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英領・日本帝国  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ05「第二次世界大戦と日本」

 1939年9月、第二次世界大戦が勃発した。

 

 二度目の世界大戦も、ヨーロッパ中心の戦争であり、基本的には白人同士によるいがみ合いが原因だった。

 植民地や有色人種が関わる要素は、少なくとも優先順位は遙か下にあった。

 あったとしても、誰がどの地域を持っているか、と言う程度の要素でしかなかった。

 

 イギリスの保護国だった日本にとっては、全体主義と自由主義の戦いと言われても、ほとんどの日本人にとっては全体主義と民族自決主義の違いが何なのかすら分からなかった。

 そもそも、ヨーロッパの富める者同士が戦わねばならない事自体理解できなかった。

 日本人達が二度目の戦争の発生を聞いた時に思った事は、ヨーロッパに住む白人は実はとんでもない愚か者の集まりなのではないかという事だった。

 

 しかし戦争当事者達は、大まじめに二度目の総力戦に取りかかった。

 当然日本にも、二度目の厄介ごとが舞い込んできた。

 


 この戦争に際してイギリス連合王国は、先の世界大戦と同様に、全ての英連邦諸国、自治国、自治州、保護国、植民地に対して戦争協力を行わせた。

 日本もその例外ではなく、むしろ積極的に活用された。

 

 イギリス本国は、日本の自治政府に大規模な志願兵の編成を命令した。

 当然ながら莫大な戦費の拠出、戦争物資の提供、国内経済の戦時体制への移行も要求した。

 そして十分な貢献を果たしたと判断された場合に限り、報償として日本に完全な独立を与えるものとした。

 

 つまり日本にとっての第二次世界大戦は、形を変えた独立戦争だったと言えるだろう。

 

 そして完全独立を公式文書とする要求を勝ち得た日本議会は、日本人の独立を勝ち取るために再びイギリスの志願兵となることを全ての日本人に求めた。

 

 1933年に設けられた日本議会の当時の議長だった浜口雄幸は、緊急招集された上院議会において、全ての日本人に「日本独立」のためにイギリス兵となってくれと頭を下げた。

 

 そして日本列島では、「日本独立」を合い言葉に戦争への全面協力が開始される。

 

 協力は軍事面ばかりではなく、日本人の殆ど全てが参加する形となり、イギリスの戦争経済の一翼を担うまでの協力を実施した。

 日本国内では一気にナショナリズムが高揚し、日本人の間では「打倒独逸」「独立達成」が合い言葉となった。

 

 その結果、当時の総人口の3%に当たる180万人もの日本人が兵士として志願し、250万人を超えた英印軍に次ぐ志願兵の軍隊となった。

 当然ながら地域ごとの一人当たり比率ではインドを大きく圧倒して、命令した側のイギリスを驚かせる事になる。

 師団数一つにしても1ダース以上の兵力単位が出現したのだから、驚きもひとしおだっただろう。

 しかもイギリス統治の中で世界各地に散らばっていった日本人移民の多くも、日本列島の独立に対して好意的で協力的だった。

 自らの領内で志願する兵士も後を絶たず、わざわざ日本に戻ってきて志願する者も数多く出た。

 

 第二次世界大戦は、日本人にとってのみ「独立祭り」のような様相を呈した。

 いまだ生き残っている武士達にとっては、「いざ鎌倉」的な雰囲気すらあったと言われている。

 

 戦争に対する日本列島の貢献度そのものも、オーストラリアや南アフリカなどの英連邦を圧倒して英連邦最大規模のカナダに迫ると言われたほどだった。

 ニュージーランドや近在のV.ファー程度の人口規模では、日本とは比較にもならなかった。

 

 純軍事面ばかりでなく、戦時生産の面でも日本だけでイギリスの5パーセント近くを占めることになった。

 戦争に参加しない日本人たちも、総力戦体制の戦争に際してがむしゃらに働いて貢献した。

 命令もされずに熱心に働く日本人の姿に、支配者の側のイギリス人達が呆気にとられたと言われているほどだった。

 


 なおイギリス領日本人の兵士は、1868年の英領日本帝国成立時から「英日軍(ブリティッシュ・ジャパン・アーミー=BJA)」と呼ばれ、傭兵である場合も呼び方に変わりはなかった。

 蔑称でも、「B-JAP」や「BJ」と言われた。

 

 しかしこの戦争での英日軍は、今までと少し違っていた。

 本格的な日本人高級将校が出現したからだ。

 

