後悔、先に立たず3
そこは見渡す限りの星が埋め尽くした宇宙のような空間であった。
瞬く星々は左右上下関係なく広がり、私は地に立っているのか、はたまた逆さまで空に浮いているのか頭では理解できないという有様である。
遠くの方でキーンキーンと高い音をたてて、星が流れて消えて行く。そこは息を飲むほど美しく幻想的な空間であった。
低い唸り声のような風が吹いたりやんだりを繰り返している。そう思った瞬間、どこから現れたのか、眼前に巨大な木の幹が出現した。
頭上を見上げると白光の先、遠い遙か彼方に生い茂った緑葉があることだけは理解できた。
「これが、ユグドラシル?」
「ああ、俺も実物を見るんは初めてや」
――どこかに彼女がいる。
先ほどから、この星々の空間の中に暖かい太陽の光を感じていた。
視線を這わすと、それが思い過ごしでないと分かった。宇宙の中を這うように広がった根の一つにアーリーが横たわっている。
私たちが駆け寄ると、実際の彼女の体は左半身が木の根元に埋まってしまった状態だった。
力なく垂れていた右手をそっと握ると、アーリーがうっすらと目を開く。
「羽里。来てくれたんだね」
「そうだよ。助けに来たよ。一緒に帰ろう」
「……僕ね。分かっちゃったんだ」
アーリーの顔は半分しかないのにその表情は暗いと読みとれた。
どうしてそんなに悲しい顔をしているのかと心配になる。彼女は静かに片目を閉じた。
「こうしていると大樹の意志が分かるんだ。ねぇ羽里。僕等に必要なことはなんだと思う?」
そうアーリーが問いかけてきたが、今はそれどころではない。早く彼女を助けなければと焦っていた。
「そんなことより、一緒に帰ろう。今、助けるから!」
彼女の腕を引いたが、その半身は抜けなかった。根元にしっかりと食い込まれている。
天を見上げた冬太が「なんや」と低い声を上げる。同時にアーリーの静かな笑い声が響いた。
「ねぇ、羽里。僕らに必要なものは何だと思う?」
彼女は目を見開いて叫ぶ。
――それは進化さ!
そのとたんに空間の端の方に、複数の黒い影が降ってきた。人の型をした影たちはそれぞれに張っている根元へと降り立つ。
その中の一つ、大柄の影が剣を片手にしながら急速に迫ってきた。
冬太がすかさず影の方へと走り出す。彼が「文珠!」と叫ぶと、その片手の中に漆黒の打刀が現れた。鬼切刀だ。
冬太の抜刀した刃と影の剣がかち合い、金属の高い音が響く。
小柄な冬太は攻撃を素早くそれを避けながら応戦しているが、その力差は明確で彼は圧されている。
その間に他の影たちも武器を構えてこちらに迫ってきた。
「――戦うしかないのっ!?」
そう叫んだ瞬間、何かが破裂したような爆音が鳴り響き、辺りが白煙で包まれる。
焦げ臭いが漂う中で私は何者かに捕獲されてしまった。抱き上げられた格好のままで必死に身を捩る。
「離せ、このっ!」
ギザギザの歯でその腕に噛みつくと、何者かは観念したのか私を解放した。
「……トゥリよ。少し落ち着くが良いゾ。我が気配を読み違えるナ」
鮮やかな赤毛の人物、いや、その竜族の姿が視界に入った。
「タンジェリーン!?」
そんな声を上げたのと「ふはははーっ!」という大声が木霊したのはほぼ同時だった。前方を見ると、冬太を小脇に抱えた偉丈夫が仁王立ちしている。
「――勇者、見参っ!」
金色の髪が揺れてこちらを振り返った。自称勇者は嬉しそうな表情で声を上げる。
「トリよ、どうだ。俺は格好よかろう」
ニマニマと満足そうな笑みを浮かべるのは、ハーティだった。彼は冬太を抱えたまま、影の攻撃をひょいひょいと余裕な様子で避けている。
そこでもう一つ、声が響く。
「親父、格好つけてる場合じゃない。状況を見ろ、状況を!」
アルビレオが必死の形相で他の影を羽交い締めにして押さえ込んでいた。彼は影と一緒にもみくちゃになりながら悲痛な声を上げる。
「暴れるなー! っていうか、僕は肉体戦闘向きじゃないんだけど」
