叫び叫び叫び
ーー私が私でいる理由。
空は血の赤。
炎の舌と血とが、小さな村を覆い尽くす……
トタン屋根の上、風見鶏が寂しげに回っている。見捨てられたバラック。
完全に均等な関係などあり得ない。人と人がいたならば、そこには不公平が生じる。
村が燃えている。助けなどありはしない。悲鳴だけが虚しくこだまする。
完全に同じ人間など存在しない。人と人がいたならば、そこには違いが生じる。
益体もないことを考えながら、ぼくは坂道を登っていた。
叫び声が遠くに聞こえる。世界を呪うような叫び声が。恨めしげに呪詛の言葉を吐く、その叫び声。ぼくはその声を聞きながら、意味もない思考に身を委ねる。
人間は分かり合えない。分かり合おうとどれだけ歩み寄っても、所詮は他人に過ぎないのだから。
人間が愛などと呼ぶ概念も、分かり合えない他人を一種の型に嵌め込むことによって理解しようとする虚しい営みなのかもしれない。
分かり合えない。
分からない。
分からない。
あの叫び声が、何を嘆いているのかも、その痛みも苦しみも、分からない。
分からないままにぼくは坂道を登る。
焦りもせず、休みもせず。ひたすらに歩みを進める。
あるいは、ぼくはあの叫び声から逃れようと歩みを進めているのかもしれない。それほどまでに、叫び声はぼくの心をかき乱す。
時折、大きく、そして世界中の不幸を濃縮したような悲しみと怒りの色を見せる叫び声は、そのたびにぼくの心を引っ掻く。
結局、人間を分かり合えないものだと定義しながらも、ぼく自身、人間の共感性というシステムには抗えないのだ。
分かり合うために人間が獲得した機能。叫び声の悲しみを、自分自身の悲しみと錯覚させてしまう機能。
その機能が存在していることは、否定のしようがなく、坂を登るという行為で誤魔化すにはあまりにぼくの心の深くに存在していた。
叫び声の痛み自体はわからなくとも、叫び声はぼくに痛みをもたらす。苦しみをもたらす。悲しくなる。
だから、その痛みから逃げようと、坂を登る。
空を見上げると、黒々とした雲が空を覆っている。
雨が降るのも時間の問題だろう。
雨音が叫び声を掻き消してくれるといいのだが、それは望むべくもないだろう。
あの声から逃れる方法はないのだ。
ぼくにできる唯一のことは、登ることだ。
だから登る。
上へ、上へ。
だがしかし、ぼくは何故登るのだろうか?
叫び声から逃げるためなのだろうか?
それならばもっといい方法があるだろうに。ーー死ねば良い。
簡単な方法があるだろうに。ーー耳を切り落とせば良い。
完璧な方法があるだろうに。ーー心臓にナイフを突き刺せば良い。
そんな方法があるのに、ぼくはそれらの方法を取らないでいる。
ならば、ぼくは逃げるために登っているのではないのだろう。
しかし、それならば何故登るのだろうか?
わからないが、登り続けなければいけないことはわかっていた。
そんな詮無いことを考えていると、自分が分岐路に立っていることに気づいた。
右の道と、左の道。
標識はない。
道の様子に違いはないように思われる。
良い道、悪い道。そんな判断はできないのだ。選んで進んだ後に、事後的にしかわからない。
ぼくはポケットからコインを取り出すと、空中に放り投げた。
表なら右へ、裏なら左へ。
ぼくの運命を乗せたちっぽけなコインはくるくると宙を舞って、ぼくの手元に帰ってきた。
裏。
ぼくは左の道へと足を踏み入れた。
叫び声が、また大きく悲しくなったような気がしたが、気のせいかもしれない。
分岐路に戻って右に進路を変えたところで、もう手遅れだろう。
相も変わらず坂を登っていると、向こうから懐中時計を首にかけたウサギがやってきた。
「やあ、おはよう」
そのウサギはどうやら言葉が話せるようだった。
「おはようというのはどうなのだろう? 今が朝なのかどうか、ぼくは生憎知らない」
坂を上り続けていたせいで、ぼくは正常な時間感覚を失っていたので、聞いてみた。
「今は朝に決まっているじゃないか。私の時計を見なさい」
そう言ってウサギは懐中時計を差し出した。
確かにその時計は9時を指していて、空は雲がかかっていながらも真っ暗ではない。
今は午前9時であるという判断は正しそうに見える。
ただ、ウサギの懐中時計は文字盤がヒビ割れ、長針が曲がり、秒針が動いている様子もなかった。
