階段
顔に纏わり付く水と泡……何より視界が効かず、何も見えない。
突然の事に何が起こったのか分からず、私は慌てふためいたが、何の事は無い、ただ水に落ちただけである。すぐに体が浮かび上がり、水面から顔が出た。
私は別に泳げない訳では無いし、こうなれば何も恐るべき事はない。ただ、水から頭を出し自分は単に水に落ちただけである事を把握し冷静になると、直前と変わらず通路に立っている人々が、笑い声を上げている事に気づいた。言葉は分からなくても、上を見上げて自分から水に落ちていった私を笑っている事は分かる。
それは、そうだろう。入口近くで壁の方に振り返り、通路の天井を見上げてその上を見ようと、後ろ向きに水に向かって突っ込んで行ったのだから。
恥ずかしさと後悔でどうしようもない気分で、岸辺というか通路まで這い上がろうとするが、水を吸った衣服が思いの外重く体に纏わり付き上がれない。季節はもう晩秋に近いのだから、私の服もそれなりに厚手なのが災いした。また、水面と通路にそれ程の高さの差はないが、水に濡れる部分だけでなく湿気を吸う部分は滑り、手のかけどころもない。
「落ち着いて。あっちに低くなっているところがありますから、回ってください。」
と上から親切にも掛けてくれる商人の声に従い、少し横に泳いでいくと、斜めに階段が水の中から通路まで上がれるように彫り込まれていた。
階段さえあれば上がるのは簡単だ。通路まで上がると、私に近い側に道を別れた商人達が、尚も笑いながら私を迎えてくれた。
「こんな風に階段がある位なんですからね。きっと、誰か時折落ちるんでしょう?皆さん何も、そこまで笑う事もないんじゃないですかね?」
と、私が思わず憤慨を口にすると、彼等は一応の礼儀として笑いを堪えながら、今度は私の腕を一人ずつ片手で軽く叩きながら、「まあ、大丈夫ですよ」等と声を掛けながら通り過ぎて行くから、ますますやるせない。
「いやぁ、すいませんねぇ。ここに初めて来ると、大概皆、この巨木の中の広さに驚き呆れるんですけどね。とりあえず、今迄、誰も落ちたという話は聞いたことがないんですよ。それで可笑しくって、ついね。まあ、ずぶ濡れのままでもなんですし、さっさと火のある所まで行って、そこで乾かすことにしましょう。」
と、最後に声を掛けてくれたのは、いつも世話になっている隊商の長だ。ただ、彼も相好を崩しきって、にやにやとした気持ちの悪い笑みを浮かべている。
ミニュの人々はと云えば、さっさと笑い声を上げつつも、階段を登り始めている。私が水面から出る時に上がった階段のすぐ先にその階段はあり、その部分は当然通路の天井は途切れている。何故私は具合のいい所まで、上を見上げる事を待てなかったのだろうか?本当に後悔というものは先に立つことは無い。
階段を上りながら、待望の天井の上の空間が見えた。ほぼ真っ直ぐこの巨木の「外壁」が上へと伸びている事は下からでも確認出来たが、それだけではなく、ずっと上の方から光が差し込んでいるらしいことが分かる。余り階段の端によって上を覗けば、また同じく踏み外して水面へと今度は高みから飛び込む事になりかねない。私は必死になって好奇心を抑え込み、観察は程々に、さっさと彼等について行くことにした。
ただ、それでも先程までより視界は広く、この巨木の構造が明らかになった。
階段は意外と緩やかで、六本の左へ左へと曲がる螺旋となって「外壁」に彫り込まれており、しばらく上がると今度は外壁を一周する様に、水平の通路が彫り込まれている。階段からは意外と見晴らしが良く、薄暗いながらも、すぐに全体の構造が見て取れた。
階段と通路が交差するところでは、階段はその通路――私は「回廊」と呼ぶ事にした――に道を譲るように幅を半分程に減じている。上がって行くと、外壁が横から迫り出してくるようになって階段が狭まったと思ったら、一周する通路に出る。そして、先程階段に迫り出してきた部分の上は通路の一部になっている。
次の「階層」へと向かう階段の続きは、先程階段が途切れた所のすぐ先、右手にある。一周する回廊は、階段と同じく、人がロバを引いてすれ違う程度には問題なく、十分な広さをしている。ただ、高さはそれ程高くなく、私が手を伸ばせば届く程である。
ここに馬を連れてくるのは、確かに不可能では無いとはいえ、少々厳しいだろう。特に、階段と通路の互いに譲り合うところは、私の馬には少し不安である。
ただ、それでも不可能ではないと思われる所が、この巨木の大きさの凄さである。
先行く彼等は、時折私が水に落ちた事を表す擬音らしき「ジュブワッポッ」という声を発して、大袈裟な身振りで私の動きを真似しながら、進んでいくのだが、その度に大声を上げて笑っている。どうやら、彼等にとって水に落ちるという事は、余りにも間抜けな事のようだ。この広大な巨木の内部に、私を笑う声が何度も何度も木霊する。
とにかくずぶ濡れで寒気も覚えるので、また道を踏み外して水面へと飛び込むことの無いよう、周囲の観察も程々にしながら、彼らについて階段をさっさと登って行く事にした。