国太郎、嬢子という一男一女が生まれた。
庄屋は農村支配の末端に位置づけられたため、領主と村の人びとの利害の板挟みとなる立場だった。しかし金兵衛は調整力に秀でていたようで、安政五年(一八五八)三月、三十四歳のときに水野陣屋総庄屋という地位につくと、上条村をはじめとする近在の村々のために力を尽くし、人びとから厚く信頼されたという。
同じ年の九月には十六か村の総代となり、次いで近くを流れる玉野川の通船締役、翌々年には味鋺川通船締役を藩から命ぜられた。
そして文久元年(一八六一)十月、皇女和宮が将軍家へ降嫁のため、中山道を通る際の御用役に任じられ、下原村の伊藤定助と共に多くの村方人足を率いて中津川宿と三留野宿へ向かい、人馬の世話、本陣の警固にあたった。
尾張藩の藩祖は、徳川家康の第九子・義直。藩領は尾張一国と美濃・信濃・三河・近江・摂津の一部を含む大藩で、信濃国木曽地方の豊富な木材資源も藩財政を助けた。支藩は美濃高須藩。
儒学と神道を好み、堅実な藩政を行った義直だが、直系は九代までしか続かず、十代から十三代の藩主は将軍家周辺から迎えた養子だった。ことに十一代藩主・斉温は在世中、一度も尾張に入国せず、江戸暮らしをし、藩士を失望させた。そこで支藩の高須松平家から、文政七年(一八二四)生まれの松平秀之助、元服して義恕を藩主として迎えることを中下の藩士たちから渇望されたものの、それが実現したのは、嘉永二年(一八四九)に十三代慶臧が死去したことによる。
尾張藩の十四代藩主となった義恕は、第十二代将軍・徳川家慶から偏諱の授与を受けて、初め慶恕、のちに慶勝と改名した。
藩士たちから就任を望まれた慶勝だが、将軍家との血縁が薄いことから幕閣や尾張家御年寄衆から、それまでの当主より一段低く見られていた。そのためか、幕末の慶応四年には、付家老の成瀬氏の犬山、竹腰氏の今尾が分離して立藩した。
慶勝は藩主就任後、倹約政策を主とした藩政改革を行い、幕府に対しては対外強硬論を主張して、老中・阿部正弘たちの不興を買い、安政五年(一八五八)の日米修好通商条約の調印に際しては、大老・井伊直弼に抗議したことにより、それが咎められ、のちに安政の大獄と呼ばれる弾圧で、隠居謹慎を命じられた。そして、慶勝に代わって、弟の茂徳が十五代藩主となった。
二年後の安政七年(一八六〇)、井伊直弼が桜田門外で暗殺されると、慶勝の謹慎は解かれ、第十四代将軍・徳川家茂の補佐を命じられる。
文久三年(一八六三)に茂徳が隠居して慶勝の実子・元千代のちの義宜が十六代藩主になると、付家老・成瀬正肥や田宮如雲ら尊王攘夷派の後見として慶勝は復権し、彼に批判的な付家老・竹腰正富たちによって茂徳が擁立され、尾張藩は慶勝と茂徳を旗頭に尊王攘夷派と佐幕派が対立することになる。
藩の上層部がそのような事態になっていた文久三年のある雨の日、上条村の金兵衛の屋敷を勤王派で城代家老の田宮如雲が訪ねてきた。
田宮は文化五年(一八〇八)に尾張藩士の大塚家に生まれたが、のちに町奉行の田宮半兵衛の養子となって、田宮弥太郎篤輝と名乗る。如雲は晩年に改名したものである。下級武士たちをまとめて金鉄組を立ち上げ、十一代藩主斉温の後継として高須藩の松平秀之助を擁立する運動を起こした。そのため、天保十年(一八四八)に目付から中奥小姓に左遷される。のちに町奉行になり、慶勝が藩主になると、勘定奉行、小納戸頭、側用人に次々と任じられ、藩政改革に取り組んだ。安政の大獄で主君・慶勝が蟄居謹慎となると、如雲も閉居したが、文久二年(一八六二)に赦され、翌文久三年、城代に就任した。金兵衛の屋敷をおとずれたこのときは、城代家老になって間もない頃だった。
国学の素養がある金兵衛は初対面であったにもかかわらず、如雲と身分の差を越えて親しく語り合い、「徳川家は臣下であって、天下の主は京におわす天子さまである。より良き世を作り、外国に対するべきだ」と意気投合した。
この出会いがのちに、庶民の軍・草薙隊の結成につながっていく。
翌年の元治元年(一八六四)、幕府が第一次長州征討を行う際、徳川慶勝は征討軍総督に任じられ、薩摩藩士・西郷吉之助を大参謀、側近の田宮如雲を参謀の一人として伴い、出征した。つぎの第二次長州征討のときには反対し、上洛して御所警護の任についた。
