到着
まずはこの地に到着した時の事から書き始めよう。今私のいる樹木の中とはどのようなものか、私が初めて見た時にどのように驚いたか知ってもらいたいからだ。
今や、ミニュのその存在自体は広く知られることとなったとは云え、それは単に森の中にある街、巨木の繁る所と言う程度でしかない。ここは未だ多くの人が訪れる地ではなく、祖国アルタリョの北に広がる大森林が山脈に接する所、いわば森林の最奥にある。当然、各地を結ぶ交易路からも外れ、何も無い森の奥と思われていた場所である。意図して赴かねば、誰も通る事はないが、そもそもそのような事を試みる者も、かつては皆無であった。
それが昨今は細々とではあれ、商人が訪れるようになったのだから、近世人の野望と努力の結果は驚くべきものである。
さて、私はこの地へと向かうその細々とした交易商人の一人に、隊商に同伴する事を願い認めて貰えたので、今ここにいる事が出来ている。
「なんだ?交易商だのみか?」と思う者もいるかも知れないが、旅をするにあたり伝手や先達、地理に詳しい案内人がいるならば、当然彼等を訪ねてみるべきである。新たな土地や交易路を探して、世界の遠くまで探検するならば、大規模な隊列や大船団を組んで、膨大な物資と共に旅をするのが原則であろうが、その様な事は王侯の支持を受けて行う者か、御伽噺に出て来る英雄以外無理だ。又、無論何の準備もなしにここまで来た訳ではない。交易商に同伴するとは云っても、彼等は当然の如く荷駄に交易品と食料、生活必需品を積んでいる。私が移動し、物資を運ぶ為の余裕等有りはしない。
あくまでも彼等に私がついて行くだけなのだから、自分の為の物資、それも滞在先での必要を賄うだけの交換用の品々と言ったものを含めた物資を用意し、それを積めるだけの駄馬を引き連れるのは当たり前の事である。今回は内陸で不足しがちな塩と、装飾もなくそれ程品質が高い訳でもない鋼の短剣、その他細々した荷駄を三頭分用意した。残り馬糧の補助としての雑穀と、雑多なものは騾馬五頭に載せ、馬引き二人を雇い彼等に任せている。
交易とは、各地の品毎の相場の違いを利用して上手く儲ける事にその本質があるが、それは旅を継続する上で最も大切な事でもある。もしこの旅の記録を読んで自分もと志すなら、この事はよく心に留めて置くといいだろう。
さて、話を戻そう。とにかく、私達が大森林の中に分け入り、道無き道―とは言っても、途中川沿いに蛇行しつつ進んだ所もあったし、徐々にその交易路としての性格は増しつつあるので、完全に道が無い訳ではない―を二月程進んだ頃、隊商の長が「もうそろそろですよ」と言ってきた。深い森林の中を歩いた事のある者は分かるだろうが、樹冠に遮られて日当たりが悪く薄暗く、見通しはとても悪く、木々に遮られて風もなく、森林特有の湿った空気の中歩き続けてきたので、森を抜けられるならばありがたい限りである。
その日の朝、当日中に抜けるであろう事は聞いていたので、「もうそろそろ」とは、本当に目的地が近いという事の筈だった。だが、眼前には薄暗い森が広がっている様にしか見えなかった。
ところが、歩を進めるうちに緩やかな上り坂になり、それを登り切った所で突如視界が開け、眼前に屹立する巨大な樹木の立ち並ぶ光景に唖然とする事となったのである。
「巨大な樹木」とは言っても、単に巨木というのではない。後に計測したところでは、人が両腕を広げて七十人程並ぶ程度の直径がある。その巨木が幾本も立ち上がり、また上を見上げれば森の樹冠の遥か上に、またこの巨大な樹木が枝を張り巡らせている。大森林深部の薄暗さ程ではないにしろ、日を遮っているので薄暗いのだが、枝の隙間から時折顔を覗かせる陽の光は、下草が生える程度には十分らしい。下枝は「下枝」とはいえども遥か高みにあるので風通しも良く、谷風が私の居るところまで吹き上がってくる。
それ程の太さの巨木が、またそれに見合った高さで幾本も聳え立っている。一見、錯覚か自分が小さな昆虫の様になり、森の木々を見上げている様な気分だ。屹立する巨樹の梢は、その枝に遮られて見えない。未だ随分と離れているというのに、その幹は私がかなりの角度まで見上げねば尽きぬ程。錯覚かこちらに向かって斜めに傾いて生えている様に感じる。
「ぼーっとしてないで行きますよ」という隊商の長の言葉に我に帰ると、私は今度は登りよりも些か急な斜面を共に降っていった。
