アンチ現実逃避譚
目の前には、エルフの女性がいた。少なくとも、ファンタジーなフィクションの世界でよく描かれるエルフのような姿をしたものが。
耳が長くて、肌が透き通るように白くて、金髪の細く長い髪はとても綺麗だ。
エルフといったら美しい姿をしているのが定番だけど、その彼女もとても美しい姿をしていた。
そしてその彼女は非常に驚いた表情で僕を見つめていたのだった。
僕はスーツにネクタイといういでたちで、ちょうど尻もちをついた感じで見知らぬ森の中に座っていた。つまり、普通ならば「ああ、サラリーマンなんだな」と分かってくれそうな姿をしていた訳だけれど、ファンタジーな世界のエルフにそれが分かるはずもない。恐らくは、こんな姿の人間なんて見た事もないのじゃないだろうか?
彼女は僕をしばらくじっと見つめた後で、僕の背後に目をやった。僕もつられて見てみると、そこには丸い大きな穴がぽっかりと空いていた。穴の中には暗雲が渦巻いていて、その先がどうなっているのかはまったく分からない。
僕が尻もちをついている場所と、その穴の位置関係からして、恐らく僕はそこから落ちて来たのだろうと思われた。
「あの…… あなたは?」
と、不意にエルフが尋ねて来る。
僕はそれでピーンと来た。これはあれだ。このファンタジーな世界が何らかの危機に瀕していて、それを異世界からやって来たこの僕が救うというよくあるパターンのやつだ。
僕はゆっくりと立ち上がる。服とか尻とかについた土ぼこりを掃いながら。
「僕は人間世界からやって来た佐野隆といいます」
“人間世界”という呼び名が、果たして正しいのかどうかは分からないけど、僕らのいる世界に名前なんてそもそもついていないから、これは仕方ないことだ。“世界”というものが複数個あるのを、僕ら人間社会は想定していない。だから、他と区別する必要がなく、固有名詞だってない。こういう事を考えると、“名前”というものの本質に触れられたようでちょっとばかり面白い。
「失礼ですが、もしかしたら、今、このあなたの世界は危機に瀕しているのではありませんか?
例えば、侵略者に狙われているだとか…」
僕のその問いを聞くと、エルフの彼女は驚いた表情のまま「はい」と頷いた。
なんで日本語が通じるんだ?とか、そういうのは気にしない事にする。
「なるほど。これは、“もしかしたら”という話ですが、或いは僕はこの世界を救うために何かしら使命を持って、ここに飛ばされて来たのかもしれません。
いえ、経緯はまったく覚えていないのですがね。気付いたら、ここにいたもんで」
それにエルフの彼女は「はぁ」とそう怪訝そうに返す。それから彼女はこう尋ねて来た。
「あの…… “もしかしたら”と思うということは、あなたは何か剣や魔法の類を使えるのでしょうか?」
「いえ、まったく」僕は首を横に振る。
「では、知識が豊富で、戦略に自信があるとか?」
やはり僕は首を横に振る。「いえ、戦争とかそういう知識はまったくありません。特技もないです。人畜無害の平社員ですから」
それを聞くと、彼女は目頭を押さえた。
「はいはい」と、軽く頷きながら、何故だか僕の背後に回る。
「なんですか?」と僕は尋ねみたけど、それには何も応えず彼女は僕の腰に腕を回して来た。彼女の細い手の感触が僕に伝わってくる。ちょっぴりひんやりとしていた。
ドキリ と、する。
もしかしたら、これはアレだろうか? いきなり“ムフフ”な展開というやつだろうか? なんてこった! まるで夢のようだ! こんな美しい女性と、そんな表現が憚れるようなことができるだなんて!
しかし、それからエルフの彼女はその回した手に強く力を込めると、いきなりこう叫んだのだった。
「そんなんで、この世界を救えるはずがないでしょーが! 異世界なめるな! こんちくしょうめ!」
そして、そのまま僕をジャーマンスープレックスで放り投げたのだった。先の穴の中に僕は投げ込まれる。
「そんなぁぁぁぁぁ!」
と、僕は叫び声を上げて、そのまま真っ暗で何も見えない視界の中を高速で落ちていった。
なんで、こんな目に? と僕はそう思う。ちょっとばかり理不尽だ。
ただ、ま、投げられる時に彼女の二つの胸の感触を背中に確かに感じれれたものだから、これはこれで夢のようだとも思ったのだけど……
「……で、起きてみたら、やっぱり夢だったという訳ね?」
そう鈴谷さんが言った。
「まぁ、そんな感じだよ」と、僕。
そこはとある読書喫茶で、彼女、鈴谷さんはそこの店員だ。彼女とは同じ大学を出ていて、今でもこうして親交がある。親交がある、というか、まぁ、僕がこんな感じで一方的に彼女の店を訪ねているのだけど。
鈴谷さんは民俗学なんかを中心に社会学方面の学問に興味があるらしく、それでなのか大学を卒業すると、この少々、蔵書に偏りのある読書喫茶に勤め始めた。彼女なら、他にもっと良い就職先もありそうだと思うのだけど、彼女自身に不満はないそうだ。暇な時は、本を好きなだけ読めるのが良いのだとか。収入は大丈夫なのか、と少し心配にもなるけど、余計なお世話だろう。
それに、もし彼女の生活がピンチに陥ったなら、或いは“彼女と結婚”なんて、おいしい流れもあるかもしれない。
まぁ、それまでに僕の生活が安定していればの話だけど。
鈴谷さんは、少しばかり気の強いところがあるけれど、とても可愛く綺麗で素敵な女性だ。学生時代から僕は彼女に好意を持っていて、その気持ちは今も変わらない。