この第一次長州征討のとき、三月に金兵衛は硝石製造方に任じられた。そして出征間近となった十一月に従軍を願い出るが許されず、留まって軍資金を調達するよう命ぜられた。第二次長州征討の際にも、人馬調達の役を藩命で受けている。
藩は惣庄屋の金兵衛が戦場に出るよりも、民政に長じていた彼に兵站の役を期待したようだった。実際に、彼が村々から調達した軍資金は三十万両、士卒は二千八百人、馬は六十余頭に達したという。
そのためか、藩は慶応二年(一八六六)十一月に、水野陣屋金穀取締役に金兵衛を任じた。
「世直し」「いくさ」――そんな言葉が、ひんぱんに耳に入るようになり、村から長州との戦による人夫の徴発や物価の高騰で人びとの生活は苦しく、先行きの不安ばかりが膨らんでいく。
そんなときの慶応三年(一八六七)八月、始まりは東海道吉田宿、現在の豊橋で天からお札が降るという怪事があった。
その神符を祭壇にまつった家は、参詣に訪れた人びとに酒食を振る舞い、高揚した人びとは女装・男装をして太鼓を打ち鳴らし、地元の民謡を歌い、「ええじゃないか」と踊りながら練り歩く。地域によっては、裕福な家へ踊り込んで酒食を要求したり、臨時の祭礼に発展する村もあった。その狂乱が東海道・中山道沿いの宿場や村々、やがては近畿・中国・四国地方に広まっていく。
春日井郡でも、田楽村でお札が降ったという。
やがて領主の取り締まりなどで、翌年の四月にはこの騒ぎは収まっていった。
朝廷と徳川幕府の間で、大政奉還・王政復古と政権の授受が行われていた時期のことである。
徳川慶勝の弟には、茂徳の他に佐幕派の会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬などがいた。
慶応四年(一八六八)一月に朝命によって藩内の佐幕派の粛清を行い、東海道・中山道沿道の大名・旗本領に使者を遣わして新政府恭順の証として『勤王証書』を提出させる活動をすると同時に、慶勝は弟・茂徳と協力して、容保・定敬の助命嘆願を行った。
そして、小松宮彰仁親王の率いる東征軍がさして戦闘を経ることなく江戸へと通り過ぎて行ったこの年の九月、元号が明治と代わる。
第一次長州征討の際、参謀として従軍した田宮如雲は長州藩に寛大な処分を行うことに尽力したため、幕府から嫌われ、慶応元年(一八六五)五月、閉居となるが、同じ年の八月には許され、京都に上洛したのち、慶応三年(一八六七)十二月には朝廷の参与に就任した。
慶応四年三月、田宮如雲が兵を率いて京都市中総取締として出発するとき、金兵衛の率いる六十二名の一隊を草薙隊と名づけ、金兵衛を隊長にして自らの隊に加えた。鳥羽伏見の戦いの際、金兵衛は京都御所の南門の警備にあたっていた。
四月に如雲が甲斐・信濃の佐幕軍を討つようにという勅命を受けると、金兵衛も草薙隊を率いて従軍した。
八月には、田宮如雲が名古屋警備のため、北地総官として美濃太田に駐屯した。そのときも金兵衛は兵を率いて従った。
後年、この戊辰戦争のときのことを聞かれると、金兵衛は、
「城の天守で、ふて寝していただけさ」
と答えた。
九月に元号が代わったものの、藩主が知藩事になり、その行政を担う官吏も藩士が務めたので、従来と何ら変わりがなかった。
翌年の明治二年(一八六九)三月、飛騨で一揆の動きがあった際に、金兵衛は密使として高山を目指した。途中、地元民に捕まり、殺されそうになるところ、何とか脱出し、郷里に帰ったということがあったのだが、それは誰にも、もらさなかった。
そして、六月に御蔵入庄屋となった金兵衛は、郷里の荒廃ぶりを目の当たりにする。
長州征討から戊辰戦争にいたる戦のため、村から男は人夫として駆り出され、馬や特別徴収の税のため、田畑を従来通り作ることが出来ず、また戦のための物価高で尾張藩の村々は疲弊していた。
尾張藩の出征は藩士の負担を増し、農民には年貢の先借りとなって、重くのしかかった。この地域の地頭先納金は、この年、合計八千両にも達したのだった。
