プロローグ
雲の隙間から零れ落ちる陽射しが、朝露に濡れる真紅の薔薇に輝きを与えている。
燃えるような紅で彩られた花弁に溜まった水滴が、きらきらと光るそれは宝石のようでーーー彼女の一番のお気に入りだった。
イザベラ・シーナは王城へ訪れると常にこの薔薇園へと足を踏み入れる。
他では決して見られる事のない珍しい品種の薔薇も好きではあったし、何より此処は彼女にとって思い入れのある場所だった。
イザベラが社交界デビューをした12歳の初夏、何年も片想いをしていた男性に手を取られプロポーズをしてもらった薔薇園なのだから。
淡く頬を染めながらも手の甲に口付けた彼が照れくさそうに、囁いた言葉を今でも覚えている。見目麗しい類に入る彼女は子供ながらに沢山の殿方に愛を囁かれてきたが、あれほどまでに感極まった時はなかった。
恋愛経験も耐性すらもない彼が情熱的に愛を囁く事はなかったが、ただ一言。ずっと傍に居てほしいと、真っ直ぐに瞳を見つめて言う姿はどんなに飾り立てた言葉よりも身に染み込んだのだ。
「ああ、やっぱり此処に居たんだねイザベラ」
不意に背後から掛けられた声に、柔らかであった表情を一瞬で歓喜の色で満たしてイザベラは振り返った。
そうするとやはり、穏やかな声音の通りに人の好さそうな好青年が佇んでいた。黄金を流し込んだような美しい髪の隙間から覗く瞳は優しく、華奢ながらも鍛えあげられた体格は確りとしていてーーーまるでお伽噺から出てきたといっても過言ではないだろう。
彼、シュトルフ・ミディションこそがイザベラの“思い出”の主要人物。彼女にプロポーズをした張本人であった。
プロポーズから2年の歳月が過ぎたが、愛は色褪せる事もなく両人ともに穏やかな縁を育んでいる、とイザベラは思っている。なにせ彼女達は国すら認める婚約者同士なのだから。
「ええ、いつ見てもこの薔薇園がとても素敵で…すみません、殿下。お忙しいようでしたので一人で見に来てしまいました」
「謝らなくていいよ、むしろ折角来てくれたっていうのに傍に居てあげられなくてごめんね」
イザベラの言葉を受けて目を細めて笑う彼は、“ 慈愛の王子”と呼ばれるほどに国民からの支持が厚いーーーそう、この国のまごうことなき本物の第二王子であった。
第二とはいえどもやんごとなき身分の方。隣に立つ資格を得る為には血が滲むほどに過酷な淑女教育が必要であったが、イザベラは弱音を吐く事なくやり遂げてきた。
私は殿下の事が大好きなの。
恋する乙女はそう公言して憚らない。愛しているのは殿下だけ、彼の為ならどんなに辛いお勉強やマナーレッスンもどうって事ないのよと。それはもう真実だ、イザベラの言葉に一片の嘘はない。ただただ、殿下の事が好きで好きで堪らないのだ。
「僕らが結婚したら、二人で暮らす屋敷には広い薔薇園を作ろうか」
「まあ殿下!私、とても嬉しいですわ。…ねえ、そしたら毎日一緒に薔薇を見てくださる?」
「ーーー」
けれど、それは愛ではなかった。
イザベラは王子様に恋はしていたが、今の今まで愛を抱いた事はない。
「ああ、勿論だよイザベラ。毎日薔薇を見て、一緒にご飯を食べて…どんな時でもずっとずっと傍に添い遂げる事を誓おう」
恋に恋するご令嬢は、哀れにも婚約者の嘘に踊らされている。
だって、彼の笑顔の奥に隠されたーーー瞳に宿る暗く澱んだ感情に気付く事が出来ないのだから。