やや厚い眼鏡のレンズ越しでも力を失わない瞳で投げつけるように僕を見やると、鈴谷さんはカウンター席の向こう側からコーヒーを僕に差し出してきた。僕が注文したものだ。
「ああ、どうも」
と、言って僕はそれを受け取る。
「それで、佐野君はそんなどうしようもない夢の話を私にする為に、わざわざ仕事中にこの喫茶店にまで訪ねて来たの?」
いかにも呆れたといった感じで、鈴谷さんはそう言った。
「そんな物言いはないのじゃない? 僕はここのお得意様だよ? もっと丁重に扱ってくれてもいいじゃないか」
「あなたは仕事中なのでしょう? 真面目に仕事をしなさいな」
「近くまで来たから、ちょっと寄っただけだよ。それに何度も言うけど、僕は一応客なんだよ?」
「読書の邪魔になるわ」
「読書って……、鈴谷さんこそ、仕事を真面目にやるべきだよ」
少なくとも喫茶店の店員の態度じゃない。
「それに、さっき話したあの夢の話は、単なるどうしようもない夢って訳でもないと思うんだ。きっと、もっと重要な意味が……」
「あら? まさか、佐野君は本当にそんな異世界があるとでも思っているの?」
「いや、夢は夢だよ? でも、夢だからってすべてくだらなくて意味がないとは限らないじゃないか」
「そう? 良かったわ。美人のエルフにいきなりジャーマンスープレックスをかまされて現実世界に強制送還されるなんて出来事を、佐野君が現実だと言い出さなくて。危うくカウンセリングを受ける事を勧めるところだった」
なんかちょっと言葉に刺があるような気がするのは、夢の中の美人エルフに少しは嫉妬してくれているからだろうか? まぁ、まさかとは思うけど。いつも、彼女はちょっと僕に対してはきつめだし。
「とにかく、僕の話を聞く前に、このウェブ小説投稿サイトを見てほしいのだけどね」
「小説投稿サイト?」
「そう。ちょっと見てみてよ」
そう言って、僕は持っていた仕事用のノートパソコン画面でそれを鈴谷さんに見せた。本当は私用には使っちゃいけないのだけど、これくらいは許されるだろう。そのページには、ちょうど小説のランキングが表示されていた。
「これが?」と彼女。
「気付かない? ランキングの上位ほとんどが異世界転生とか、異世界転移の異世界ものなんだよ」
「まぁ、それは分かるけど…… あ、もしかしたら、佐野君がそんな夢を見たのは、こういう小説をたくさん読んでいたからって事?」
「いや、違う。ま、少しは正解だけど、そんなに読んでないし。
夢って少なからず現実のなんかが反映されるもんだろう? そして、まぁ、これは夢じゃないけども、僕だけじゃなく、これだけ多くの人が異世界を望んでいるって事でもあると思う。それって、今の社会の現状となんか関係があるのじゃないのか?と思ってさ」
それを聞くと、鈴谷さんは少しだけ微笑んだ。
「なるほど。少し強引だけど、分からなくもないわ。異世界に行く物語って、古今東西に溢れている訳だしね」
気の所為じゃなければ、鈴谷さんの機嫌が少し良くなっているように思える。彼女は社会学関係が好きだから、この手の話には食いついてくるのじゃないかと思ったんだ。
「桃源郷、常世の国、隠れ里、天狗の国、鼠の国、猫の国、浦島太郎に出て来る竜宮城だってその一つね。日本だけでも枚挙に暇がないくらい。その他にも例えば、一つ山を越えた向こうには、死者達の暮らす国があって、皆はそこで幸せに暮らしているだとか」
僕は軽く首を傾げるとこう言った。
「あの世が、山一つ向こうにあるの?」
「そういう世界観もあるのよ。天国とか地獄とかで想像されるような、あの世が遥か遠くにあるという世界観とは別に、比較的近くにあの世が存在しているとする。まぁ、どちらにせよ、そういった異世界観には“向こうの世界に行けば自分達は幸せになれる”って発想が見え隠れしているわ」
やっぱり鈴谷さんにとって好きな話題だったらしい。饒舌になった。彼女はクールに見えて、興奮すると喋るのが止まらないようなところがあるんだ。まだまだ続く。
「そういう意味の“現実逃避としての異世界”って言うなら、何もファンタジーな世界に限る必要はないわね。例えば、アメリカンドリーム。アメリカにはチャンスが溢れていて誰でも成功者になれる。実際は、そんなに甘くなくても本当に夢を求めてアメリカに行く人達がいる。もちろん、これはアメリカだけに限らないわ。この日本だって、海外からそういう“夢の国”として捉えられている場合もあるし、逆に日本人が海外に夢を見る場合もある。その昔、新しい世界での新しい生活を夢見て、移民をしたたくさんの人達がいた。そう言えば、少し前に、“沖縄での生活に憧れて、引っ越しをする若者達”なんてニュースを観た気がするわ。
別の国じゃなくても、別の階級へ憧れるなんて場合もあるわね。金持ちのお嬢様が、堅苦しい上流階級の暮らしを捨てて、庶民の気楽な暮らしに憧れる物語とか、反対に貧乏な人が上流階級に憧れる物語とか。
人類は地球上のいたるところに住んでいる訳だけど、人類の生息域が広がっていった背景には、異世界に夢を託すというのが、人類の普遍的な願望だからというのもあるのかもしれない。もしかしたら、生物学的な特性とも言えるのかもしれないわね」
鈴谷さんはそれだけのことを一気に語った。とても楽しそうだ。僕も嬉しくなる。楽しそうに喋る彼女を見ているだけで、僕は仕合せな気分になれるんだ。