 先の世界大戦での英日軍将校は、下級将校(特務少佐以下)までとされていたが、この戦争では将軍となる日本人も多数出現するようになった。

 ただし、イギリス軍の中で日本人の扱いが上がったというよりも、巨大な軍隊となった英日軍の将校が極度に不足していた事も強く影響していた。

 英日軍の総司令官ともなった東洋方面軍総司令官のマウントバッテン大将以下、各司令官、参謀の多くは、依然としてイギリス人だった。

 

 ただこの戦争の序盤を経る頃には、イギリス人からBJAと言われるよりも「サムライ・アーミー」と言われることが多くなった。

 この言葉は古くはボーア戦争で当時従軍記者でもあったウィンストン・チャーチルが命名したと言われており、この戦争で一気に広まった呼び方だった。

 そしてそう呼ばせるだけの存在感を、英日軍は持つようになっていた。

 命名者とされるチャーチル首相も、頻繁に「サムライ・アーミー」という言葉を使って褒め称えた。

 

 将軍となった日本人もいわゆる叩き上げであり、英本土の士官学校への日本人の入学は、聴講生以上では認められていなかった。

 しかも日本人貴族(大名)が特例としてのほぼ限界であり、実数に置いて数えるに値しなかった。

 このため日本の将校と言えば年長者というのが相場で、しかも師団長など現場指揮官がほとんどだった。

 中にはブーア戦争を一兵卒で戦い、以後戦歴を重ねてきた生きる英日軍の歴史のようなサムライ・アーミーもいた。

 一方では、イギリスの爵位すら持つような大大名の子息が部隊を率いたりもした。

 

 なお英日軍将校に認められた唯一の日本人の証が日本伝統の日本刀であり、日本人将校達は刀を携えてサムライとして進んで戦場に赴いた。

 

 第二次世界大戦では、英日軍の部隊規模もそれまでの連隊や旅団、師団から、さらに上位の軍団(通称:サムライ・コーア)も編成された。

 また日本人からの多額の献金により建造された軍艦を中心として、貢献に対する例外的な措置として、自治国扱いの「英日海軍(ブリテッシュ・ジャパン・ネイビー=BJN)」も編成された。

 これは先に建造された日本防衛用の巡洋戦艦の生き残りのイギリス太平洋艦隊からの編入に加えて、新たに旧式巡洋艦や戦時型駆逐艦など多数を有する本格的なものだった。

 戦争末期には、潜水艦や護衛空母すら編成表に組み込まれた。

 しかもサッセホ(佐世保)やクレ(呉)、ヨコスカ(横須賀)にあるイギリスが作った高度な整備、修理施設を用いて、日本で建造が行われたものも多い(※ただし駆逐艦以下の軽艦艇に限り、火砲や機関、電子部品など重要部品は英本土などから移入した)。

 これらの事は、母体であるイギリス海軍の巨大さを見せると同時に、日本人が短くないイギリス統治の間に力を付けたことを物語った。

 

 さらに海軍以外でも、日本人パイロットによる多数の戦闘機部隊、パラシュート連隊、機械化部隊までが登場した。

 扱いは日本人識字率の高さなどからインドより上であり、またV.ファー(ファー・ビクトリア)などでの日本人とイギリス人の交流が、イギリス人の有色人への差別感情を和らげたと言われている。

 扱いとしては、ほとんど「自治国軍」だった。

 また日本兵の協力的態度と戦場での献身、そして勇敢さによってイギリス兵からも好評であり、日本の独立に個々のイギリス人自身が理解を示すようになったと言われる。

 

 むろん、人種差別が当然の世の中だったので、相応の差別や反発を買うことも多く、その事が逆に日本人従軍者の団結と戦意の高さに結びついた。

 

 そして日本を独立させると決めた時点で、イギリス本国は容赦なく英日軍を前線に投入した。

 英日軍に与えられた戦場も、過酷なところが多かったと言われている。

 独立させるのだから、日本人が実戦経験を獲得しようがしなかろうが関係ないからだ。

 

 なお、1941年夏頃から英日軍は本格的な戦闘に参加するようになり、地理的関係から主に北アフリカ、イタリア戦線など各地に投入されていった。

 北アフリカのエルアラメイン、イタリアのグスタフラインでの英日軍の奮闘は、イギリス兵の間でも後の語りぐさになった。

 日本兵や日本人部隊に助けられた事で、人種差別や偏見をなくした白人兵士も多かったと言われている。

 