そこで獣の低いうなり声が真横から聞こえて、黒豹も影の方へ飛びかかった。
「ベイルも……皆来てくれたんだ」
しかし、彼らはこの空間にどうやって来たのだろう。
「タンジェリーン、どうやってここへ来たの」
青年型のタンジェリーンの顔を見ると、彼の頭上からひょっこりとスィフィが顔を出した。
「かあさまの『けはい』で、きたよ!」
「……スィフィ。ありがとう、皆、本当にありがとう」
私が彼女の頭に手を伸ばそうとした瞬間だった。
視界が歪む。そう思ったら仲間たちが次々にその場に膝をついていた。
ベイルは人型にタンジェリーンは赤竜となり、皆は苦しそうに地に伏している。
いつの間にか敵対していた影たちは消失し、その場に立っているは私一人だけだ。
呆然と立ち尽くしていると、木の根に半身を埋めていたアーリーがそこから抜き出てきた。
「ねぇ、羽里。僕と君はこの樹に選ばれたんだよ。一緒に進化へ望もう。『星人』として誕生し、新たな世界を創造するんだ」
アーリーは何の感情も抱いていないような、作られたような笑顔で手を広げている。
彼女の眩しい光はいつ失われてしまったのか。その漆黒の瞳は出会った頃の輝きを完全に失っている。
「アーリー……」
「羽里なら、僕の半身である君なら。きっとその素晴らしさが理解出来るよ。さぁ、共に逝こうっ」
両腕を高らかに振り上げた彼女はもう私の知っているアーリーではない。無邪気にバケットサンドを頬張って笑う、そんな姿はもう消え去っていた。
「そんな、皆はどうするの」
「選ばれる者はそう多くないんだ。その中でも君は一番最初なんだよ。光栄でしょ?」
彼女は暗い表情を一層濃くして、言葉を続ける。
「どうせ、みんな僕を嫌って遠ざけようとしていたんだ。そんな奴等、消えたって構いやしないじゃないか」
アーリーは倒れ込んだ仲間たちの間を縫うように、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「でも、羽里は違う。僕を必要としてくれる。愛してくれる……、だから僕ね、大樹にたくさんお願いしたんだよ」
「ま、待って!」
「羽里だって心の底では皆をやっかい扱いしてるよね。自分が愛されない居場所なんて必要ないって考えてるんだよね」
「そんなことない! 絶対にない。アーリー元のあなたに戻ってよ!!」
後一歩のところで彼女はその歩みを止めた。胸に手を当てて漆黒の瞳を閉じる。
「僕は君の心なんだ。分かるよ羽里の気持ち。本音の深いところまで」
「違うよ。アーリー、もうやめて」
「ううっ」
アーリーが苦しそうに体を抱え込むと、私は彼女の肩にそっと手をやった。
「私はアバイドワールが好き。皆が大好きなの。だから、星人にはならない」
「君は僕のことが嫌いなの?」
「ううん、嫌いじゃないよ」
「――嘘つきっ! もういい。……僕は嫌いだ。羽里も、世界も、みんな、嫌い、嫌イ、嫌い、嫌イだッ!!」
アーリーはそう叫びながら、私の手を振り払う。足下から黒い手が伸びて来ると彼女は包み込まれてその姿を消した。
黒い手がまるで開花するかのような動きをみせると、再び現れたアーリーは異質のものとなっていた。
灰色の翼、口元は笑みのまま大きく裂け、深紅の瞳から宝石のような滴がこぼれて落ちている。
《――控エヨ、者共――》
《――進化ト――》
《――愛ヲ――》
《――秩序也――》
様々な声が耳から進入し、脳内をかき乱す。暴れ回った言霊たちは、すぐに耳を塞いでもどこからか出入りを繰り返してくる。
「やめてぇ、やめてッ!!」
痛くないはずなのに体中の皮膚が剥がされているような激痛に襲われて倒れ込んだ。地を這う蛇のようにもがいたが、意識の方は明瞭で『痛み』から導き出された『恐怖』へと支配されていく。
ふと、痛みに苦しんでいるのは自分ではないような感覚に陥ってしまう。
「これが己が無くしたものなのだ」と心の中で叫ぶ声がした。それは私なのか、私ではないのか、それすらも分からない。