「でも、異世界から戻ってくるってケースもあるじゃない?」
「それはもちろんそうね。異世界が、単に富を得る手段に過ぎないケース。“おむすびころりん”の鼠の国だとか。
因みに、“おむすびころりん”の鼠達には特に説明がないけど、恐らくは大黒天の神使としての鼠だと思う。鼠は食糧や宝物の類を齧って駄目にしてしまう。その連想から、鼠達は宝物を奪って貯め込んでいるという発想が生まれたのだけど、いつしかそれが財宝と結びつき、更に大黒天とも結びついた、なんて話を読んだ事があるわ。本当か嘘かは知らないけど。因みに、“おむすびころりん”に似た話として、“ひょう徳さま”の昔話なんかがあったりするわ」
それを聞くと、僕はこう言った。
「鈴谷さんの話を聞いている限りじゃ、別に“異世界”が重要なのじゃなくて、問題解決を“未知の何か”に求めているって感じにも思えるけどな……」
鈴谷さんは頷く。
「そうね。現状には明るい材料がない。だから、“自分達の知らない何らかのもの”にそれを求めているのかもしれないわね。それが解決手段になる場合もあるかもしれないけど、思考麻痺に陥って、依存するようではやっぱり問題があると思う……」
そこまでを語り終えると、彼女は急に冷めた顔になった。もしかしたら、自分自身の言葉で我に返ったのかもしれない。そして続けてこう言う。
「ところで、佐野君。いつまで仕事をさぼっている気? あなたは仕事中なのでしょう? この喫茶店を現実逃避の為の異世界にしないで、さっさと仕事に戻った方が良いと思うわよ?」
その言葉で、僕は文字通り、“鈴谷さんとのお喋り”という桃源郷から、一気に現実世界に強制送還されたのだった。夢の中で会ったあの美しいエルフは、案外、鈴谷さんだったのかもしれない、なんてそれでそう思う。そう言えば、目元が似ているような気がしないでもない。
それから僕は、ジャーマンスープレックスで鈴谷さんが僕を穴の中に放り込んでいるシーンを想像して少し笑ってしまった。
「何を笑っているの?」と鈴谷さん。
「いや、別に」と僕。
いつまでもいると彼女が怒り出しそうだったので、僕はお金を机の上に置くと、席を立ってカバンを持った。
「釣りはいらないよ、とっておいて」と僕が言うと、「ちょうどだけどね」と笑いもしないで飽きれた声で彼女はそう返した。
「それじゃ、現実…… もとい、仕事に戻るよ。さようなら、鈴谷さん。また、来るから」
「はい。また。できれば、今度は仕事中以外の時に来てね」
彼女がどんな気持ちでそれを言っているのかはその表情からは読み取れなかった。ただ、少なくとも、僕が店を出ようとするなり本を手に取っていたから、僕がいなくなって寂しくなったとかはなさそうだ。
実は彼女は読書に熱中する事で、現実逃避しているのじゃないかと、それで僕はそんな事を思ったりしたのだけど。
「さて、仕事だ」
僕は喫茶店を出るなりため息をついてそう言うと、ゆっくりと歩き始めた。
僕はとある情報技術会社に勤めている。ただし、僕自身にプログラム関連のスキルはない。システムを売り込んだり、顧客の話を聞いて、それをエンジニア達に通したり、逆に顧客に提案をして、案件を受注したりするのが主な仕事内容で、まぁ、つまりは営業とプランナーを兼ねるような位置にいる。
そして、そんな僕が受け持つ仕事の内の一つに“高齢社会の為の新社会設計プラン”があった。
僕の会社は、それほど大きくはなく、だから専務や社長といったお偉いさん達とも接する機会が多いのだけど、それでよく顔を合わせる技術部門のトップに懇願され、僕はその“高齢社会の為の新社会設計プラン”を受け持つ事になったのだ。
どうしてその技術部門のトップが、僕に声をかけたのかはよく分からない。当初は、僕の実力を認めてくれたのかと思って良い気分になっていたのだけど、考えてみれば僕にそれほどの実力はないので、恐らくは“与し易い”と思われただけだと思う。
「考えてもみろ、これから先、高齢社会が進んで日本はやっていけると思うか?」
と、そのトップは僕に言った。
「労働人口はどんどん減っている。だから絶対に、何処かで労働力を節約しないといけないんだよ。そうじゃないと、高齢者介護の為の人員だって確保できないし、経済だって停滞しちまう。もちろん、その解決の為には情報技術が活かせる。だからこそ、俺達の出番って訳だよ……」
その話を聞いた時、僕にはどう情報技術を活かせば労働力を節約できるというのかまったく想像ができなかった。だけど、詳しく話を聞いて大いに納得をしてしまった。
日本の流通業には、中間業者が多く、実はそれなりに労働力を節約できる余地があるのだ。流通。製造業者から物が運ばれて、最終的に消費者の手に渡るまでには、多くの業者を経由している。ところが、インターネットの技術を活かせば、この業者を減らす事が可能なのだ。
極端な話、製造業からいきなり消費者に生産物を届けるなんて事もできる。製造業者がネット上で商品を販売して、それを直接消費者が買えば良いのだから。
もしそんな風に中間業者を省けたなら、当然、中間業者はそれほど必要なくなる。これは失業者を生むという事でもあるのだけど、同時に新たな労働資源が生まれたという事でもある。その労働資源を介護なんかに向ければ、介護不足問題を改善できる。
そんな事をしたら、中間業者が潰れてしまうって?