明治三年(一八七〇)十二月、清洲ではその年の暴風雨のため、稲が実らず減祖を願い出たのだが、聞き入れられず、一揆となる。
江戸時代の初期、農村は自給自走経済だったのだが、元禄期から商品経済が農村に入り込んできたため、それがくずれ、生活費がかさんで借金をし、そのかたに田畑を取り上げられた本百姓が小作人に没落するということ多くなった。そして、没落する彼らの利益を吸い上げた大地主が出現するようになる。加えて天変地異、凶作、疫病の流行、飢饉などがたびたび起こって農村の窮乏はいっそう激しくなった。幕府は徒党を禁止したが、自分たちの要求を通すため、農村の人びとは一揆を起こした。
江戸の元禄あたりまでの百姓一揆は、年貢減免を求めて村役人が代表として越訴する形で、訴人は磔にされた。享保の飢饉、天明の飢饉、浅間山噴火があった頃には、村役人だけでなく、中・下層の農民が参加する形になり、幕末は年貢減免に加えて世直しも要求に入れるようになり、過激化した。
百姓一揆というと、武装蜂起を思い浮かべる。しかし、闘いのやり方としては、農民が耕作地を放棄して逃亡する、逃散。文書によって手続きを踏んだ上級者への訴えで、合法的な愁訴。訴訟の手続きの順序に従わず、段階を飛び越して行う訴えの越訴。これは、直訴などで、訴訟人は処罰覚悟の上での行動だった。さらに実力行使に及んだ強訴、これに打ちこわしを伴い、地域が拡大すると暴動となる。
豊臣秀吉の刀狩で、士分以外は大刀を持つのを禁止されたが、庶民は小刀の脇差を身近に置いていたし、鉄砲に至っては幕府と諸藩が持つ数より、民間にあるものの方が多かった。けれども、一揆では刀や鉄砲を使用しない。武器を持たず、竹槍を手にした。武器を持たなければ、攻撃されない。これは、農民と幕府・藩との間の無言の合意だった。また、一揆の際、処罰された犠牲者に対して、村が金銭などの物質的な保障をすることをあらかじめ約束した。
一揆となれば、まず参加者の間で連判状が作製される。そして神前で起請文を焼いて灰にしたものを入れた水を回し飲みする。決行当日、篝火を燃やし、松明を持ち、夜を明々と照らして一揆の始まりを告げ、寺院の鐘や半鐘が鳴らされ、ほら貝が吹かれて、ときの声によって、中核となる集団が結集を催促する。俗にムシロ旗というが、村の名を書いた木綿の幟や旗のもとに、人びとが集まって大集団を形づくり、目標の場所に向かってゆくのだった。
清洲の一揆について、藩は刑法推官・橘松彦と金兵衛にそれを収めるよう命じた。
二人は清州に赴いて早川某の家に留まり、地元の人びとの説得にあたった。けれども、一度蜂起したものは収拾がつかず、やむなく首謀者を捕えて一揆を解散させた。
ところが同じ月、金兵衛の地元で一揆が起こった。
清洲と同じく、暴風雨被害と庄内川決壊のため、藩に減祖を要求したが、大代官所管内のみに応じ、他は許さなかったため、騒乱状態になった。
下条・中切・下津尾・上条新田・八田新田の五か村それぞれの村人が結束して東方総管所を襲おうと東谷山[現在の名古屋市守山区]の麓にまで至った。
金兵衛はこれを知って急いで追い、追いついてから人びとを説得し、自分が惣代となって東方総管所と交渉しようと申し出た。東方総管所は、明治になって尾張藩の水野代官所から名を変えたもので、そこには金兵衛の旧知の役人が多かった。
金兵衛が代表となって交渉した結果、米二百石金三千両貸付条件で騒動は終わった。しかし、これを聞いた上大留・下大留・足振・高蔵寺・小幡・印幡・新井・猪子石・大森・上社・下社・本郷・本地・山口の十四の村が騒ぎ出し、金兵衛はまた交渉してなんとか収めた。
だが藩は、先の一揆の首謀者五人に対し、騒乱の責任を問うて捕え、獄につないだ。一揆の首謀者は処刑されるのが普通だったが、命を助けられたのは藩の温情か、翌年に廃藩置県があるという事情もあったのかもしれない。
けれども、金兵衛にとって、その五人は近在の下条村と下条原新田の、よく知る者たちであった。従軍して不在だったとはいえ、これを察知して止められなかったことは、深い後悔とともに、苦い想いが胸の奥底に澱のように沈んだ。