其の一・『カタクリコ・コムギコ』
リハビリ作、全三話短編です。
背筋が凍る思いだった。
目の前にいる女性都築華子。
恋人として同棲を始めて1年は立つ。華奢な身体とキュートな吊り目が特徴的な女の子、それが彼女だ。
普段はのほほんと柔和な性格なのだけど今この時ばかりはそんな面影など一片も感じられない。
それは仁王像か、阿修羅像か、はたまた最近はじめた携帯アプリのSレアキャラ竜王バハームート様か。
とにかく怖い。
僕は黙って俯き、彼女の腹の虫が収まるまで朝礼の校長先生の長話よりも延々と続くその小言に耳を傾ける。
「聞いてるの大ちゃん、私怒ってるんだよ!」
「あぁ、勿論。本当にゴメン」
「もう、全然誠意感じられないよぉ! ホント信じられないっ!」
華子の怒りはまだまだ絶頂だ。
もう何十分僕は頭を下げ続けているのだろうか。
さて僕も今年で齢25を越え、世間からはそれなりの大人として見られるようになってきた。
若かりし頃、とか言うとオジサマ方から総ツッコミされる若輩だが、敢えて若かりし頃という表現を使わせてもらおう。
そう若かりし頃僕は色々やんちゃをしてきた。
不良や暴走族なんておままごととは一切縁が無かった一般庶民の僕に何が出来るのかって?
当然大それたことは何もできやしない。
殺人、強奪、暴力、強姦、詐欺、浮気、親不孝、怠慢。
そんなものも勿論無縁だ。
この国の『法や条例』。子供の頃から植え付けられた『常識や倫理』。当たり前とされる『礼節や振る舞い』。僕にはそんな枠組みから外れるだけのぶっ飛んだ価値観は持ち合わせていない。
ただ僕は貧乏だった。
ボロボロになるまで働きながらなんとか卒業した学生時代。
必死で卒業した僕の手元に残っていたのは奨学金と学生ローンという借金だった。
当時決まっていた内定先企業の安月給じゃ返しきれない額だった。
とにかくお金が欲しい。身綺麗になりたい。
その一心で僕は内定辞退し、当時週刊誌に掲載していた胡散臭い広告の胡散臭い高級案件に応募し採用された。
当時横行していた悪徳系の訪問販売――マルチ商法やら高額布団売りやら家庭用太陽光発電やら、まぁ僕が入社した会社もそんな胡散臭いお仕事を取り扱う所だった。
今でこそ悪徳セールスやら法令違反の企業など時代がらごっそりと減ってきたが、ブラック企業のニュースを見ない日は少ない。
だが当時は今以上に労働者や消費者を守る枷は軽かった。
契約が取れない営業マンが上司から流血沙汰の暴力を振るわれようとも、正常な判断力ある大人が一度交わしてしまった契約を解除できずに見過ごされてしまうこともざらだった。
僕はそんな世界の黒い一面を日常とする世界に脚を踏み入れた。
ただ自分の懐事情のためだけに心優しい一般人から搾取し、先輩に取り入り後輩を傷つけていった。
僕は悪くない、あくまで会社の正常な業務に基づいて行動している。
当時は本気でそう思っていた。
はは、お気づきだろう。これってブラック企業やら新興宗教やらがお得意の『そういう風土だから』ってヤツだよ。
全国どこでも目にする有名居酒屋チェーンが「ウチはそうだから」っていうだけでサービス残業を当たり前とし人をモノとして酷使するのも、世間を騒がせた超有名ビジュアル系ロックバンドのボーカルが「これは洗脳じゃない」と主張しながら何億もの大金を洗脳され搾取されたとしても、取り返しがつかなくなるまでその異常を異常として認知できなくなったりもする。
だけど行動するのも選択するのも自分だ。
僕はたまたまの巡り合わせでその劣悪な環境を過去の思い出として振り返れるまで成長し、今ではごく普通の会社に勤め、ごく普通に生活し、ごくごく普通の彼女と生活を共にしている。
きっと、この彼女の癇癪だって見方を変えれば普通なんだ。
「――ちゃん、大ちゃんってば、ねぇ、聞いてるの加佐平大吉!!」
「ひぇ、ひゃ、ひゃい!」
「ふ~ん、そうなんだ。大ちゃんってばダイジなダイジなお話し中にぼーっとしちゃうようなイケナイ子だったんだぁ……」
「ひゃう」
華子は椅子の隣の床をそっと指差す。
そしてぷっくら膨らんだピンクの愛らしい唇をゆっくりと動かす。
「そこ正座、ね」
僕の中でこの日常はいつまで日常でいられるのだろうか。