 1942年6月にアメリカが正式参戦しても、イギリス軍だけでなく連合軍の中でも英日軍は注目された。

 日本兵達は、「日本独立」を合い言葉に献身的に戦闘に従事して、相応の実績を築き上げていったからだ。

 また日本独特の「恥」を嫌う風土が、英日軍をより頑健にした。

 

 大戦終盤になると、アメリカに多数移民していた元同胞の「日本人連隊」と共にフランスの平原ですら戦った。

 また海でもUボートとの戦いで優秀かつ献身的役割を果たし、イギリス人にもっと早く日本人に海軍の一翼を任せておくべきだったとすら言わた。

 アメリカ兵達も、横に並ぶなら日本人部隊が良いとすら言う者が多くいた。

 アメリカのパットン将軍は、自軍以上に英日軍を称賛した。

 

 ただし日本人は、上級将校や参謀としては「型」に固執する傾向が強く、今ひとつ柔軟性や決断力、粘りに欠ける者が多いため、イギリス軍内での日本人の評価は今ひとつ微妙でもあった。

 そう言った点から見ても、サムライ・アーミーだったとも言えるだろう。

 


 なお、アメリカ合衆国の日本人連隊は、西海岸出身者を中心に20個連隊、10万人規模にまで拡大した。

 アメリカでの日系の志願兵自体は米軍全体の4%に達する約50万人にも及び、多くが白人の一般的な偏見から後方支援などに従事した。

 しかし前線に投入され、激しい損耗の中で勇敢に戦った連隊も多数あった。

 アメリカの法に従い、従軍仏教僧侶も認められた。

 だがアメリカ国内の人種偏見と白人一般の差別から、実戦部隊は黒人連隊と同様に日本人連隊として人種ごとに括られ、他のアメリカ軍一般部隊とは分けられていた。

 ただし区分けの難しいパイロットやセイラーは別で、少なくない日系将兵が白人と共に戦っている。

 

 そしてアメリカの日本人達が懸命に戦ったのは、アメリカでの自分たちの権利を獲得するためだった。

 つまりは、別の国での日本人達のインディペンデンスだったとも表現できるだろう。

 そして日本人達は懸命に戦い、多くの信頼を得ていった。

 白人達も、主戦場が西ヨーロッパに移ると、白人部隊よりも日本人連隊が横に並んだり増援でやって来る事を望んだという。

 

 アメリカ全体で日本人への差別が黒人に対するより先に少なくなったのも、この戦争を契機としている。

 

 無論黒人連隊、黒人兵もヨーロッパの戦場で戦ったのだが、様々な要素からどうしても日本人達に一歩譲らざるを得なかった。

 この背景には、第二次世界大戦までに、アメリカ国内で日本人の中にある程度の中流階層が生まれ、知識階層を持っていたという点があった。

 アメリカの日本人達は、アメリカ人らしくロビー活動にも熱心だったからだ。

 


 一方、日本人の主戦場は、ヨーロッパや地中海方面以外にもう一つ存在した。

 東アジア戦線、より正確には中華戦線だ。

 

 中華地域では、1930年代に中華民国とナチスドイツが急速に接近していた。

 北亜(+ソ連)と中華民国の対立が、「防共」という面で双方意見が一致したためだ。

 また中華民国は、伝統的にドイツからの武器輸入を行っていた。

 銃と言えばモーゼルというほどだった。

 さらには、国内を市場化している英仏米などから支援を受けてはいたが、半植民地状態には大きな不満を持っていた。

 それがドイツでのヒトラー政権の成立と共に、急速な独中接近(独中合作)を産んだのだった。

 

 しかも中華民国国内には、北亜を追い出された漢民族系の中華ソヴィエトまでが誕生した。

 共産主義国家のソ連も、北亜となった蒙古や満州の利権をいまだに持ち続けている。

 北亜自身も共産主義国家だ。

 ナチスドイツと中華民国が接近する要素は十分以上に存在していた。

 

 そして行動が遅れたイギリスなどの制止を振り切り、1936年に中華民国とドイツは防共協定を締結。

 37年にはイタリアも加わって、独伊中三国防共同盟を結ぶに至る。

 経済面でも、「独中合作」というドイツからの投資と技術支援による工業の建設が行われ、中華民国の富国強兵と軍国主義化を大きく後押しした。

 このためアメリカやイギリスによる援助で進められていた通貨の統合に向けての動きが一旦停滞して、その後ドイツの援助による通貨統合に変化した。

 そして以後数年間は、中華民国は経済が大きく混乱しつつもドイツにとっての良き市場となった。

 