しかし、
「そうか、君が朝だというのなら、きっとそうなのだろう」
ぼくはそう言ってウサギに同意した。
「わかってくれて嬉しい。それじゃあ改めて、おはよう」
ウサギが礼儀正しく挨拶をしてくれたので、ぼくもそれにならって挨拶をする。
「おはよう」
ぼくがそう口にすると、ウサギは、
「それでは失礼するよ。私は急ぎの用があるのでね」
と言って、懐中時計を気にしながら足早に行ってしまった。
ぼくは、再び歩みを進める。
叫び声は響き続けている。
逃れようもなく、響き続けている。
歩いていると、美しい羽を持ったキジがぼくの目の前に降り立った。
「何か……食べるものを……」
息も絶え絶えに言うキジの身体は、痩せ細っていて、美しい羽も良く見ると所々禿げかかっていた。
「どうしたというんだい?」
ぼくがそう聞くと、キジの口から苦しそうな呻きが漏れたが、その音にぼくの感情はピクリとも動かなかった。
むしろ、キジの苦しみを冷静に、客観的に見つめていた。
「呪いで……食べられないのです……」
息を振り絞って語るキジ。発話というものが、普段は意識されないが、息の出入りを伴った行為であるということを、ぼくはキジの必死の発話から感じていた。観察していた。
「何か……私に、食べられるものを……持っていないですか……」
キジの身体の観察はそれなりに興味深かったが、面白いと言えるほどでもなく、助けを求めているのを無視するほどにぼくは冷たくはなかった。
「きびだんごならありますよ」
なぜか腰に下げていたたきびだんごを差し出すと、キジはそれをつついた。
「うげっ……とても食べられません……」
せっかくあげたきびだんごを、キジは地面に吐き出した。
「すみません、これ以外にぼくは食べ物を何も持ち合わせていません」
ぼくが正直にそう言うと、キジは悲しげに鳴いた。
「あなたが、食べられるものにありつけることを祈っていますよ。では、失礼します」
社交辞令を言うと、ぼくはキジの元を立ち去った。
背後でキジの悲痛な叫びが聞こえた気がしたが、ずっと響き続けている叫び声に掻き消されて分からない。
ぼくはさらに歩みを進める。
叫び声が少し弱まってきたような気がする。
もちろん、ずっと響いているのだが、少しだけ、ほんの少しだけ小さくなったような気がするのだ。
もしかしたら、キジに親切にしてあげたからかもしれない。
きびだんごを差し出すという、最大限の親切を。
やはり、他者に親切にすると言うのは、気分がいい。
気分が良くなったので、ぼくの思考も少しだけ明るくなったような気がする。
少し急になった坂を登っていると、道のど真ん中にカカシが立っていた。
傾いた頭に描かれた顔は、子供が殴り書きしたみたいで、どこかコミカルだった。
そんな感想を持ちながら、カカシを迂回して進もうと横を通り抜けた時、カカシはその布でできた口を開いた。
「そこのお方、私をここから引き抜いてくれませんか?」
ぼくは少しばかり驚いたが、歩みを止めてカカシの話を聞いて見ることにした。
横を通り過ぎるまで何も言わず、通り過ぎる瞬間に話しかけると言う演出に、好感を持ったからだ。
「私は、ここに縛り付けられたカカシです。どこにも行けず、何もできず、話し相手といえば時々私の体に止まるカラスたちだけです」
そこでぼくの様子を伺ってきたので、ぼくは頷いて続きを促した。
「そんなつまらない生活を送っていたのですが、この前カラスに『お前の頭には何も入っていない、頭がスッカラカンなやつだ』と言われ、私はショックを受けたのです。つきましては、私を、どんな願いでも叶えてくれると言う魔法使いのところまで連れて行ってもらえないでしょうか? 私は脳味噌を手に入れたいのです」
そう言い終えると、カカシはぼくの方をチラチラと伺った。
どこかで聞いたような話だな、とぼくは思った。
ふと、手元を見ると、なぜか味噌の壺を持っているのに気づいた。
「ああ、なるほど」
そう呟くと、カカシにこう言った。
「ぼくがさしあげますよ」
「えっ! 本当ですか」
カカシが嬉しそうに言ったので、ぼくは頷くと、その頭をサバイバルナイフで切り裂いて、その中に味噌を詰め込んであげた。
中の布が飛び出てしまい、味噌もはみ出てしまったが、確かに味噌を詰め込んであげた。
「具合はどうですか?」