女性のヒステリックな行動には未だに経験不足が否めなかった。
◇◆◆◆◆◆
「あっはっは、あっはっは」
「せ、先輩、笑い過ぎですって!」
翌日の昼休み、ランチを食べながら僕から昨晩の顛末を聞いた外商部課長、上野原文彦先輩は腹を抱えて甲高い声で笑い転げていた。
「だ、だってなぁ。はは、キミ、深刻な相談をしてきたと思いきや何なんだいそれは」
「い、いたって僕は真面目ですよ」
「あぁ、そうだね。ああ、キミは真面目だとも」
「ですよ!」
上野原先輩は春の日差しに当てられた薄紅色の頬と切れ長な目元をこちらに向け、小悪魔的にこちらに向かって微笑む。
そのセクシーな仕種にドキリと心臓の鼓動が高まる。
相変わらず男のクセになんちゅー美人面だ、どこのスキュリオン君だよ!
「加佐平ぁ。じゃあさ、そんなワガママな女、ぽいっと捨ててボクと付き合う?」
「ぶふぉっっ」
僕は口に含んだアイスコーヒーを盛大に中庭に向かって噴射した。
「わははっ、見事な噴水だねぇ」
「せ~ん~ぱ~い?」
「う……ちょっとした茶目っ気じゃないか。そんなに睨まないでくれたまえ」
女の子の様にしゅんとした態度に一瞬罪悪感を抱いてしまうもののすぐさま我に返る。この人は紛れもない男だ、ブリオーニの高級スーツを着こなす社内売上ナンバーワンのスーパービジネスマン。社内『イケメンランキング』万年トップの色男だ。決して男装した麗人ではない。
「で、喧嘩の原因はキミの料理、と。一体何を作ったのさ?」
「唐揚げです」
「は?」
「鶏の唐揚げです」
「……いや、それは分かるけど、唐揚げで何で?」
◆◇◆◆◆◆
鶏の唐揚げ。サクサクでホクホクでジューシーな一品。
週末、過去からのリクエストで僕は夕飯に唐揚げを作った。
調理法は至ってシンプル。
鶏のもも肉を適当な大きさに切って、にんにく、生姜、酒、醤油などに漬込む。
そして味がしみ込んだところで水分をきって衣をまぶす。
170度ほどの中温の油で2~3分揚げてから取り出し、2~3分余熱だけで中まで火を通す。そして最後に180度の高温で1分ほどもう一度上げる。
中温と余熱で柔らかいジューシーさを、そして高温でカリッとさせる。所謂一般的な二度揚げの手法だ。
そしてサッパリのレモンの切り身。茹で卵とピクルスで作った自家製タルタルソース。ネギの上に熱したごま油をかけた3種を用意。
後はスープとサラダ、小鉢にかぼちゃの煮物と蕪のお新香と小魚の佃煮を用意した。
ご飯も丁度炊きあがった。
うん。日曜の男が作る夕飯としてはまずまずの及第点ではなかろうか。
僕は笑点(主に黄色の服の師匠)を見ながら爆笑していた華子を呼び、食卓に座らせた。
「わわ、大ちゃん、さっすがぁ。どれも美味しそうだよぉ」
「それはそれはありがとう。でも感想は食べてから、ね」
「えへへ、大ちゃんダイスキ! では、いただきまぁす」
彼女の笑顔に満足げに頷くと、僕も華子の正面に座り箸を持つ。
うん、見た目は問題なし。我ながら良い出来だ。
「――なにこれ……」
「え?」
「大ちゃん、この唐揚げの衣……おかしいよ?」
「え、そんなはずは」
一口食べる。うん、いいカンジでサクサクホクホクだ。
別におかしい所はない。
「うん? 別に変な所はないと思うけど?」
「絶対変だよ、なんかちょっと固い。ちゃんと小麦粉使った?」
「へ……使ってないよ?」
「なんで?! はぁ、それじゃ唐揚げじゃないよ!」
「いや、僕が使ったのは片栗粉だけど」
唐揚げの衣には様々な流派があるが、大まかに分けて『小麦粉』『片栗粉』の比率、そして卵を混ぜるかどうかで分けられる。
これは出汁や味噌と違って地域的ではなく、家庭的な問題だろう。
が。
「大ちゃん。美味しい唐揚げって、柔らかい衣にホクホクの身が詰まってるものなんだよ。それは小麦粉の衣がベストなんだよ」
知らないっすよ。そんな都築さんチの食事情何て知らないっすよ。
「大ちゃんは私の事好きじゃないの? 愛してないの?」
「も、もちろん好きさ」
「嘘! じゃあなんでこんな風にかっちかっちな衣の唐揚げなんか作っちゃうのよ!?」
ウチの彼女さん……なんなんだ、この唐揚げに対する異様なこだわりは。
華子さんの過去に何があったんだ?