 当然ながら、防共協定締結後の中華民国と北亜はさらに対立を深めていた。

 そしてどちらが先に発砲したかは謎だが(※中華民国内の中華共産党の陰謀説あり)、北亜軍が自然国境線となっていた万里の長城を突破。

 双方ともに中華統一のための「内乱」だとしたが、事実上の全面戦争となる「中華紛争」に発展していた。

 これが始まったのが、1937年夏の事だった。

 

 戦闘は、仕掛けた側の北亜が国家や軍隊として団結が取れていた事、ロシア人訓練によるソ連赤軍式の軍隊が強力だった事、ソ連から大量の武器弾薬の援助を受けていた事などもあり、北亜優位で進展した。

 

 北亜軍は、電撃的に北平(北京)や黄河一帯を占領するだけでなく、東トルキスタン方面からもジワジワと前進して青海全土を制圧し、開戦から約一年で中華民国領域の三分の一を占領下においた。

 

 そして事実上の全面戦争は、イギリス、アメリカ、ドイツ、それにソ連は共に戦争特需に預かれたために、第二次世界大戦が勃発するまで特に大きな声を出すことはなかった。

 

 そして各国が不景気脱出のための外貨を欲したため、国際的にも「内乱」だとされ外交的には「紛争」という事になった。

 何しろ共産主義国家の北亜は、国際的には中華民国の領土を「不当に占領したテロ集団」に過ぎないからだ。

 またイギリス、アメリカの後方拠点とされた日本でも、戦争近在地域として戦争特需の恩恵が舞い込んでいた。

 

 しかし第二次世界大戦の勃発で、中華地域の「内乱」は国際政治上「戦争」への変化を余儀なくされる。

 防共協定が国際的には軍事同盟と見られ、中華民国がドイツやイタリア同様に連合国の敵として見られるようになったからだ。

 しかも中華民国政府は、「内乱」勃発から中華民国政府は蛮族(北亜)から漢族を守るとして国民を煽っていた。

 そして漢族のナショナリズムは高揚し、北亜ばかりではなく欧米列強の排斥にまで発展していた。

 世界からは、中華民国が急速に全体主義化しつつあるとされ、蒋介石と国民党はアジアのファッショだと定義されてしまう。

 

 このため中華民国は、防共協定を破棄してでも何とか外交を挽回しようとした。

 だが、幼稚なナショナリズムから半ば暴徒と化した民衆が、上海の租界に殺到した事で事態は悪化。

 対応できなかった中華民国は、欧米列強と完全に敵対してしまう。

 しかも防共協定の破棄宣言によってドイツとの関係までが悪化した。

 

 ただし北亜は欧米にとっても危険な共産主義であるため、中華民国は完全な敵にまでは指定されなかった。

 上海での暴動も民衆の暴走だとされ、少なくとも中華民国政府は欧米との関係を細々とながら維持し続けた。

 そしてドイツとの関係も、北亜との戦線を支えるのがドイツ軍事顧問で、近代産業面の多くもドイツに頼っているという事もあって切るに切れなかった。

 

 しかも中華民国にとって、さらに悪い状況が起きる。

 1941年6月にドイツがソ連侵攻を開始したからだ。

 これによりソ連は連合国となった。

 同年冬には、ソ連の働きかけで北亜はアッサリと各国から国家承認され、連合国への参加までも許されてしまう。

 そして北亜は中華地域での戦線を一部整理し、余剰戦力をドイツへの戦いのためソ連へと派遣すらした。

 そして連合軍の目的は、北亜を利用してドイツの事実上の同盟国である中華民国を叩く事にあった。

 当然ながら、北亜への援助も開始された。

 

 つまり中華民国は、明確に世界(連合国)の敵とされてしまったのだ。

 しかもドイツはすでにヨーロッパの戦争にがんじがらめで、当然ながら、戦争勃発と共に資本投下も止まり、独ソ戦開始まではソ連を経由して細々と交流が続いていたに過ぎない。

 独ソ戦開戦以後になると、潜水艦が一隻訪れただけだった。

 

 ただし独ソ戦開始と共に北亜のソ連軍事顧問団(+義勇軍)は引き上げ、北亜軍自身も戦線を整理して減少したため、戦況はいくらか挽回できた。

 

 ただし北亜は、占領地で農地解放や公平な税制の実施、悪吏の粛正、自立心の育成など社会主義的政策の実施で民衆の心を掴んでいた。

 富農など中華民国の支持基盤も、多くが駆逐されていた。

 このため占領地すべての奪回には及ばず、少しばかり奪回した地域で中華民国軍は、自らの権利に目覚めた民衆によるサボタージュやテロ、ゲリラ活動など手荒い歓迎を受けてしまう。

