交渉
私達が階段を上がるに連れて、後ろからミニュの人々もぞろぞろと上がってくる。
先程までの異様な空気は霧散して、手に手にいつもの袋を持ち、賑やかに話す人々もいる。一応儀式めいた出迎えが終わったので、ここからは良くある市場の様に、それぞれ品物を遣り取りするのだろう。そこに緊張はあまり感じられず、声も心なしかやや期待で弾んでいるようだ。
私達が階段を上り切れば、広場には商人達が用意した自分の荷に早速張り付き、今か今かと待ち構えている。私達が路地に向かって歩を進める間にも、呼び声が起き始めていた。
さて道々歩きながら、何と先程の若いミニュの娘が、私達に向かって、分かる言葉で自己紹介をし始めた。ただ、分かる言葉とは云っても、それはたどたどしく文法的な間違いも多々あるものであったのだが、とにかく理解出来る事には違いない。
何にせよ彼女が言うには、自分は長老の子の子、つまり孫であり、言葉が多少分かるので、話をする為に同行するのだそうだ。
名は「ピニョ」と言うらしい。実際には、もっと長々と名乗っていたが、正直言って覚えられなかった。異国の人名というのは、言葉が似ていれば兎も角、聞いた事も無い単語の羅列に等しい。
そう言えば、長老は何と言う名なのだろうかと思ったが、名を呼ぶ様な事も無かろうし、非礼があってはいけないので、訊く事無く黙っておいた。
そもそも、呼び掛ける時に、どう呼び掛けるかも知らないのだ。考えてみるがいい。私達は便宜上、彼を指して「長」や「長老」等と呼称しているが、彼の社会的地位が何か実際よく分かっていなかった。一つの都市の統治者に匹敵するかも知れないのだ。上から袋と綱で吊り下げられるという、私達であれば些か間抜けですらある格好で現れたが、世の中には馬車と言う物が在るし、群衆の中では馬は扱い難い為、人に輿を担がせてその上に坐す人々も居る。袋と言えども彼のそれは、為政者としての権威ある乗り物かも知れないのだ。
さて、話を少し戻そう。その娘が私達の言葉を話すという事には、隊長も驚いていた。今まで、この様な事は無かったという。「これで交渉が、円滑に進めば良いが……」と彼は呟いていたが、確かにその懸念は分かる。言葉が曲がりなりにも通じるという事が、商人にとって必ずしも良いとは限らない。今までよりも、交渉が複雑になるかもしれない。
何時の間にか、僅かな交易の機会を捉えて、言葉を学び取っている。目先の事だけではなく、先を読んで居なければ無理だ。一朝一夕で出来る事ではない。ミニュの人々は純朴に見えて、意外と強かな様だ。
ただ、私にとってみれば、有難い限りである。冬を此処で越したいと、どの様に伝えれば良いかと頭を捻っていたが、意外と簡単に行くかもしれない。
また、冬の間に意思を疎通するだけでなく、より相互に理解できるよう、言葉を教えてもいいかも知れない。もしかすると、商人達にとっては、余計な事かも知れない。ただ、反対にミニュの人々に利があるとなれば、私の滞在はより受け容れられ易い筈だ。
そうこう考えている内に、いつの間にか私達は部屋に到った。
彼等を招いて中に入るが、特に護衛の様な者を長老が引き連れているわけでもない。娘以外の従者が居る訳でもなく、威厳と言うものがそれ程感じられる訳でもなく、彼は飄々と中に入って来る。
部屋の広さは私達四人には十分だ。これから遣り取りする事になる荷を挟んで、あの寝具と思われる大きな袋に腰掛け向かい合った所で彼は、自分の孫に一言二言何かを伝えた。
「ありがとう、入る、私。」
と、孫が訥々と単語を並べたが、意味は分からない事は無い。「私達が入った事について」、つまり「迎え入れてくれてありがとう」という意味だろう。彼女の発する言葉は、先程からこの通りで、分かり易いとは決して言えない。恐らく未だ、言葉の活用というものを理解していない様だ。この分だと、どの程度まで、私達の言葉を理解するのか分からないと、一抹の不安を覚える。ただ、それでも理解している者がいるだけ、以前よりはずっと意思の疎通は簡単な筈だ。
部屋の扉を閉める訳でもなく、屋根も所々開いている。「枝の洞窟」の中には、「広場」の喧騒が満ち始めている。それなりに離れている筈の私達のいる部屋の中へさえ、何事か遣り取りする声が、商人のものもミニュの人々のものも、木霊しながら届いて来る。
外より少しだけ薄暗い部屋の中で行われる交渉は、意外と退屈なものであり、互いに何か駆け引きする様な事も無く、ただただ淡々と続いて行くかに見えた。隊長が荷を開けて見せては、長老が中身を確認し、孫が書き留めていく。
そう……書き留めている!文字が在り、筆記具が在る!
