誤算
翌朝目覚めると、周囲は静けさと慌しさに同時に満ちていた。煮炊きの為、火に薪を焼べる者、水を汲む者、その静かに動く姿それぞれに他者への気遣いが察せられ、穏やかな朝と言った印象である。到着に伴って気分にかなり余裕が見て取れる。
ただ、秋もいよいよ深まり、冷たい空気が露出している肌を刺す。ここ数日毎朝の事とは言え、目覚めた直後の顔の筋肉の強ばりは、彼等の気遣いに対して私の表情をとても不機嫌に見えるものにしているだろう。
寒いとは言っても火があればまだ耐えられないほどではないが、移動中はともかく寝ている間に冷え切った身体は、早く湯を与えて欲しいと訴えている。
まだ辺りは薄暗いのだが、見上げれば巨木の梢の方は既に燦々と輝く陽の光に照らされている。とりあえず寒いので焚き火で暖をとりながら、ぼんやりとした頭でミニュに着いた事を実感していると、商隊の長が話し掛けてきた。
「おはようございます。もう暫くしたら、全員に行渡るだけ湯が沸くと思いますんで、それ迄身支度でもなさって下さい。んで、この池まで陽が射す頃には、ミニュの人がやって来ると思います。馬ですけども、北側の斜面にでも連れ行ってやった方が、下草も生えてますし、いいんじゃないかと思いますね。」
池を回り込んで北側に馬を連れて行けば、行きは騎乗でも良いが、帰りは徒歩となる。先ずは湯でも飲んで身体を温めてからだろうと思いながら、気になっていた事を彼に尋ねた。
「ところで、取引や交渉事というのは、ここでなされるんで?別の場所に行くなら、馬は放つと後でまた呼んで捕まえるに面倒ですし、荷を動かすにも手間がかかりますからね。」
池の水は澄んでいるので、馬が飲めない事は無いだろうし、北側に連れて行って繋がなくてもここに暫く滞在するなら、放っても遠くに行く事はないだろう。実際ここは盆地だし、その周囲は森だ。本来草原を駆ける馬が、何処か行ってしまう事もないだろう。それならば面倒なので、荷を運んだ後そのまま解き放ってしまう方が楽である。森から獣が出て来るという事がなければだが。
「まあ、そうかも知れませんね。ただ、この後あの一番太い巨木の中に行く事になるんですけども、恐らく馬では少々難しいかもしれませんね。ここまで来て食糧はもう殆ど食べ尽くしてますし、他の連れて来た騾馬なり驢馬なりに積替えて運べば大丈夫でしょう。まあ、とりあえず湯が湧いた様なので、何か腹に入れて待つ事にしましょう。」
彼の指す方を見れば、他よりも数段太さのある巨木がある。これ程の巨木なのでその根も相当なもので、地面から丘の様に絡み合いながら幹へと向けて盛り上がっている。馬でも登れない事はないと思われるが、中に入ってからが困る、と言う事らしい。
適当に湯を貰い人心地つくと、ミニュに着いた事もありいつもより濃い目の麦粥が、盛大と言う程でも無いが皆に振舞われた。昨晩は皆何やかやしていた事もあり、湯で戻した肉入りの麦粥をさっさと掻き込んだ。食事としては肉入りのそれに比べれば劣るのかも知れないが、冷えた身体には暖かい食事は何よりの物だ。森林での移動中は旅程を稼ぐ為、日中は悠長に食べていられないので、隊商の食事は朝晩がとても重要になる。それを考えると、陽が射す時間帯まで、ゆったりと食べられるこの朝は気分的にとても優雅なものだという事もあり、満足感も一塩である。
結局、馬は食後に放した。話を聞けば、ここには十日程滞在するという事であるし、私はこの地に出来れば冬を越すまで滞在したいので、ここの人々への贈り物を積んできた馬匹三頭は、一旦不要だという事もある。
実は、可能なら春にまた隊商が訪れる時に、もう一度彼等に伴われて帰る予定にしていたので、馬を彼等に連れ帰って貰おうかと思っていたのだが見事に断られた。
「馬ですか……帰り道の餌の事を考えると正直無理ですね。残念ですが、お断り致します。」
とは、隊商の長の言葉である。確かに馬はよく食べる。そもそも餌の選り好みは驢馬や騾馬に比べて激しく、気性も繊細だ。補助的な馬糧として穀物をもって来ていたが、それもここに来る迄にほぼ全て喰い尽くしている。似たような物をこの地で補給出来る事を期待しているが、有るかどうか分からない。また、そうすると結局荷を圧迫する事になるので、隊商としては商いの旨味が目減りするだろう。
この隊商は総勢五十人程であるが、現実は寄合所帯だ。財布が共通なのは、旅の途上だけである。沢山の駄獣がいればそれだけ交易品が積める上、生活必需品等は共用にすれば良いので互いに利益となる。ただ、各自戻った時の事を考えれば、余計な物は抱え込みたくはないのは当たり前で、出来るだけ商品となる物を沢山積みたいに決まっている。また、行きと異なり、帰りは晩秋から冬至にかけてであり、厳しい季節である。確実に素早く帰りたいだろう。少ない馬草を見つけて、一々立ち止まって悠長に食べさせる様な事はしたくないのは分かる。
馬自体が運べるだけ自らの喰む量末を最低限でも積めば、ここから一番近い人の手の入った森までは辿り着けるだろう。従って、そこで馬を売り払って貰えば多少は利益も見込めるが、そうしないという事は推して知るべしと云うものだ。騎乗にも耐える馬を農村で農耕馬として売るのは惜しいし、そこまでの馬糧の為の出費を差し引くと大きな利益とは言い難い。
私がこの隊商の旅に便乗した時、自分と馬の糧食等の運搬を兼ねて供託金を肩代わりして、騾馬五頭と馬引き二人を誘って参加したのであるから、それに荷を積む権利を譲り渡すだけで彼等には十分な利益となる。再び隊商に参加しもう一往復して貰う分には、申し分無い条件である筈だ。となれば、馬は温存しておくべきだろう。
とにかく馬に関しては誤算だった。驢馬や騾馬より価値があるという事をに目を奪われていた。馬はそれなりに寒さに強いし、暫くして余裕が出来たら何か適切な方法を考えるとしよう。
そうこうしていると、俄に皆が慌しく駄獣を集め、荷を背に括り付け始めた。いよいよミニュの人々が私達を迎えに来たのだ。