群衆
彼の部屋に行くと、丁度私の荷を運び終えた所だった。
何も手伝う事も無く、呑気に用を足していて申し訳なかったと思うのだが、元々向こうからの申し出でもある。それに、隊商長にせよ、私の雇った馬引きにせよ、手伝っていた他の商人にせよ、別段気にはしていない様である。まあ、彼等の利益にもなるのだから、当然かも知れない。
気を取り直して、彼の部屋に入ると、私の部屋よりもずっと明るい事に気が付いた。外が近い所に在るからという事だけではなく、上を見れば屋根の一部が開いている。
私は焚火で身体を温める事に必死で、自分の部屋では何も気付かなかったが、どうやらこの建物の屋根は、垂れている紐を引く事で簡単に開くらしい。人の通り抜けられる位の穴が、幾つか屋根に開いている。
こんな事で屋根の用を為すのだろうかと、一瞬疑問に思ったが、そもそもここは枝の中だという事を思い出した。この屋根は、風はともかく雨を防ぐ必要は無いのだ。屋根というよりも、単に暖気が逃げない様に覆っているだけ、と言った方が良いかも知れない。
部屋の中に置かれている私の荷は、適当に整えられ、ミニュの長の到着を待っている。私達が後で認識の食い違いから面倒事など起きないよう、部屋の中で互いに手順について話し合っていると、外が少し騒がしくなり、商人の一人が「そろそろおいでになる様ですよ」と知らせに来た。
部屋を出て、路地の様な壁に挟まれた通路を抜け、最初の広場を通り過ぎると、枝の付け根の階段の下に、ミニュの人々が居るのが見えた。私達が巨木の中の「回廊」から上がった階段だが、それなりの高さが回廊から見ればこの広場まである為、割と近付かないとその下に人がいるのは見えない。
階段を下り始めると、当然枝の付け根は広がっている訳で、急激に視界が拓ける。見れば左右に伸びる回廊には、かなりの人数のミニュの人が居るようだ。改めてこの巨木の大きさを思い出したが、左右に伸びる回廊が続く反対側の外壁の方まで、人々が溢れている。
更に反対側の外壁に刻み込まれている階段をつたって、後続の人々がまだまだ下りてきているのが見えた。人々は市が立つ前の期待に満ちている様で、別段騒いでいる訳ではなく、寧ろ物静かでさえ有るのに、人が多数集まった時に特有の静かな、低くくぐもったざわめきの様なものが、巨大な円筒の中に満ちている。
薄暗い巨木の中に木霊する、群衆のざわめき。この光景は一種異様なものがある。
一体、どれ程の人が居るのだろうか。一周、恐らく六百歩は有する回廊は、その幅一杯に人々を抱え込んでいた。このミニュに着いてから、出迎えに来た人々に会った時、久々に多数の人を見たという気になっていたものだが、今見ている数はその比ではない。千人では、利かないだろう。また、その人数は着々と、新たに降りて来る人々によって増している。私はミニュの巨木に、少し大きな農村の様なものだろうと云う思いを抱いていたが、その認識はこの状況を見て一気に変えられた。
ここは都市だ。高い城壁の中に包まれている都市だ。
そもそも、出迎えに来た人々を思い出してみれば良い。その服装や持ち物こそ、他に類を見ない変わった奇妙と思えるものではあったが、その質や拵えは洗練されているとも言える。それだけのものを作る為には、技術を持った職人達も必要である訳で、ここが農村の様な場所ではなく、様々な職種の人々もいる都市なのだという事が分かる。
また、よく見れば、人々の服装も一様ではない。色や模様だけではなく、裾の長さや形状等、恐らくその人の仕事や役割に合わせた違いが見受けられる。
ここが都市であると言う事は、単に人数を見て言っている事では無いのだ。
階段を下り切り、反対側の外壁に刻まれた螺旋階段を降りて来る人々が、列を成しているのを眺めつつ、それが一体どこまで続いているのだろうかと視線を上げると、遥か上から光が射し込んでいるのが見えた。枝の付け根の階段を下り切った所にいると、他の場所に比べて遥かに視界が広い。普通なら、回廊や階段の天井で上への視線は遮られる事になるが、ここは枝の付け根の広がりに沿って滑らかな曲線を描いて、壁が切れ上がっているからだ。
ここに上がって来た時には、全身ずぶ濡れで冷えきっており、とてもではないが周囲を観察したり、上を見上げる余裕は私には無かった。また、上を見上げようとして、再び足を踏み外すことを恐れていたので、無理もない。
私は一体どうして、ここに上がってくるまで、上を見上げる事を我慢出来なかったのだろうか。もう二度と、巨木の根元の池に落ちる様な真似は、したくないものである。
兎も角、光の射し込み具合から推測するに、どうやらこの巨木の虚は上方、否、寧ろ上空とでも呼ぶべき所で空に向かって開いているらしい。薄暗いとは言え、壁伝いに歩く程度には支障のない明るさがある。
ミニュの長は、一体どの様な人物なのか、回廊に居並ぶ群衆を目で追いつつ探すが、特にその様な人はいなかった。回廊は既に溢れんばかりであり、長が来るとしたら何か動きがあるはずだ。恐らくまだ、もう暫くは来ないのだろう。
そこでミニュの人々と、巨木の中の構造を観察を続けていると、人々の視線が私達の上に注がれている事に気づいた。