ぼくが聞くと、しかし、カカシは言葉もないほど嬉しかったようで、沈黙したままだった。
「そんなに喜んでもらえるとぼくも嬉しいです。お礼はいりませんよ。では、ぼくはこれで」
そう言ってその場を離れた。
後ろでカカシが倒れた音と、味噌がボトリと落ちる音がしたような気がしたが、ずっと聞こえている叫び声に掻き消されて分からなかった。
カカシに親切にしてあげたのだから、叫び声が少しは小さくなるかと思ったが、そうはならなかった。
そんなに上手くはいかないみたいだ。
ぼくは坂を登り続ける。
カカシと別れてしばらくすると、ついにポツポツと雨が降り始めた。
初めはしとしとと、そして、次第に天のバケツをひっくり返したみたいな大雨になった。
傘はないが、ぼくは歩みを止めない。
服も持ち物も、ぐっしょりと濡れているが、それは問題ではない。
ただ、歩き続けるだけだ。形而下のことはどうだっていい。
けれど、気持ちとしてそうであっても、体がいつでも思い通りになるわけじゃない。
冷たい雨はぼくの背中に入り込み、体を冷やしていく。
いつの間にかガチガチという何かがぶつかり合う音がしていることに気づいたが、それが自分の歯が震えている音だと気づくのには時間を要した。
悪寒が背筋を走り、鼻水が垂れる。
体調が悪化するに従って、雨音などものでもないと言わんばかりに、叫び声は激しさを増した。
あるいは、空自体が慟哭しているようにも感じられた。
滝のような涙と、空気を震わす絶叫。
ぼくを責めるかのように、圧迫するように迫るうねり。
ぼくがあまりの苦しみに屈しそうになったその時、目の前に赤いずきんをかぶった少女が現れた。
彼女は小さな傘を持っていた。
地獄に仏。そう思って、
「その傘をお借りできませんか。雨に濡れすぎて、寒気がするのです」
震える歯をなんとか抑えながら聞くと、少女は目をしばたいて言った。
「すみません。この傘はお貸しできません。わたし、おばあさまのところへ早くいかなければならないので。失礼します」
そう無情に告げると、赤いずきんの少女は足早に立ち去った。
ぼくはその場に立ち尽くしてしまった。
あまりにもあっけなく立ち去った少女に、呆然とした。
あの態度はなんだろうか。困っているぼくが目の前にいると言うのに、もっと相手の立場に立って考えることはできないのだろうか。なぜ真剣に考えてくれないのだろうか。
ぼくは嘆いた。
体調が悪いせいもあるのだろうけれど、あの少女への怒りがふつふつと沸いた。
ぼくを見捨てたあの少女に言い知れぬ怒りを感じた。
響き続ける叫び声も、不思議なことに、ぼくに賛同しているように聞こえた。
ポケットからサバイバルナイフを取り出した。
雨の中に鈍くきらめく凶器。
方法はある。
傘がなければ、ぼくは体調が悪くなって死んでしまうかもしれない。
どちらかが死ななければならない。仕方ないのだ。
言い訳もある。
けれど、勇気はなく、ぼくは立ち尽くしていた。
しばらくの後、前方から雨に濡れた獣が現れた。
狼だった。
「ここを赤いずきんをかぶった少女が通らなかったかい?」
狼はぼくに聞いた。
ぼくは頷くとこう言った。
「彼女を食べる気なら、ぼくも手伝おう」
狼は驚いた顔をしたが、次の瞬間にはぼくの後ろに立っていて、
「ついてこい」
と、残忍な笑みを浮かべながら言った。
勇気の代わりに、きっかけがあった。
ぼくをどんな場所にでも連れて言ってくれるような、小さくとも強力なきっかけが。
赤いずきんの少女は、雨の中を早足に歩いていた。
小さな傘がひょこひょこと揺れている。その後ろ姿は可愛らしい。
狼は、少女のその姿にジュルリと舌舐めずりをする。
ぼくは、響き続ける叫び声に促されるままに、怒りの目で少女を見つめた。
合図はなかった。
狼が飛びかかる。
ぼくも飛びかかる。
狼の牙が少女の首筋に刺さる。
引き裂く。
引きちぎる。
少女は、断末魔の声を上げることもできず、喉にぽっかりと空いた穴からヒューヒューと空気がもれ、くぐもった音を漏らして死に至った。
それこそあっけなく。
狼は少女を弄ぶ。喰らい付く。
その鋭い牙で、滅多刺しにする。
あたりには、少女のずきんよりも鮮烈な赤が撒き散らされた。
気づくとぼくは、少女の死骸を抱えていて、命を失ったその肉の塊にナイフを何度も突き立てていた。
身体中が少女の血で濡れていて、それを冷たい雨が流していく。