――そもそも私とは何なのか。
頭の中で繰り返し、ただその問いかけが浮かんで消えていく。そうしていると自分がどんどん遠ざかって消えていくような気がした。
――あれ、どうしてこんなところにいるんだっけ。
――何をしなければならないんだっけ。
――ああ、もういいや。このまま消えて無くなってしまおう。
その考えを容認しようとした時だ。ふと、ファザの声が脳内に響いた。
「落ち着いて。自分を忘れてはいけない」と彼女は言きかせるようにこちらを諭す。
でも、もう忘れてしまった。きっと思い出せない。だから現存もできない。
負の気持ちに支配された私に対して、ファザの声は「大丈夫、俺はここにいるから思い出してごらん」と優しく語りかけてくれる。
しかし、その語りかけに答える力はなく、「無理だよ」と答えた。すると彼女はため息混じりに言い放つ。
「諦めるのか。全く君らしくない選択だな。ふん、俺は落胆した。君にはがっかりだ」
――私は。
やはり、その言葉にムッときた。
そこでようやく意識を取り戻した。勢いよく目を開けると、天上に星々の輝きと無限の宇宙が広がっている。
自分がどれだけ小さな存在なのかを告げられているかのように感じるほど、それは巨大で果てがない。
この中で私たちは、ただの小さな点に過ぎない。でも、そんな小さな点と点が結びあって世界が生み出されている。
ゆっくりと息をはいてから立ち上がった。眼前にはアーリーだった、悲しい虚人がいる。
「みんな聞いて、私はずっと怖かった。本当に自分が愛されるのか、別世界に来たとしても、日本に戻ったとしても不安だった」
私の体を這うような痛みは消えてはいない。それでも、「自分は耐えられる」と言い聞かせながら声を上げる。
「昔は自分が愛されない居場所なんて必要ないって毎日のように思ってた。アバイドワールにきた頃だって、皆をやっかい者みたいに考えてた。自分はリフィアのようにはならないようにって戒めていたつもりで、本当は感情を押し殺していたの。だから、アーリー。あなたは正しかったのよ!」
虚人の体が小刻みに震え出すと、体の痛みが和らいだ気がした。私は胸をなで下ろして、彼女に最後の言葉を告げる。
「それからね。私、自分のことが好きじゃない。だからアーリーのことも本当の意味じゃ好きにはなれないのかも知れない……ごめんなさい。こんな愚かな私を許して」
本音を漏らすと、胸につかえていた邪魔なものが消えていった。
いつの間にか口角が上がっているのを感じて、嬉しくなる。心の底から笑えたような気がした。
虚人はぐらぐらと崩れるように倒れ、その姿が元の少女へ戻っていた。
「アーリー!」
すぐさま彼女に駆け寄ると複数の木の根が、バタバタと上下に揺れ始めた。辺りを見回すと静かに輝いていた星々が急速に流れ出している。
「羽里……ごめん、僕、君に酷いことを……」
そう切れ切れに話す彼女の体を自分の胸元へ抱き寄せた。
「あなたのせいじゃない。私こそ、ごめんね」
「ふふふ。やっぱり僕、羽里のこと、好きだなぁ」
アーリーは輝く笑顔でそう言うと目を閉じた。
「ずっと一緒にいたい。だから君の中へ戻るよ。きっと大丈夫、悪いところもみんな含めて『私』だから」
そう言い残すと、彼女は光になって消えてしまった。胸の辺りがじんわりと暖かくなると、一人の存在としてのアーリーを強く感じた。
――負けない、絶対に!
立ち上がると、腕輪が金色に光りを放った。自分にもきっと世界を、仲間たちを守れるはずだ。
「聞け、ユグドラシル。私たちはお前のものではない。好きにはさせない。星人にはならない。私たちは己の力で進化するのだから!」
腕輪から発せられた眩い光に包まれると体が金色に輝く。背から翼が生えるような感覚がする。
私は皆が動けるようになったことを確かめると、すぐさま世界樹の頂点を目指すために羽ばたいた。