私の驚きはそこだったのだが、隊長は長老と荷について遣り取りしている為、気付いていないか、特に気に掛けていないかの様だ。娘は、まるで貴族の子弟か、僧侶の見習いか、何の衒いもなく、いつの間にか取り出した筆記具で何事か書き込んでいた。
途中から、私達の人数の事も有るのだろうか、計量の様な事をし始めた。見たままで荷の大体の量は分かっても、実際に量らねば本当に私達に提供するもてなしに釣り合うかどうか分からないだろう。彼等がきちんと計量すると言った商人の言葉は、どうやら本当だった様だ。
彼女が袋から器を取り出して長老に渡すと、彼はそれで掬っては塩を袋に移していく。重さを量れば直ぐだとは思うのだが、生憎ここには重い物を一遍に量れる様な秤はない。彼等も持っては居ないし、商人の持つ棹秤は、普通は片手で持てる程度の重さまでしか量れない。
もしかすると、塩の質と底に石や砂の類を入れていないかどうか、きちんと確認しているのかも知れない。防水用に樽に入れてあるので、外からは中がどうなっているのかなど、窺い知る事は出来ないからだ。実際、あくどい商人の中には、上げ底や混ぜ物で誤魔化す者等も居る。その為、塩や穀物等を取引する商人は、よく金属で出来た筒を突き刺し、中に詰まった物を見て品物が見た目通りの質であるかどうか確認したりする。
別にこの長老の行為は、私達を疑っているものではなく、取引に置いては当然の確認作業でしかない。
だが当然、長老が持ってきた袋は移された塩で、直ぐに一杯になった。長老が声を掛けると、娘が直ぐに自分の持っている袋を出したが、馬二頭分の塩を納め尽くせる筈がない。大体、袋に全て詰めたところで、老人と若い娘の二人だけで、全てを持ち帰る事も不可能だろう。
どうするのだろうと眺めていると、一樽分を袋に移し終わった所で娘を呼び、二人がかりで別の樽を持ち上げようとした。ただ、それ程大きくは無い樽とは言え、その重さは老人と、また幼さすら残る娘との手には、少々重過ぎた様だ。
「これ、それ。」
と、娘が指で新しい塩の詰まった樽と、空になった樽とを交互に指す。どうやら、移したいと言う事らしい。元々私の荷であるし、この部屋に運ぶ時に全く手伝ってもいなかった私は、さっと立ち上がると樽を持ち上げ、空になった樽へ向けて傾けた。
娘と長老が、二人して樽の中から塩を掻き出していく。完全に移し終わり、樽を私が下ろすと、また再び他の樽と空になった樽を指さす。こう言った事を何度となく繰り返していった。
樽一つ一つはそれ程大きくはないとは言え、何度も繰り返すと流石に大変だった。腰も痛めるかも知れない。途中からは隊長も参加して、時には交互に移したのだ。
全ての樽が一度ずつ空になった所で、二人は更に袋の中の塩を樽に戻し席に着いた。
席に着くと、娘は何やら再び書き込んでいく。そして長老と、何を言っているのかは分からないが、暫し会話し、それから私達に向かって言った。
「たしかに、食べ物、と、水、あなた達、と、驢馬。」
私がここに書いている事を読む者は、何を言っているのか、一々考えるのが面倒だと思うかも知れない。しかし、私が聞いたのはそのままこの言葉なのだ。
想像力を働かせて欲しい。恐らくこれまで市を立てては品物を取引する度に、互いに通じないと思いつつも使っていたであろう商人達の言葉を、彼女は少しずつ覚えて使っている。誰かが系統立てて教えた訳でもなく、最低限の物の名前程度の言葉で、どうにかして伝えようとした努力の結果なのだ。