あたりを見回すが、狼はいなかった。
狼がいた痕跡すらなくなっていた。
狼の足跡はなく、ぼくと少女の足跡だけが向こうに続いている。
ズタズタになった少女の体を見るが、そこに牙の跡はなく、全てナイフによる傷だった。
少女の体はどこも食われていなくて、ただ、ナイフで殺された死体がそこにあった。
そこで、狼など初めからいなかったことを思い出した。
勇気を振り絞るために、ぼくが自分で創造した存在だったことに思い至った。
少女の亡骸を地面に転がすと、ぼくは落ちていた傘を拾った。
これで、雨に濡れずに済む。
助かった。
持ち手に泥がついてしまったが、気にはしない。
傘をさした。
けれど、雨はぼくの体を打った。
上を見ると、その傘には大きな穴がいくつも空いていた。
ぼくは傘をずさんに扱った少女を呪ったが、何もないよりはましなので、それを使うことにした。
凄惨な殺戮を淡々と行ったことに、不思議となんの感想も湧かず、ぼくは少女の元を立ち去った。
雨に濡れながらぼくは歩き続けた。
坂を登る。
雨が寒い。
叫び声がうるさい。
先ほどまでぼくの味方をしてくれていた叫び声は、今では赤いずきんの少女を殺す前よりもうるさくなっていた。
ザラザラとしたその叫び声は、ぼくの心をヤスリがけするみたいに傷つけた。
泥と少女の血とで汚れた右手をズボンで拭う。
胸が苦しい。
何かが決定的におかしいような気がした。
世界がおかしい。みんながおかしい。ぼく自身がおかしい……
ーーぼく自身がおかしい!
そう考えるたびに、響く叫び声は大きくなった。耳をつんざくばかりになった。耐えられないほどに悲惨になった。死にたいほどに憂鬱で、殺したいほどに混乱した。
嗚咽が、慟哭が、泣き叫ぶ声が、泣き喚く声が、怒り狂う声が、金切り声が、断末魔の声が、天を衝くような大合唱となり、そしてーーーー自分自身も叫んでいることに気づいた。
口を裂けんばかりに広げ、肺が潰れんばかりに声をあげていた。
そして、何かがどこかにピタリと嵌ったような感覚があった。
叫び声が遠くに聞こえる。
ぼくは坂を下る。
坂を下っていないぼくなど、ぼくではない。
坂を下っていることこそ、ぼくの要件なのだ。
下る。下る。
前から魔法使いが現れた。
傘もさしていないにもかかわらず、彼のローブは濡れている様子もない。
「なぜ、お前は穴の空いた傘をさしているのじゃ?」
魔法使いの質問を無視すると、ぼくはきいた。
「あなたが、なんでも叶えてくれる魔法使いですか?」
いつの日か出会ったカカシが言っていた気がする。この世界のどこかに、どんな願いも叶えてくれる魔法使いがいると。ぼくには、もしその魔法使いと出会ったなら、願わなければならないことがあった。
「いかにも。儂は、全ての願いを叶えうる魔法使いじゃ。なんでも一つだけ、お前の願いを叶えてやろう」
だから、気前よく願いを叶えると言う魔法使いに、ぼくはその願いを言った。
「あなたが叶えられない願いを叶えてください」
ぼくがそう言うと、魔法使いは自己矛盾を起こして消えた。
あっけなく、存在が消えた。
つまらない。
何かが引っかかるが、それを無視してぼくはさらに歩みを進める。
下らねばならぬ。
坂を下らなければならぬ。
叫び声は遠くに聞こえる。
緩やかなカーブを抜けたところに、巨大な毒虫がいた。
うじゃうじゃとその足を動かす毒虫は、ぼくの体よりもひと回りも大きかった。
あまり見ていて気持ちの良いものでなかったので、足早に脇を通り抜けようとしたが、毒虫はそののっぺりとした口を開いた。
「君、助けてくれ」
ぼくは足を止めると毒虫に向き直った。
「どうしたんですか」
どうしようもなくお人好しなぼくは、毒虫などにも憐憫を感じてしまったのだ。
「朝起きたらこのような姿になっていて、こんなところにいたんだ」
毒虫は語る。己はもともと人間だったのだと。
よくある妄想だと、ぼくは思った。
自分は本当は優れた存在なのだと、今は理由はわからないが、なぜか劣った存在として見られてしまっているが、本当は優れた存在なのだと。
そう言う妄想は世界にあふれている。
けれど、ぼくは毒虫が可哀想になったので、話を聞いてやることにした。
「それで、何を助けて欲しいんですか?」
「起き上がるのを助けて欲しい」