 しかし北亜も独ソ戦開始と共にソ連の支援がなくなり、逆にソ連に援軍を出していて戦況は手詰まりで、中華戦線は膠着する。

 


 また一方では、1941年6月に独ソ戦が始まり一年後の42年6月にアメリカが参戦すると、主にイギリスに徐々にゆとりができてくる。

 しかもアメリカは、自身の参戦によって世界のどこにでも建設したばかりの巨大化した軍隊を派遣できるようになっていた。

 そして片手間の戦争として、そろそろ中華問題を解決すべきだと考えられたのが、ヨーロッパでの戦いが一段落ついた1943年の秋頃だった。

 当時のアメリカ軍は、その気になれば世界征服すらできる規模と戦力を誇っていた。

 

 そして近隣の日本は、最低限の産業が整っている安定した後方拠点として、英米軍が大挙進出してきた。

 またレンドリースにより在アジア英日軍自身の著しい強化も行われ、日本人達は英日軍という肩書きはそのままに、英米軍と肩を並べて大陸へと押し出すことになる。

 

 ただし連合軍は、中華民国は漢族の国、北亜は元清国に属していたが漢族以外の国として別扱いする事を決め、この点はソ連も同意した。

 つまりは、中華民国、北亜双方が掲げた中華統一を完全否定しての中華への大挙進軍となった。

 

 だからというべきか、連合軍は北亜軍側にはほとんど現れず、直接上海、南京を狙った上陸作戦を決行した。

 そこでイギリス軍の主力となった英日軍は大きな活躍を示し、電撃的に揚子江一帯の占領を行った。

 

 これで中華民国は、素早く連合軍に対して降伏。

 降伏に合わせて中華民国は、北亜軍の万里の長城以北への、つまり開戦以前の境界線への後退を要求した。

 これも連合軍は受け入れる。

 裏には、中華民国と英米との間に密約があったと言われる。

 中華民国政府が連合軍と戦闘したのは、国内のナショナリストや軍閥を納得させるものでしかなかった。

 事実連合軍と戦った中華民国軍の多くは、北亜軍と睨み合っている形になっていた党中央の精鋭部隊ではなく上海閥や広東閥の部隊であり、これらは連合軍の機械化部隊の無尽蔵とも言える航空攻撃と包囲殲滅戦で大打撃を受けていた。

 

 また降伏後は、英米軍による占領統治が実施された。

 いまだ前近代的だった中華民国を、一気に民主化及び近代化しようという意図があったとされる。

 ただしこちらは、民主化の過程で各地及び各軍閥の大きな反発を呼び起こし、各地で戦闘が多発して事実上の失敗に終わった。

 そればかりか、内乱の中で中華共産党の勢力拡大を許す事になり、後の大きな火種ともなった。

 

 一方、いまだ東部戦線に係り切りでアジアに現れないソ連をあてにできない北亜は、渋々開戦前の境界線への撤退を受け入れた。

 ただし後退中に、多数の略奪と人民の「移住」を実施し、占領地域の資産価値のあるものがほとんどなくなってしまう。

 これは北平(北京)において顕著であり、紫禁城にあった無数の宝物は壁紙や固定式の石像に至るまでほとんどなくなってしまう。

 しかも一部の建物すら解体して、北の大地へと持ち去られていた。

 鉄道などの重要なインフラもレールや枕木ごと例外なく持ち去られ、華中、華北の経済的後退は向こう半世紀再起できないだろうとすら判定された。

 

 元北亜軍の占領地域に入った連合軍はあまりの惨状に驚いたが、今更どうすることもできなかった。

 

 北亜側は、清帝国時代のものを取り返しただけだとしか言わず、ソ連が後ろにいるため強い態度にも出られなかった。

 それに北亜もソ連も連合軍であり、中華民国は敵国なので別に擁護する気もなかった。

 せいぜいが、自分が奪えなかったのを惜しんだぐらいだ。

 

 なおこの時の英日軍は、規律正しい軍隊として振る舞い続け、連合軍各国から高い評価を得ると共に、国際的優等生を実践する事によって自らの独立に賭ける意気込みを見せた。

 また中華民国内での、対日本感情が好転する機会になったとも言われている。

 


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[一言] 戦争の大義なんてどうでもいいけど独立のために頑張るよ! あと山本五十六は英軍相手にポーカーで巻き上げてそう
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