確かにその通り。それも問題だから、その点も考慮する。一石二鳥の手があるんだ。その中間業者に介護福祉ビジネスに参入してもらうのだ。
そんな事が可能なのかと疑問を覚える人もいるかもしれないが、しかし、これが実はそれほど無謀な話でもないらしい。実際に、公共事業が減って仕事がなくなった地方の建設業者が、介護福祉ビジネスをやり始めたなんて実例があるのだとか。
まぁ、余程特殊なスキルが求められない限り、なんでもやってやれない事はないものなのかもしれない。
もちろん、その為には、介護福祉ビジネスに支払うお金が必要になって来る。だけど、中間業者が省けた事で、普通の商品の価格は下がるから、その分が当てられるはずだ。つまり、他の商品で循環していた通貨の一部を、介護ビジネスで流れるようにするって事なのだけど。スムーズにそれをやるとなると、ちょっと難しいかもしれないが、決して不可能ではないはずだ。
そして、この“流通の無駄を省いて介護ビジネスを拡充する方策”を実現する為に、僕らの情報技術会社がシステムを提供する……、それが技術部門のトップが思い描いている構想だった。具体的には、中間業者へコンタクトを執り、介護福祉業への参入を促した上で、元流通業のノウハウも活かせる宅配ビジネスをも絡めた業態を提案する。商品を届けるのと同時に、介護サービスを行うのだ。
もちろん、そのサービスの取引や契約は、僕らの会社がつくったシステムを通じて行う訳だけど。
ただし、この計画を進める為には国、または自治体の協力が不可欠だろう。特に難しいのが、中間業者を省いて新たに介護福祉ビジネスを展開する時の流れ。民間だけじゃ、流通業で流れていた通貨を、介護福祉で流れるようにする“通貨の循環”の移行を問題なく実施するなんて不可能だ。
何処からお金が出て、どうやって徴収するとか、色々と問題がある。
だから僕は、まずは自治体にこの話を持って行ったんだ。実を言うと、初めの頃は楽観的な気分でいた。高齢者の介護不足問題が改善する上に、介護ビジネスだって発展するんだから。今のところは、まだ介護ロボットが急速に普及するなんて起こりそうにないし、各自治体や国が、高齢者社会対策にほぼ打つ手なしの状態なのは、よく知られた話だから、これはまさに“渡りに船”であるはずだ。
ところが、現実はそんなに甘くはなかった。自治体に行って話をしても真っ当には取り合ってもらえない。彼ら自治体の職員達は、「法律上の問題と」か、「民間の理解を得られないだろう」とか、何かしらできない理由を言うのだけど、どう考えても解決方法があるようにしか思えず、やりたくないもんだから適当にそんな事を言って誤魔化しているようにしか思えなかった。ようやく話を聞いてもらえても、「ご検討します」だけで後は何もない。
何回か似たような経験をしてなんとなく僕は察した。彼らだって充分に僕達の言っている内容は理解しているらしいし、もし成功したならその意義がどれだけ大きいのかも分かってはいる。だけど、彼らの頭の中にあるのは、ただただマニュアル通りに行動する事、それだけで、その他の面倒くさそうな仕事は一切やる気がない。
つまりは、そういう事らしかった。
仕方なく僕は話を聞いてくれそうな様々な民間の会社を当たった。こちらも芳しい反応があるとは言い難かったけど、中には「とても面白い」と興味を持ってくれる人もいた。ただ、それでもやっぱり「国か自治体の協力を得られないと難しいだろう」と、本腰を入れてくれるような気配はなかった。
できれば、彼らも一緒になって集団で国や自治体に協力を求めてくれるようになる事を期待したのだけど、やっぱりそこまでは無理だったようだ。
ただし、ただ一人だけ例外がいた。僕の話を面白がってくれた中に、吉田誠一という男がいたのだけど、彼だけは自治体にまで行って一緒に職員を説得してくれたのだ。妙にマイペースな人物で、背は低いが迫力とも違う何か独特の雰囲気があった。ただ、彼がしたのは説得というよりも論破で、それはもう容易く相手を見事に論破してはくれたのだけど、論破では協力の意思を引き出すのは難しく、結局は失敗に終わった。
彼によれば、もしも僕の会社が提案している事が実現したなら、経済成長が起こるのだそうだ。
「仮にその試みで、介護福祉分野の規模が広がったなら、それはその分だけ“通貨の循環量が増える”って事を意味する。そして、通貨の循環量が増える事こそが経済成長だから、それは自明だね」
彼は僕にそう説明してくれた。
なんだか知らないが、そういう事らしい。
つまり、もしも僕らの提案が実現したなら、介護分野の労働力不足問題改善だけでなく、経済効果もあるのだ。
そう思うと、ますます惜しい気持ちになった。
僕の仕事は、別に“高齢社会の為の新社会設計プラン”だけじゃない。だから、これが上手くいかなくても何とかなるのだけど、それでも一向に進まないどころか少しの希望も見出せない現状に、僕は落ち込んでいた。
まぁ、だから、鈴谷さんのいる喫茶店に現実逃避していたわけだけど……。
国が介護不足問題や労働不足問題をどう考えているのかは分からない。
だけど、嫌な噂なら時折耳にする。
国会で議論が始まっている憲法改正案の中に、“家族条項”というものが存在するらしい。これが憲法に加えられると、家族には介護を行う義務が発生してしまう可能性がある。もちろんその義務を担うのは、現役世代だ。
つまり、国は何かしら工夫をするつもりは一切なく、その負担の全てを現役世代に押し付けてしまおうとしている、というのだ。
この噂が本当かどうかは分からない。だけど、もし仮に本当だったなら、どう考えても現実的じゃないだろう。既に高齢社会の影響で、現役世代への負担が深刻な社会問題になっているのに、これ以上負担を増やしてしまったなら、恐らく、現役世代は潰れてしまう。そうなれば社会全体が衰退するのは必然だ。
もう一つ噂はある。どちらかと言えばこちらの方がまだ現実味があるけど、海外から労働力を持って来るという、つまりは実質的な移民政策だ。
移民政策は非常に難しい。そんなに簡単に上手くいくようなものではないはずだ。周辺住民との軋轢、犯罪、数多に問題になりそうな要素がある。しかも今、日本は既にテロへの戦いを宣言してしまっていてテロ組織から敵視されている。移民政策はテロを呼び込んでしまうから、世界で最もテロ対策が脆弱と言われる原子力発電所も含めて、非常にリスクが高いと言わざるを得ない。
もしも、本当に国のトップの方にいる人間達が、こんな事を考えているとするのなら、やっぱり、これも、現実逃避になるのじゃないだろうか?