あっさりと答える毒虫。しかし、ぼくとしては彼の体に触れたくないのだが。
「起き上がる? どう言うことですか?」
「今は足が上を向いているだろう? これでは歩けないのだ。足のある面を地面に接するようにして欲しいのだ」
仕方あるまい。
このまま放っておくのも、可哀想だ。ぼくは彼を助けてやることにした。
ネバネバとする体を押してやり、丸太を転がすようにして彼を起き上がらせた。
「ありがとう! 君がいなかったらここで野垂れ死ぬ羽目になっていたよ。何かお礼がしたい」
気色の悪い格好でお礼を言われてもあまり嬉しくはなかったが、お礼をくれるならば是非受け取ろう。
「そうだ、君、手が一本多いようだ。邪魔だろう?」
そう言うと、毒虫は猛然とした勢いでぼくの左腕に噛み付いた。
ーーブチュリ
なんとも嫌な感覚がしたと思うと、左の肩から先がなくなっていた。
暖かくも冷たい不思議な感覚が左の半身に流れる。
あっという間もなく、毒虫はぼくの左腕を持って言ってしまった。
「お礼はいいよ。これで君も動きやすくなったろう」
毒虫は上機嫌にそう言うと、
「それじゃあ、俺はこれで。君の旅の幸運を祈っているよ」
と言って、去って行った。満足げに。
一切の悪意もなく、善意だけでぼくの左腕は無くなった。
ジンジンと痺れるような、ザクザクと締め付けられるような、ドクドクと脈打つような不思議な感覚とともに、身体中の血液が土に染み込んでいくのが感じられた。
とりあえず、これ以上血を流すのはよくないだろうと思い、右手で傷口を押さえた。
頭がクラクラする。
手が塞がっているので、傘はここに捨てていくことにした。
ぼくは再び坂を下り始める。
叫び声は、クラクラする頭にも容赦なく響き渡る。
重い体を無理矢理に進めていると、のそりと亀がやってきた。
亀はぼくを見ると言った。
「あなたは私に追いつけない」
「パラドックス……」
息も絶え絶えにぼくが言うと、亀はぼくの左腕から流れている血液を興味深げに見ていた。まるで観察するみたいに。
「助けて……くれませんか?」
倒れてしまいそうにクラクラするので、亀に尋ねる。
亀は、嫌な顔をしたが、
「いいよ、じゃあ私の甲羅の上に乗りなさい」
と、言ってくれた。
亀の背中にぼくは体を預ける。
ゆったりとぼくを運んでくれる亀。しかし、その甲羅はゴツゴツとしていて背中が痛い。
亀の背中で揺られていると、雨が止んだ。
雲が切れ、日が差す。
なんとも言えぬ雰囲気が僕らを包む。
雨の匂いが、生き物の匂いが、あたりに漂う。
眠たくなってきた。
頭が回らない。
思考が拡散している。
言葉が途切れる。
意識が朦朧とする。
ふと気づいた。
いつのまにか、あの叫び声に何も感じなくなっていた。
確かに、遠くで叫んでいるのだが、その声はぼくには全く無関係のように思われた。
亀の歩みは遅いが、確かに進む。
そして、坂は終わった。
坂の下。
そこにはぼくの村があった。
焼け果てた村が。
打ち砕かれたトタン板。燃やされた風見鶏。消え去った家。
何もない。
何もない。
そこに、
母の叫び声がこだましていた。
妹の叫び声がこだましていた。
隣の家のあの子の叫び声が、父の叫び声が、祖父の叫び声が、祖母の叫び声が、村長の叫び声が、従兄弟の叫び声が、兵士の叫び声が、皆の叫び声がこだましていた。
ああ、ぼくは可哀想なのだ。
理不尽に蹂躙された村の生き残り。母も妹も、好きだったあの子も凌辱され、親しい人をみんな虐殺され、世の理不尽と最悪と最低を経験したぼくは。
性格が歪んでしまっても、仕方ないだろう?
狂気に陥っても、仕方ないだろう?
だから、ぼくの罪は全部赦されるだろう?
可哀想な、可哀想なぼくは。
天に召されながらぼくは、そう信じて疑わなかった。
ぼくの罪は全て、愛の歪んでしまった形なのだ。
だから赦されるだろう?
愛の、愛の、自己愛の。
人間なんていうのはみんな、自己愛しかないのだから。
利他的な行為も全て、自己愛の歪んだ形に過ぎないのだから。
だからぼくは赦される。
天は明るい。
天は明るい。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
自分の叫び声で現実に戻った。
薄暗い部屋の隅で、ぼくは耳を塞いでいた。
世界の叫び声に押しつぶされないように。
怒鳴り合う声に殺されないように。