こんなんただの家庭の味付けの違いみたいなもんだろ、いい大人が割り切れよ!
「も、もぉぉ、大ちゃんの馬鹿ぁぁぁぁぁ!」
◆◆◇◆◆◆
「というワケなんですよ」
肩をピクピクうごかして息絶え絶えな上野原先輩。
「はぁ、し、しぬぅぅぅ……お腹苦しい……」
「先輩?」
「笑い死ぬぅぅ。な、何なんだそれは!」
「へ?!」
理不尽に意味不明な逆ギレをしてくる上野原先輩。アンタもヒステリックなレディーっすか!?
「あの、僕、ホントに彼女と上手くやっていけるか心配して相談してるんですけど!」
「くく、ぷぷぷ。はは、そうだね、心配いらないよ」
「先輩、そんな簡単に。彼女めちゃくちゃ怒ってたんですよ」
「心配するな加佐平」
「上野原先輩?」
「キミがフラれたらボクがキミを貰ってあげるよ。専属シェフとして、ぷぷ」
もうテーブルの上で笑い疲れて虫の息だ。
「もう金輪際先輩には相談しませんよっ!」
◆◆◆◇◆◆
さて、そんな頼りになるのかならないのかよく分からない先輩とのやりとりもあり、世の中頼りになるのは自分の価値観だけどと改めて思い知った僕は手早く仕事を終えて彼女よりも先に帰宅した。
食事の失態は食事で取り返す。
流石に平日で買い物に出る暇はなかったが、冷蔵庫の備蓄だけでなんとかなるだろう。
僕は着替えとシャワーを済まし、急いで夕飯の準備に取り掛かった。
それから40分、彼女が機嫌よさげに帰宅した。
「ただいまぁ」
「おかえり、華子」
「あの。大ちゃん、昨日はごめんなさい。私つまんないことでムキになっちゃって。ホントごめんね」
「いいっていいって。ところで夕飯出来てるけど食べる」
「うん、もっちろん! おなかペコペコ。今日の献立はなぁに?」
「はい、昨日の鶏皮で作った鶏皮ポン酢」
鶏皮ポン酢。居酒屋や焼き鳥屋の定番メニュー。
しかしこのメニューも、鶏皮を茹でた柔らかいものと、油を抜きながらカリカリに熱したものと二通りのメニューが存在する。
昨日の轍は踏むまい。
僕は丁寧に茹でこぼしをして臭みを抜いた鶏皮にポン酢をかけた一品を彼女の前に置いた。
「大ちゃん、何でコレこんなに柔らかいの? カワポンって言ったら普通サクサクだよね?」
「え?」
彼女の表情から色が消えていく。
まさにこれは昨日みた光景の焼き直しだ。
「こんなフニャフニャなのカワポンじゃないよ? 大ちゃん私の事好きじゃないの?」
なんじゃそれぇぇぇぇぇぇええええええええ?!
かさだいら日記を読んでいる方にはピンとくる大吉くん。
一応あの後日談的内容も含まれています。