僕は相変わらず希望が見出せないで塞いだ気持ちのまま街を歩いていた。まるで情景が一致するように、空はなんだか曇っている。まだ昼のはずなのだが、辺りはその所為で薄暗くなっていて、だからなのか、僕には現実感が感じられなかった。
不意に話しかけられた。
「やぁ、佐野君」
見ると、そこには吉田誠一の姿があった。僕は少し驚く。
「どうしたんですか? こんな所で」
偶然にしても珍しい。
「何、ここらにちょっとした用事があってさ。ちょうどいい。できれば君にも手伝って欲しいんだけど」
「手伝う?」
「そう。説得に協力して欲しいんだ。困った事に、僕の姿も声も既に彼らは知覚しようとしないんだよ」
知覚しようとしない?
つまり、無視されているという事だろうか。
僕はそれを聞いて戸惑ってしまった。しかし、彼には以前僕の仕事を手伝ってもらったという恩があるから無下にもできない。
「僕にできる事なら是非手伝いたいですが、まだ仕事中でして」
それでそう言ってみると、吉田誠一は「それなら大丈夫だよ。君の仕事にも関わりのある事だから」と、そう返してきた。
「僕の仕事?」
「うん。ほら、例の高齢社会対策だよ。この説得が上手くいけば、君の会社の計画もきっと前に進む」
それを聞いて、僕は彼が自治体か国かの何らかの組織に向かうのだと想像した。
「あの……、 それは、またお役所の人達の所を説得するという事ですか?」
「いや、お役所よりももっと“深い”所だね。説明は難しいのだけど、国政に関与している人達がいる場所だと思ってくれて構わないよ」
「へぇ」
それなら会っておいて損はないだろう。そう考えた僕は、「なるほど。分かりました、お付き合いしますよ。役に立つかどうかは分からないですが」とそう返した。
それに吉田誠一は数度頷くと「良かった。助かるよ」とそう言った。
それから彼は何も言わずに歩き始めると、近くにあった大きなビルの中に躊躇なく足を踏み入れた。そのビルには、いくつものテナントが入っていたけど、どれも民間だ。不思議に思っていると彼は地下に降り始めた。エレベーターを使わず階段で降りている。僕は奇妙に思いつつも付いて行った。
記憶している限りでは、地下に会社なりなんなりが入っているという表記はなかったはずだ。何処に向かうつもりなのだろう? しかも、降りれば降りるほど、辺りは暗くなっていった。真っ当な組織があるような雰囲気ではない。
「あの、何処に向かっているのですか?」
不安になって僕は吉田誠一にそう尋ねてみた。
「地下深くにある、ある部屋だよ」と、彼はそう答える。答えになっているようには思えない答えだ。
僕は彼の背中を見続けるうち、自分が異世界にでも導かれているような気分になった。吉田誠一には奇妙な雰囲気があるから、導き手に相応しいような気がしないでもない。眼鏡のウサギにはとても思えないが。
地下の最後の階に辿り着いて、吉田誠一は今度は通路を歩き始めた。とても暗い道だった。電灯はほとんどなくて、あまりの心細さに“非常口”の看板の弱い灯りにすらすがりたい気分になる。
「本当にこんな所に、国関係の施設があるのですか?」
僕が尋ねると吉田誠一はこう答えた。
「うん。ちょっと特殊な場所でね」
「でも、どれくらい進めば良いのか」
不安を感じ続けている所為か、僕はもうかなり歩いた気になっていた。ところが、僕がそう言うと吉田誠一は立ち止まったのだ。
「安心してくれ。もう着いたから」
そこは通路の行き止まりだった。大きな扉がある。部屋の扉と言うよりは、倉庫か駐車場にでも続いていそうな扉だった。
それからゆっくりと彼はその扉を押し始めた。扉が開いていく。部屋の中からは綺麗な光が漏れて来ていた。そこは一見、普通のオフィスの入り口のように思えた。清潔な受付。NPKGという大きなロゴが壁にでかでかと貼ってある。
NPKG。
何の事だろう?
扉が開いたことに反応したのか、異常に規則正しそうな女性が奥の方からやって来た。速歩きで、近付いて来る。警戒しているようでもあったし、その状況を楽しんでいるようでもあった。
僕の目の前まで来ると、その女性はペコリとお辞儀をした。「すいませんが、ここから先は関係者以外立ち入り禁止になっています」
何故か、彼女は吉田誠一をまったく無視していた。もしかしたら、彼を見知っているのかもと思ったけど、そんな感じでもない。彼は肩を竦めてため息を漏らした。これが彼の言う“知覚しようとしない”というやつだろうか。
そして、それから彼は僕に向かってカードを差し出してきた。紐でぶら下げられるようになっているケースに入っていて“入室許可書”と書いてある。それを僕が受け取るなり、女性は驚いた表情を見せた。
「申し訳ありません。入室許可書をお持ちの方でしたか。どうぞ、こちらへ」
そう言う。吉田誠一の方を見ると、彼はゆっくりと頷いた。それで僕は彼女が導くままに奥へと進んだ。吉田誠一も一緒で、彼は入室許可書を持っていなかったけど咎められるような雰囲気はない。僕の表情から疑問を抱いている事を察したのか、彼はこんな事を言って来た。
「さっきも言っただろう? 僕の姿を彼らは知覚しないようになってしまったんだよ。だから、僕には許可書も必要ないんだ」
へ?