私達はここでは異邦人であり、むしろこの場で合わせるべき少数者であるのに、彼等は私達の言葉を覚えて使おうとしている。私達こそ、それを正しく理解出来るよう、務めるべきだろう。
恐らく少女が言いたいのは「確かに、人馬の分の食料と水等と見合う量だ」という事である。自分が逆の立場だったらどの様に言うか考えてみると良い。それ程多くの言葉を知る訳でもないのに、自分の意思を伝えるため言葉を紡ぐと言うのは、とても大変な事だ。
さて、この作業をしながら、私は二つの事に気付いた。
まず一つには、この移し替えはやはり質と量の確認の為だという事。中身を底まで見る事で、「上げ底や混ぜ物を、底の方に入れている」事が無いかどうか確認している。
二つ目には、「彼女は計算が出来る」という事だ。二人は一樽の量を、器を用いてどの程度かまず計量した訳だ。その後で全ての樽を順に移していく事で、それらがほぼ同量である事をも確認している。
隊長の事前の話では、順に人数分取っていくとの事だった。そこで全て器で量り終えるまで、一体どの位の時間がかかるのかと当初考えていたが、意外と素早く終わったのである。
それがどの様な計算法なのかは知らない。私達を巨木の外で出迎えた時点で、彼等は私達の総数を知っている筈だ。何故なら、ほぼ同数で迎えに来たからだ。恐らく儀礼的な意味が有るのであって、ただの偶然とは考えにくい。
後は日数だ。商人が十日間程度と、私が馬と共に一冬。
隊長が「十日程ここに居て良いか」と尋ねると、娘が長老に言葉を耳打ちし、長老が直接「まあ、良い」と答えた。恐らく今まで市を立てて来た中で、この程度の言葉は取引成立を表すものとして、皆が理解しているのだろう。
私が隊長に、私の事も伝えるように視線で促したところ、私を指しながら「この人を一冬の間滞在させたい」と伝えてくれた。
ただ意外だったのは、ここまで割と簡単に意思の疎通が出来ていたと思ったのに、娘が意味が分からないという様にまごついている事だ。初めわざと躊躇う事で「駆け引きでも仕掛けてくる気か」と私は考えたのだが、どうもそうではなく本当によく分かっていないらしい。長老が娘に言葉を訳すよう促すが、娘はどう伝えれば良いのか分からないようだ。
多分「冬」という事が上手く伝わっていないのだろう。私が不用意にしゃしゃり出るのもどうかとは思ったが、「次の市が開かれるまで、彼等がもう一度来るまでここに居る」と言い直すと意味が分かった様だ。今度は、すんなりと長老に伝えてくれた。
長老は少し考えている風でもあったが、この部屋にある荷をもう一度見回した後、「まあ、良い」と承諾の意を示してくれた。
「まあ、良い」とはぶっきらぼうな言葉に聞こえるかも知れないが、要するにその条件で良いと妥協する時にでも、商人達が使っていた言葉を覚えたのだろう。他意は無い筈だ…多分。
ただ自分の事は、追加の条件でしか無い。そこで、彼等には別に何か対価として差し出すべきと思い、差し出す事にした。塩の他に少しばかり用意していた鉄の短剣を一振である。
長老はそれを受取ると、何なのかはすぐに理解した様で、娘に手渡し「まあ、よい、とても」と私に微笑み掛けてきた。
一先ずぎこちないものではあるが、取引の様な事は終わった。どうやら私は、この巨木の中に受け容れられそうだ。