斜面自体は馬匹でも容易に進める程度の傾斜ではあったが、所々に長さは人の背丈程度、幅は人間の脚の太さ程度の、中空の筒を半分に割った様な物が落ちており、滑ったり躓く事無く歩くにはそれなりの注意が必要ではあった。
「あの盆地の真ん中の池の所まで、先ずは行きますんで」という隊長の言葉に注意して見れば、確かにここは盆地であり、木々の向こうに―と言っても疎らに生える巨木だが―その中央に池がある。私達が乗り越えて来た緩やかな斜面というか丘は、遠くまで緩やかな曲線を描きながら続き、やがて巨木の背後へと回り込んでいく。
「あと、ここまで来たら頭上には注意してくださいね。意外に軽いんで、当たって死ぬという事はないと思いますけど、時折葉っぱが上から落ちてきますんで。当たるとそれなりに痛いですからね。」
隊長がいう「葉っぱ」の意味がわからず、私が不思議そうにしていると、彼は「これです」とこの辺り一帯に落ちている例の人の背丈程の樹木の筒の様な物を拾い上げた。確かに軽くて脆い為、それ程危険は無いのかもしれないが、当たれば痛かろう。幸いな事にそれ程頻繁に落ちて来る訳では無さそうだが、注意して見ていると、所々で落下中の「葉っぱ」が見える。どうやら、くるくると回転しながら楓の種の様に宙を舞いつつ落ちてくるらしい。いや、松葉の落下の方がより近いだろうか。
さて、歩き続ける事暫し、一向に近付いた気がしない。頭では分かっているのだが、余りの巨木の大きさに感覚が欺かれるのだ。その表面は正に木その物で、別段特徴がある訳でもなく、ともすればそれ程遠くない所に大きいとは言っても「普通に」大きな木があるかの様な印象を受ける。勿論それは間違いで、近付くに連れ徐々に僅かずつ見かけの大きさを増し、やがてこちらに向って倒れ込んで来るかの様な独特の威圧感をもって眼前に迫ってきた。
その時、微かにではあるが子供の声の様なものが聞こえた気がした。気の所為かと思ったが、隊商の一団が一斉に声を張り上げて「ミニュ!ミニュ!」と繰り返し叫んだところを見ると、そうではない様だ。しかし、何処にも人影は見えないし、隊商も立ち止まることなく巨木を通り過ぎ、池の方へとより近づいていく。
池の畔へと辿り着いた時、隊商の人々はいつもの野営の装備一式を出し火を起こし湯を沸かし始めた。薪になる物はそこらじゅうに落ちているので、何の滞りもなく手早く野営の準備は整った訳だ。ただ、相変わらず私達以外には、人影は見えない。
市も立たない様な田舎等に行商に行った場合、その地の顔役に挨拶し、不平不満が出ない様、村人に十分声を掛けて貰ってから取引を行う事は間々ある。また、そうした方が自分の持参した物と、相手方の持っている物を十分に検分してから取引自体も公平に行いやすい。とは云え、何の挨拶もしていなければ、人影すら未だ見えない状況で野営を行う事に私が戸惑っていると、隊商の人々が私に種明かしをしてくれた。
「ごめんなさい。事前に言ってなかったですね。私達が丘を越えて、このミニュの土地に入った時からミニュの人達はずっと私達の事を見てるんですよ。で、私達が本当に敵意が無いかどうか確認してるわけです。そんでもって、煮炊きをして野営をする所までがその確認の方法なんです。」
しかし敵意が無いかどうか確認すると言っても、何の障害もなく自由にここまで入れて、野営までしていている。何がどう敵意の確認になるのか分からない。私には何とも悠長な事にしか見えなかったのだが、実はそうではなかった様だ。
「彼等が気にしてるのは、悪霊の類ではないかと言う事の様ですよ。水辺の傍で火を焚いて食事をするという事で、一先ず私達が間違いなく人間である事を確かめてるんです、多分……あとは彼等にとって巨木は大事な大事な家というか村のようなものですからね。今じゃこうして細々とではあれ、交易も行われる訳ですから、中には欲深い奴等が略奪しようとした事もあったんじゃないかと思いますけど、悠長に飯食ってりゃ上から狙い放題な理由ですからね。少なくとも、野盗の類では無い事が分かるということじゃないですかね?まあ、彼等の考える事は、よく分かりませんけどもね。ともかく、もう暫くして日が沈んで真っ暗になると、巨木に火が灯りますよ。そしたら、人が確かに住んでるって事がよく分かるはずです。」
そうこうしているうちに日が暮れていき辺りを闇が包むと、不思議な事に巨木の枝がぼんやりとだか、闇の中に浮かび上がった。