僕は首を傾げる。
知覚しないというのは、そのままの意味だったのか? 無視されているのではなくて。どうしてそんな事になっているのか、想像もできないけど。
奥に進むと、普通の会社で見るような風景が広がっていた。ただ、違和感も大いに感じる。まず、窓がある事はあるのだけど、その向こうは外ではなく、まるで工場のような場所で、しかもそこでは何かの機械が「ゴウン、ゴウン」と大きな音を立てて動いていた。回転している。そんなものが外にある中で職員らしき人達が、何も気にせず働いているものだから、まるでシュールな漫画のように僕には感じられた。
やがて、眼鏡をかけた面長の顔をしたいかにも真面目そうな男が僕らの目の前に現れた。その男は受付けの彼女と何事かを話すと僕を観察するようにじっくりと眺め、それから訝しげな表情をつくってからやはり何事かを彼女と話すと、それから僕に近付いて来た。
ペコリと、お辞儀をする。「どうも。失礼をしました。今日は、当NPKGに、どのようなご用件でしょうか?」
やはり吉田誠一はスルーされている。彼の言う通り、ここにいる人達は彼を知覚していないらしい。どういう事なのかはさっぱりやっぱりまったく分からないけれど。それにしても、そもそも、この“NPKG”ってどういった組織なのだろう? どうして彼はここと関わりがあるのか。
吉田誠一は「いつも通りに、君の会社の計画を説明すれば良いよ」と言った。その声もここの人達には聞こえていないようだ。
少し迷ったけれど、僕は彼の言う通り“高齢社会の為の新社会設計プラン”をその男に説明する事にした。
「実は高齢社会に適応する為の、労働力の節約及びに介護福祉を拡充する計画についての説明させていただきたいと思いまして」
そう口を開く。
すると、真面目そうな男は「ほぅ」とそう言った。演技でなければ、興味を覚えてくれたように僕には思えた。
「それはどのようなものなのか、是非とも聞いてみたいです」
“おおっ!”と僕は思う。こんなに積極的に話を聞いてくれるなんて、初めての事かもしれない。ところが、喜んでいる僕を見て吉田誠一は軽くため息を漏らしたのだった。
“なんだろう? 何か問題でもあるのだろうか?”
それで、僕はそんなほとんど不安と見分けがつかないような疑問を覚えた。
応接室のような所へ通され、僕はそこで先の真面目そうな男に“高齢社会の為の新社会設計プラン”についてを説明した。情報技術の活用によって、流通業の労働力を節約し、それを介護福祉に当てる計画。男は真剣に僕の話を聞いてくれた。ふむふむと相槌を打ち、僕の目を見ている。
「なるほど。非常に興味深い計画です」
一通り説明を終えると、男はそう言った。
「この日本の為に、懸命に考えてくれている。それだけでも私は感動を覚えます。ですがしかし、私の所見を述べさせてもらうのなら、そのような計画は必要ないかと思います」
僕はその彼の言葉に驚く。
「いえ、ですが、日本の労働力は減り続けていて、介護福祉は不足している訳ですから……」
そう僕が言いかけるのを、男は手の平を前に出すボディランゲージで止めた。
“何だろう?”
僕が訝しげに思っていると、男はにやりと笑ってからこう言った。
「この音が聞こえませんか?」
音?
そう言われても、職員達の話声や空調が回る音など様々な種類の音が耳に入ってきているので、何の事なのか僕には分からなかった。迷っていると、男はこう続けた。
「“ゴウン、ゴウン”と響いて来ているでしょう?」
どうやらさっき窓の外に見た何らかの機械が回るあの音を言っているらしい。男は更に続けた。
「あれは輪転機が回る音です」
「輪転機?」
「そうです。実はあれによって、紙幣が刷られているのです。断っておきますが、偽札ではありません。正式な紙幣が刷られているのです。しかも何十兆円という規模の紙幣が刷られています」
僕はそれを聞いて首を傾げた。
“それがどうしたと言うのだろう?”
仮に刷っている金額が、京だろうが、那由多だろうが、無量大数だろうが、どれだけ増刷しても紙幣なんてのはただの紙切れで、それで労働力不足問題が解決する訳でも、介護福祉不足問題が解決する訳でもない。
どう応えれば良いか分からず、僕は「はぁ……」とそう言った。僕の表情で、僕がその言葉に疑問を抱いているのを男は察したらしかった。
「それだけの規模の紙幣が流通すれば、皆はそれを使うでしょう。そして、皆が紙幣を使えば経済は回復する。そうすれば、問題は全て解決するのです」
“はぁ?”
僕はそれを聞いて、思いっ切りクエッションマークを頭の上に浮かべていたと思う。この人は何を言っているのだろう? 経済ってのはそんなに簡単なもんじゃないはずだ。それで経済が回復するというのなら、何処の国でもやっている。
そのタイミングで、吉田誠一が口を開いた。
「経済の成長とは、“通貨の循環量”が増えること。しかし、その為には、もちろん、通貨が循環する場所が必要だ。例えば、それは太陽電池だったり、ロボットだったりする。世の中で太陽電池が商品として売買されるようになれば、太陽電池についての“通貨の循環場所”が生まれ、その分だけ通貨の循環量は増えるのだね。
だから、もし通貨を増やしたなら、それと一緒に通貨の循環場所も増やしてやらないといけない。ところが、現在、国はその為の努力を充分にはしていない。それには労働力が必要だし、投資を促すような政策だって必要だ。それなのに放置をしている……
“通貨の循環場所”を増やさずに、通貨だけ増やしたって上手くいきはしないよ。こんなのはほとんど考えるまでもない事だ。自明だと言ってしまっても良い」
例によってその彼の声は、男には届いてはいないようだった。僕が戸惑って彼を見ると、彼は「伝えてくれ」とそう言った。僕は少し考えると、こう男に告げた。
「ですが、何かしら製品がないと通貨は使われないはずでしょう? そして、製品を作り、それが市場を流通する為には、労働力が必要ですよ。その為の労働力が不足し始めているのですから、どれだけ通貨を増刷しても無駄なのではないですか?」
吉田誠一の説明を、一般的な言葉で表現するのならこんな感じだろう。男はそれを聞くと意表を突かれたような表情をわずかに浮かべはしたけど、それほど動揺することもなく、淡々とこう言った。
「問題ありません。日本社会の底力はとても強い。本気になれば、多少の労働力不足など跳ね飛ばす程に皆働くでしょう。そしてその力を引き出す為には、通貨を増刷する必要があるのです」
僕はその説明を聞いて、戦時下に言われていた“一騎当千”とか、そんな辺りの言葉を思い浮かべた。つまりは単なる精神論。精神論でなんとかなるほど、経済は甘くはない。僕は次にこう言ってみる。
「ですが、もし仮にそれで経済が成長したとしても、介護福祉不足が解決するとは限らないでしょう? 介護福祉を置き去りにして、経済が成長してしまうかもしれない」
男はそれに訝しげな顔を見せる。
「大丈夫です。景気が回復して収入さえ増えれば、皆は介護サービスを受けようとするでしょう。そうすれば、必然的に自然と介護サービスは拡充しますよ」
「労働力が不足しているのに、ですか?」
「です」
“どんな理屈で、それが実現するというのだろう?”と、僕は疑問に思ったけれど、相手が怒り出しそうだったので何も言わないでおいた。すると、その時にまた吉田誠一が口を開いた。
「実体経済の取引に用いられる訳でもないのに、通貨を増刷し続ければ、いずれは必ず金融経済は不安定な状態に陥る。そして、実際に現在、金融経済はそのような兆候を見せてもいる」
多分、“言え”という事だろう。それで僕はそのままを言ってみた。すると、男は「問題ありません」とそう言う。ただし、何の根拠も述べない。吉田誠一はそれを受けて大きく二回首を横に振った。とてもとても残念そうに。
「もう既に、かなりの長期間、異次元とも評される金融緩和を行っている。にもかかわらず、景気は回復していない。確かに物価は上昇してはいるが、それは労働力不足によってもたらされているもので、つまりは景気の停滞と物価上昇が同時に起こるスタグフレーションだと判断できる。
異次元の金融緩和は、どう好意的に表現しても“実験”であるとするのが妥当だ。そして、その実験は既に失敗している。素直に現実を受け止めて、実体経済中心の経済政策に移行するべきだ。情報技術の活用、新たに発展しそうな新分野の開拓、まだまだやれる事もやるべき事もたくさんある」
吉田誠一は、まるで吐き出すようにそれだけの事を言った。珍しく自棄になっているようにも見える。僕はその彼の言葉も男に告げてみた。長いので確りと伝えられたかどうか不安だったけれど、男の表情を見る限り、問題はないようだった。
男は吉田誠一の言葉を受けて、顔に青筋をつくったのだ。“こりゃ、怒り出すぞ”と、僕は覚悟をした。ところが、それから男は急に空気が抜けるように無表情になり、しかも目を泳がせたのだった。僕を見ていないように見える。
なんだ?
吉田誠一が更に続けた。
「高齢者に関しては、“定年”という概念を捨てて、働ける人には何歳になっても働いてもらう方が良い。そうすれば、年金の支払額が減る上に、支える側の人口も増える。まだ、この案が出ていない方が不思議なくらいだ。それからもちろん、女性の活用も忘れてはならない。多くの人が勘違いをしているが、共働きの方が出生率は高い。専業主婦幻想など捨てて、労働力として積極的に女性を用いる体制を整備するべきだ」
同じ様に僕はそれを伝えてみた。しかし、今度は男は表情を変えない。それから、しばらく迷うような動作をして、不思議そうに席を立つと、挨拶もせずに応接室を出て行ってしまった。突然、記憶喪失にでもなってしまったかのような感じだ。
“なんだ?”
僕が不思議に思っていると、吉田誠一が言った。
「やっぱり、駄目だったか……」
僕はこう尋ねる。
「なんであの男は僕を無視して出て行ってしまったのですか?」
「僕と同じだよ。彼は君の存在を知覚しないようになったんだ。ここにいる人間達はね、何か都合が悪い事を言う人間がいると、それを知覚しないようになってしまうんだよ。多分、そうやって現実から逃避しているんだろうと思う」
「つまり、さっきのあの男には、僕が見えなくなったと?」
「いや、“見えない”じゃない。“見なく”なったんだ。恐らく記憶の中からすらも君の存在を消している。そんな連中だから、説得するのがとても困難なんだよ。理屈を理解させてもそれをなかった事にしてしまう。だけど、諦める訳にはいかないんだ」
吉田誠一はそう言うと、僕をじっと見て言った。
「君も協力してくれるよね? 彼らを説得できないと、この日本に未来はない。彼らに現実を直視させ、現実的な手段を執るように説得するんだ」
僕はそれを聞いて驚いていた。
「いや、待ってくださいよ。いくら話してもそれをスルーしちゃうような人達なんでしょう? そんなのどうしようもないじゃないですか。それに、あの人達には権力だってあるのでしょう? しつこく説得して、もし敵視されでもしたら……」
彼は僕の言葉にこう返す。
「確かに危険はあるかもしれない。だけど、やるしかないんだよ。このままいったら、どうせ社会全体が沈む」
「そんな……」
僕はそれを聞いてこう思う。
彼の理屈は分かる。誰かがやらなくちゃいけない事なのだろう。だけど、どうしてそれを僕がやらないといけないんだ?
辺りを見回す。どうしてこんなビルの地下にあるのかは分からないけど、高そうなオフィスだ。きっと金回りが良いに違いない。こんな連中と敵対するなんて冗談じゃない。僕はなんとか断ろうと口を開く。
「あの…」
しかし、その時だった。突然に、周囲が白くなり始めたのだ。
あれ?
「どうしたのかな?」
吉田誠一は僕の様子がおかしい事に気が付いたらしく、そう心配そうに言った。その間にも急速に辺りは白くなっていく。
「いえ、なんだか辺りが白くなってきていまして……」
それに彼は首を傾げる。
「なんだって? 僕には普通に見えるけど……」
そう言いかけて、彼は急に口調を変えてこう言った。
「分かったぞ。君はもしかしたら、この現実から逃げようとしているのじゃないか? だから、この場所を“見なく”しているんだ」
え?
その彼の言葉が終わるよりも速く、辺りは白に塗りつぶされていった。吉田誠一の姿すらも白くなる。
ただし、辛うじて彼の声だけは聞こえた。
「佐野君。駄目だよ、現実から逃避したら。それこそ、酷くなっていく状況に押し潰されてしまう。辛くても現実を直視して、そして確りと根拠のある方法を実践し、問題を乗り越えていかなくては…… 現実逃避したって、どうしたって結局僕らは現実から逃れられはしないのだから……」
だけど、その声すらやがて聞こえなくなっていった。ただ、ただ、周囲は白く、白くなっていく。思考停止。いや、これは思考拒否だろうか?
まるで、夢の中のようだ。
僕はそう思った。
「……で、起きてみたら、やっぱり夢だったという訳ね?」
そう鈴谷さんが言った。
「まぁ、そんな感じだよ」と、僕。
そこは例の読者喫茶で、例によって僕はそこに仕事中に立ち寄っていたりする。僕は言った。
「まぁ、とにかくね、鈴谷さん。僕はその夢で悟った訳なんだよ。現実逃避しているのは、異世界譚に嵌っている人達だけじゃなく、他にも色々とあるのじゃないかって。深刻な社会問題を野放していたりだとか、現実的じゃない経済政策を信仰したりだとか」
それを聞くと、軽く微笑んで鈴谷さんはこう返した。
「ふーん、なるほどね。確かにそうかもしれない。そういう意味じゃ“シンギュラリティ”とかも現実逃避かしら?」
「シンギュラリティ?」
「技術的特異点の事よ。そこに到達すると、人知を超えた人工知能の誕生により、夢のような世界が実現するのだとか。不老不死すら可能だと言っている人もいるわ。まぁ、民俗学に照らし合わせると、常世の国とか極楽浄土とかを思い浮かべてしまうけどね。これも現代の“異世界”フォークロアの一つなのかもしれない」
僕はそれを聞くと、腕を組んだ。
「現実から一時的に逃避するのは良いけど、逃避しっぱなしじゃ駄目な気がするけどな」
それに鈴谷さんは頷く。
「そうね。そういえば、フォークロアの異世界譚でも最後は結局、現実に戻ってくるって教訓的な話も多いわね。物語の類は、本来、教育なんかの為に用いられることも多くて、だから現実逃避を戒めるのは当たり前と言っちゃえば当たり前なのけど」
それから鈴谷さんは少し僕を見やると言った。
「でも、佐野君がそれを言う? 現実逃避してこの喫茶店に来ているくせに」
僕はそれを聞くと「ははは」と乾いた笑いを発した。どうやらバレていたらしい。
「僕はちゃんと現実に戻るじゃない。ここに寄るのは、飽くまで息抜きだよ。もう出るしさ」
そう言うと、誤魔化すように席を立つ。勘定を起き、コートとカバンを手に取った。鈴谷さんが言う。
「はい。確りと働いて、現実に立ち向かってらっしゃいな」
「分かってるよ。じゃ、また」
「また」
それから僕はその憩いの場である喫茶店を出た。
「さて、現実だ」
と、そう呟いて歩き始める。
アメリカ大統領選で、事前の予想を覆してドナルド・トランプ氏が大統領に当選してしまった。
差別主義者だとか、女性蔑視だとか、彼についての問題点は色々とあるが、彼の提示した政策に、「工場をアメリカに取り戻す」といったような、いくつもの現実離れしたものがある点もその一つだ。彼に投票した人々は、本当にそんな事が可能だと思ったのだろうか?
もしかしたら、彼の当選はアメリカ国民が現実逃避した結果、起こったものなのかもしれない。
いや、アリメカだけじゃない。
或いは、世界中の人間が現実逃避をし、そして更に状況を悪化させているというのが、今、この世界で起こっている事なのかもしれない。
できるのなら、異世界なんかに逃れないで、確りと現実に向かい合いたいと、少なくとも僕はそう思う。
ま、
できるのなら、だけど。
金融政策の「誤解」 早川英男 慶応義塾大学出版
って本を読んだのですが、この著者の方は、以前日銀で働いていて、実際に通貨を発行しまくる政策を支持している人達、つまり”リフレ派”に接しているそうなのですが、どうも精神論をよく語っているらしいです。
正直、とても不安になりました。
現実を見てほしいです。本当に。
微妙に関係がある歌を作りました
http://www.nicovideo.jp/watch/sm30241494




